戦線離脱(2)
五試合目――準決勝一回戦は、 バドレスがリングを派手に壊したお陰で、復旧が終わるまで延期になった。とはいえ一回戦後に見たのと同じ、筋骨たくましい獣人達が作業を進めているのだから、大して時間はかからないだろう。
外に投げていた視線を戻したついでに、さりげなく室内を見渡してみる。現在勝ち残っているのは、ガルムと俺、 それから例の外見的特徴が見当たらない男アスピスと、妖艶な雰囲気をまとったレイチェルという名の女性だ。
アスピスは、長椅子に足を組んで座り、目を閉じていた。ただ、眠っているようには見えない。うっすら笑んでいるような口元が、どこか不気味に映る。年は二十代後半というところだろうか。相変わらずどんな能力を持っているのか、見た目では分からない。
彼は次の準決勝一回戦の出場者、つまり対戦相手はガルムだった。一見細く頼り無い印象しかない男にガルムが負けるとは考えにくいが、 ここまで勝ち上がったのは確かだ。用心するに越したことはないだろう。アクエリアやバドレスのように目に見えた特徴がないぶん、底知れぬ力を秘めている可能性が高い。
一回戦でガルムの手の内はバレているのに、 二回戦を見ることが出来なかったのは、やはり痛手だったんじゃないかと思う。こちらには、作戦を立てる事すらままならない。
ただ、他人のことばかり心配しているわけにもいかなかった。不利なのはガルムだけじゃない。 俺だって対戦相手であるレイチェルの戦闘スタイルを知らないのだから、条件は同じだ。
レイチェルは二十代前半くらいの獣人だった。腰までの長い髪が美しい。華奢でしなやか、まさに女性らしさが全面に出た雰囲気で、 こんな殺伐とした場所にいるよりは華やかな街で買い物でも楽しんでいる方がずっと似合っている。
男性陣を挑発するような、体の線が出る服を着ているのも、違和感の元だった。少なくとも戦闘に向いた服装とはいえない。何を考えているんだか知らないが、三回戦で彼女と戦った男は、救護室送りになっている。油断はしない方がいい。
「おい隼人。なに暗い顔してんだ?」
ふいに、黄緑の瞳が俺の顔を覗き込んだ。突然の乱入に驚いた俺を見て、してやったりとばかりにニヤリと笑うと、 ガルムは持っていた小さな紙袋から今川焼きのようなものを取り出して、ほらと差し出してきた。姿が見えないと思ったら、また食い物を調達しに行っていたのか。呆れ顔を隠せない俺の心中を読み取ったのか、 これはそこで自分のファンに貰ったんだと言い訳をしだしたが、 本当のところはどうだか分かったものではない。
まあ無理に追求することでもないかと溜息一つで大人しく受け取り、 ほおばりつつ、そっと顎を向けてアスピスを指し示した。
「あいつ、どう思う」
「ん? どうって何だよ」
「俺達、二回戦見てないだろ。だからあいつの戦い方も種族もまるで分からない。 見た目でも判断がつかないし……ちょっとは用心した方が良いんじゃないのか」
紙袋の中に次々と手を突っ込んで食に徹していたガルムは、 とりあえず口の中にあったものを飲み下すと、わざとらしく胸を張って見せた。
「何だビビってんのか? 俺様が負けるわけないだろ! 今一番人気の『百戦錬磨のガルム』だからな!」
実に能天気な、ガルムらしい台詞だと思う。微笑ましささえ感じながら、それでも少し食欲が遠のいて、焼き菓子を口元から離した。
勿論ガルムの強さなら熟知しているし、アクエリア戦を目の当たりにした今、評価は更に上がっている。心配ないだろうとは、思うのだが。
「……何か悪い予感がするんだ」
視線の先のアスピスを、静かに見つめた。 相手がこちらに気づいている様子は無い。なのに背中を、悪寒のようなものが走りぬけるのを感じる。
恐怖を感じている、という訳ではない。強敵から感じるプレッシャーとも、少し違う。ただ、何故か気分が悪い。理由さえ分からない、奇妙な不快感。
「とにかく気をつけたほうがいい。上手くは説明できないんだけど……」
『お待たせしました。リングの修理が完了致しましたので、 準決勝一回戦に出場される選手は、舞台上へと移動してください』
スピーカーから大音量の放送が流れ、言葉を途中で遮られた。「 お、出番か」と呟いて、持っていた紙袋を俺に預けると、ガルムは楽しげに尾を左右に揺らしながら舞台へと向かった。リングへと通じる短い階段に片足をかけながら振り向いて、不安顔の俺に笑ってみせる。
「大丈夫だよ。俺様は負けねえさ。決勝で会おうぜ、隼人」
「ああ」
根拠など何処にもない。理由も原因も分からない。なのに無駄に心配をかけても仕方が無いと、俺も出来る限りの笑顔で応えた。ガルムは満足気に頷いて、ゆっくりとリングに上がっていった。
少し遅れて、アスピスが続く。目は合わなかった。俺の視線を、あえて無視するようでもあった。
両選手が舞台上に出そろい、通例どおりの選手紹介が終わる。合図と同時にゴングが響き渡り、かくして、準決勝第一試合の幕が切って落とされた。
俺一人の胸のうちに、言い知れぬ暗雲を残して。
* * *
試合開始早々、両者は同時にトランスを開始した。一瞬早く終わったのは、謎の男アスピス。何を模した姿なのか、視覚が捉えるよりも早く地を蹴ると、ガルムに向かって突進した。
トランス後のガルムなら、余裕を持って避けられる速さだった。ただ、 トランスが完了する直前の隙を狙われたせいか、僅かに反応が遅れた。反射的に身を翻しはしたものの、アスピスの爪先がガルムのわき腹に――軽くかすっただけだったが、当たったのを見た。
ガルムは跳び退ると、即座に体勢を立て直した。完全な人狼となったその瞳は鋭く、隙がない。わき腹の傷を気にする素振りはなかった。今こちらからは見えないが、大した怪我では無いようだ。ほっと胸をなで下ろす。
アスピスはガルムを見て、何故か笑ったように見えた。それも一瞬のこと、すぐに跳躍してガルムから距離を取る。そうして戦闘が始まった時点と、入れ替わるような位置に立った。お陰で控え室から、アスピスの姿がよく見える。
地面を踏みしめた足の間に、長い尻尾のようなものがついていた。肌の表面には、深い緑色をした鱗が、びっしりと張り付いている。蛇と人の複合体、という雰囲気だ。 両手の先で、鋭く細長い爪が光る。口の端からは爪と勝るとも劣らない、鋭利な牙がのぞいている。なかなかに不気味だ。
ただ、鋭い牙や爪なら、ガルムにもあった。速さ比べも、間違いなくガルムに軍配が上がるだろう。腕力に関しては分からないが、トランス前とあまり体格の変わらないアスピスが、優位とは思えない。
何だ、思い過ごしだったのか。胸をなで下ろしかけた俺の視界に、揺らいだガルムの姿が映った。ほんの、一瞬。時間にすれば、一秒もない。よそ見をしていれば気付かない程度の軽いよろめきだったが、蘇る悪寒に心臓を鷲掴みにされた。
おかしい。 前の試合での損傷も無くスタミナもしっかり残っているガルムが、 軽くかすった攻撃だけでダメージを受けるはずがない。目を凝らして表情を窺うと、心なしか辛そうだった。わずかに、肩が上下している。呼吸まで乱れている、と思う。
対してまだ余裕のアスピスは、ガルムに向かって突きを繰り出していた。避けるまでも無いと判断したらしいガルムは、それを受けようと身構えていた。恐らく相手の攻撃を受け流した上で、カウンターを食らわせるつもりなのだろうが。
「待てガルム! 避けろ!」
舞台の端に取り付き叫んだ俺の声が届いたのか。ガルムはすんでのところで、アスピスの攻撃を避けた。サイドステップから助走もなく跳躍してアスピスの頭上を飛び越え、空中で反転しながら俺のすぐ目の前に着地する。
「何っだよ、隼人! 邪魔、すんなって!」
ガルムは未だ背を向けた格好のアスピスに視線を据えたまま、忌々し気に叫んだ。在るべき覇気がない。
やはり、思ったとおりだ。呼吸の端に、苦しそうな喘鳴が聞こえる。
「なあ。本当は今、立っているのも辛いんじゃないか」
「……何を、急に」
ガルムは一瞬の空白のあと、たどたどしく否定しようとした。ただ言葉は思うように続かず、沈黙が落ちる。しらばっくれようとしたのだろうが、態度に表れているのだから説得力はまるでない。自覚しているのだろう。今の状態は、明らかに異常だと。
舞台中央のアスピスが、悠々とこちらを向いた。遠目でも分かるくらいに、口元が歪んでいた。それが笑みだと確信して、覚悟を決めた。
「棄権しろ、ガルム」
顔だけ振り返った狼の鋭い眼光が、俺を射抜く。その眼には驚愕と怒りが滲んでいる。無視して、アスピスを顎で指し示す。自分の勝ちを確信しているのだろう。余裕の笑みを湛えながら仁王立ちする男は、攻撃を仕掛けてくる素振りさえ見せない。
「あいつの爪には、何か仕込まれてるんだ」
奴の攻撃を受けたわき腹を見るよう、促した。訝しげに顔を歪めながらも指示に従ったガルムは、次第に腫れて薄黒く始めている傷口の凄惨さに、驚いたようだ。
「体が痺れてたりしないか。実は呼吸だって、苦しいんだろ」
ガルムは答えず、ただ歯を噛みしめた。わかりやすい、肯定だった。目もかすみ始めたのか、時折眩しそうに眇めて、瞬きを繰り返した。
「多分、毒だ。あいつはそれで、勝ち残ってきたんだ」
アスピスの最大の武器。それは腕力でも俊敏さでもなく、勿論爪や牙の鋭さでもなかった。もっとも恐ろしいのは、そこに含まれた毒。一瞬、それも軽くかすっただけで相手の自由を奪う、即効性の神経毒。
攻撃がかすった時アスピスが笑ったと思ったのは、俺の思い違いではなかった。あの時既に勝敗が決していたことを、彼だけが知っていた。だから笑った。あの笑みは、確信犯の笑み。
恐らく奴は、対戦相手がどうなろうと知ったことではないのだろう。実際、勝ちが決まっているのに攻撃の手を緩めず、更に追い詰めようとした。
このまま戦闘を続ければ、奴の思うつぼだ。自分の体を支えている事すら困難に思える今のガルムと、 ほとんど試合開始直後と変わらないアスピスとでは、一方的な試合展開にしかならない。それどころか。
「動けば動くほど、毒の回りが早くなるはずだ。早く解毒しないと、きっと命さえ危うい。だから棄権するんだ。今ならまだ間に合う!」
早く決断してくれと、焦る思いが叫びに変わった。頭痛がするのか片手で頭を抱えたガルムは、何も言わずにアスピスを睨んでいる。
試合早々動きがなくなった試合に、観客が不満の声を上げ始めた。部隊の下で様子を窺う司会者が、ちらちらとこちらを見ているのにも気付いていた。そろそろ、試合の妨害をするなと注意されてもおかしくない。
四方から迫る緊迫に戦々恐々とする中、ガルムは体全体で大きく息をつき、額にあてていた手をどけた。
「敵前逃亡なんて……そんなカッコ悪いこと、できるわけない……だろ」
自信満々の、普段と変わらぬ台詞で、力なく笑う。獣の毛先から落ちた汗が、玉となってリングに模様を描いた。何かを振り払うように軽く頭を振るが、勿論何の対処にもならない。むしろ事態を悪化させるだけだ。
ただ彼の両の瞳だけは闘志をたたえたまま、アスピスを捕らえて放さない。
「何言ってんだ! そんな場合じゃない――」
静止の声を背に、ガルムは地面を蹴った。その先には勿論、対戦相手のアスピスが待つ。馬鹿野郎、という呟きは、ガルムには届かない。彼の姿はもはや舞台中央、握りこまれた拳はアスピスの腹部に叩き込まれようとしている。
万全の状態なら確実に入っていただろうそれを滑らかに躱して、ガルムの背中に回ったアスピスが、背骨に肘を叩き込む。唾液と同時に舞った鮮血が、陽光の中きらりと輝く。
それでもガルムは倒れない。地面に叩きつけられる寸前で手をつき、反転して蹴り上げる、しかしその足先はまたしても空を切った。避けながら低く構えたアスピスは、長い尾を回して軸となるガルムの腕を払う。
流石に耐え切れず、肩先から崩れ落ちたガルムの腹に、爪先をめり込ませるアスピスの顔は、やはり満面の笑みだった。己の勝利なんて、清々しい理由ではないと分かる。他者を蹂躙する行為そのものへの喜び。壊れゆく過程を楽しむ、歪んだ愉悦。
ぞっとした。仄かに感じた悪い予感、アスピスという男が滲ませていた異常性はこれだったのかと、気付かされた。だが今更理解できたところで、遅い。
アスピスの蹴りは、何度も何度も、執拗に繰り返された。上から横から、角度を変えながらも、同じ部位を狙っていた。歪んだ性格が、しつこく厭らしい攻撃にも表れている。
ガルムは今どんな状態なのか、意識はあるのか。気がかりで仕方ない。遠い上に顔が舞台の反対側を向いていて、確認できないのがもどかしい。
やがて、ひと際大きく足を引いたアスピスが、足先をガルムの腹の下に潜り込ませた。そのまま力まかせに振り上げると、巨大な人狼が宙を舞った。茶色い毛並みが揺れ、腹をかばっていたガルムの腕が無防備に広がり、汗か涎か分からない液体が日差しを反射する。その全てが、スローモーションのようだった。
客席の何処かで、悲鳴が上がった気がした。どうして俺はここで黙って見ているんだと、己を呪いたくなった。
もうガルムは戦えないんだ、反則になろうが関係ない、助けに行けばいいじゃないか。叫ぶように訴える内なる声は、それでも体を動かすに至らない。
ガルム自身がそれを、望んでいないから。危険をおしても戦い続けると、彼自身が決めたから。悔しくても、もどかしくても、耐えるしかない。
でも。だとしても――!
湧き上がる焦燥を込めて見つめた先、変化があった。
狼の姿が、縮んでいく。鋭かった爪の先が、人によく似たそれへと戻る。トランスの解除。ただそれは、己の意思によるところではなく。
「ガルムッ!」
俺が叫ぶのと、司会者が試合終了を告げたのは、ほとんど同時だった。
to be continued...■
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