未知なる力(1)

 島に連れてこられてから、一か月近くが経過した。その間、ずっと戦う術を身につけるための修行を――していたのなら良かったのだが。


 実際には、家事手伝いのスキルばかりが上達する日々を送っていた。日課の水汲みは勿論、薪割りや食料調達、挙句の果てには炊事洗濯の真似事までさせられている。

 体力をつけるというお題目に従うなら、前半部分はまだしも後半部分は余分なんじゃないか。不満は溜まる一方だ。そもそも、こういった雑事をやらせる為に、上手いこと俺を言いくるめてここまで連れてきたのではないかと、疑いすら抱いてしまう。


 ここ数日続きの雨のせいで溜まっていた洗濯物を川で手洗いし、木と木の間に縄を張り渡して設置された物干しにそれらを干していると、後ろからいつも通りの野次が飛んだ。


「これ! 隼人。そんなにぞんざいに扱っては、かえって皺が寄るじゃろうが」


 思わず、持っていた洗いざらしの服を握り締める。もう、限界だ。

 腹立たしさそのままに、手の中のそれを洗濯物がつまった手洗たらいに突っ込んで、振り返った。


「いい加減にしてくれよ! 俺はこんなことをやるためにここに来たんじゃないんだぜ?  ……師匠。分かってんだろ? 俺の目的も! 俺の気持ちも!」


 この数週間の間に、俺はシムルグのことを『師匠』と呼ぶようになっていた。

 暫くはどう呼んでいいのかわからず、極力呼びかける機会を減らそうとしていたのだが、いつまでもそのままでは流石に不便だ。しかしでは偉そうだし、かと言ってエルドの時のようにあだ名をつける訳にもいかないし……と散々悩んだ挙句、 最終的にこの呼び名に落ち着いた。初めは何だか照れくさかったが、慣れてしまえば普通の呼び名となんら変わりない。

 師匠は肩を上下させている俺を一瞥し、ゆっくりとかぶりを振った。


「おまえサンの言わんとすることも、分からんではない。が、それはちと時期尚早じゃと言うとろうが」

「何でだよ! この一ヶ月、やった事といえば家事労働みたいなことばかりじゃないか!  何度言ったって、耳も貸そうともしてくれないし! 基礎体力がどうとか言って、本当は……!」


 最後まで言うのを躊躇ためらって、飲み込んだ。本当は勢いで言ってしまいたかったが、流石に実際口に出すとなると気が引けた。

 それでも胸に罪悪感が込み上げ、師匠の顔を見ていられなくなって顔を伏せた。口に出したって出さなくたって、結局同じだ。師匠は、人の表層心理が読めるのだから。


 ふと、何かが風をきる音が耳に響いた。鳥の羽ばたきではない。小動物が疾走する音でもない。勿論、風自身が空をかける音でも――無い。

 導かれるようにして顔を上げる。耳鳴りがするような甲高い音を立て、回転しながら上空を舞っていた何かが、眼前をかすめて足元に深々と突き刺さった。同時にあがった、土を掘り下げるような音と、砂ぼこり。目の前にある物を見つめ、はっと息をのむ。


 刃渡りが一メートルはありそうな、真剣だった。 はがねでできているらしい真っ直ぐに伸びた刀身が、太陽の光をうけてきらめいている。 テレビで見たことのある日本刀より、幅が広い。刀身と垂直に伸びた幅広の鍔は、鈍い黄金色をしていた。

 そっと手を伸ばし、革が巻かれたつかを握って勢い良く引き抜いてみる。剣は予想以上の重さと反動を、俺の体に伝えた。慣れない感覚に、少し、よろめく。


「良かろう。少し相手をしてやる」


 師匠は、笑っていた。ただし穏やかさは、無い。

 口許は緩んでいるが、向けられた瞳には殺気に似た闘志が満ちている。背筋に、冷たいものが走った。


おのが考えの甘さを、その身をもって知るが良い」

「……っ!」


 気づけば、一歩後退あとずさっていた。相手は丸腰。それでもなお、この気迫。

 怖い。

 この恐怖は、そうだ。 あの獅子のようなモンスターと対峙した時に、少し似ている。圧倒的な力の差。それが理屈抜きで染み込むようにわかる、この感覚。

 無意識に、足が震えた。ここに立っているだけで、逃げ出したい気持ちを押さえ込むだけで、精一杯だ。


「どうした。怖気づいたか?」


 一歩、師匠がこちらに足を踏み出した。自然と体が拒絶して、気付けば俺も一歩、後ろに下がっていた。

 何でだ。相手は、武器さえ持ってないんだぞ?

 自問自答するが、答えは見つからない。ただ師匠が――目の前の人物が、恐ろしくてたまらない。息苦しさすら感じる緊迫感のせいで、自分の呼吸が浅く早くなっていくのがわかる。


「構えろ隼人。先ずはそれからじゃ」


 言われて初めて、自分がただ剣を引きずったままでいたことに気付いた。視線を師匠から引き剥がすことさえできないまま、ほぼ体に横付けするだけだった剣を、ゆっくり正面に持ってくる。両手で柄を握り、何とか体の前で構えた。

 ずしりと、鋼鉄の反動が乗る。やはり、重い。支えることはできる。つかんで振り回すだけなら、きっとなんとかなる。でも、何かを傷つけるほどの威力を発揮できるかと問われると、怪しい。

 捧げ持つだけで、両腕に過剰な負荷がかかっていた。何もしていないのに、二の腕が痛い。これが、真剣の重さ。命を屠るための重さ。こんなものを振るなんて、できるのか。

 陽光を反射する刀身が、目の前にあった。心臓の鼓動が、跳ね上がるように踊った。小刻みに震えた切っ先が、恐怖と緊張を映している。


「そう、それでいい。魔法は使わん。安心してかかってこい」


 柄を握る手に、力を込める。早く動かなければと、焦る。それでも体は動かなかった。怖い。頭の中が、膨れ上がる恐怖で破裂しそうだ。そしてその質が、少しずつ変わり始めていると、心の端で思う。

 目の前で殺気を放つ師匠は、恐ろしい。死を前にした生物としての本能が、警鐘を全身に響かせている。しかしそれと同等、もしかしたらそれ以上に湧き上がる、根源的な恐怖がある。

 他者を傷つける凶器を、自分が握っている。その事実に、怯えている。目の前に、殺気を放つ相手がいる。戦わなければ、殺されるかもしれない。それでも、恐ろしい。誰かの肉を割き骨を砕く感触は、想像だけでも肺腑に重く伸し掛かる。

 怖かった。傷つけることも、傷つけられることも。だから初めの一歩さえ、踏み出せない。

 顔の前にあった剣尖が、次第に下がっていく。同時に戦意も消えていった。憤りよりも恐怖が勝って、この場から逃げ出したい気持ちで一杯になる。

 ついに師匠が、ふっと息を漏らした。


「何じゃ、そのざまは。剣すら満足に振るえないのか」


 声に、明らかな嘲笑がある。挑発よりも、罵倒に近い。


「親の仇じゃと? だから己が冥王を倒すと? ……笑わせてくれる。殺す覚悟も殺される覚悟も無い、ただの餓鬼が偉そうに。力も無い者ほどよく吠えるとは言うが」

「何、だと」

「聞こえなかったか? ならばもう一度言ってやる。 そんな調子で冥王を倒すなど、とんだお笑いぐさじゃ。亡くなった者達も浮かばれまい」


 琴線を鷲掴みにされる感触に、体が反応する。容赦なく、惨劇の記憶が蘇った。鼻孔にこびり付いた血の匂い。無力感の果てにある悔しさ。やり切れぬ思い。それから――強い、怒りも。

 剣を顔の前まで引き上げ、改めて構えなおした。その切っ先は、もう震えていない。恐怖が別の感情に塗り替えられせいだと認識する余裕もなく、生々しい激情に身をゆだねる。焼けつく衝動に突き動かされる思考回路は、それでも妙に鮮明だった。

 相手までの距離は、大体五、六メートル。数歩で到達できると目算した。剣の重さを考慮しても、 時間をかけずに斬り込めるはずだ。

 向こうは武具も防具もつけていない、全くの丸腰。恐るべき特殊技能、魔法さえ使ってこない。武術の達人だとしても、所詮は老人。反射神経に関しては、こちらに分がある。

 大丈夫だ。――いける。


 凍り付いていたはずの足が、前に出た。同時に、走り出している。加速しながら、剣を右手のみに持ちかえる。肩関節が軋んだが、 痛みはそれほどでもない。ぐんと走りやすくなり、思ったよりも早く距離が縮まる。

 師匠に動きはなかった。身構えるどころか、身じろぎさえしない。仁王立ちのままだ。そこまで馬鹿にされているのかという苛立ちが、全身を巡る潤滑油になる。

 相手の目前まで迫った瞬間、柄を握っていた右手に左手を添えた。迷いなく横なぎに、剣を振るう。今触れられる距離にいるのに、逃げられるはずが無い。全てを賭けた渾身の一撃を、止められるはずも、無い。


 しかし気が付けば、バットをスイングする途中のような姿勢で固まっていた。力を込めても、びくともしない。一寸たりとも動かせない。押しても引いても、揺れる気配すら無い。息をのみ、正面を自然体で眺める師匠から視線をずらして、自分の握る剣の切っ先を見た。

 師匠の手に、剣がつかまれている。いや、いる。実際に触れているのは、人差し指と中指の第二関節あたりだけ。血はおろか、その部分が赤く擦れてさえない。攻撃を見もせずに、完全に防がれた。事実を認めて、戦慄する。

 半ば呆けた俺の腹に、痛みが走った。たまらずうめき声を上げ、剣を放してその場に崩れ落ちた。気が遠くなるほどの衝撃、しかし激しく咳き込んだお陰で、何とか気絶は免れる。胃の中のものがせり上がって、口内が苦味に侵される。吐き出す唾液に、黄色が混じった。

 座ってうずくまるだけでは、耐え切れなかった。腹に両手を添えたまま、地面に倒れこむ。芋虫のように、身をよじっても治まらない。あまりの苦痛に、自然と目元に涙が滲んだ。たった一撃、拳で殴られただけで、まさかここまで。

 呼吸すら上手くできずに力無く喘いでいると、師匠は剣を地面に突き刺し、傍らにかがんで、俺に手をかざした。痛みが、去り際の波のように引いていく。以前俺の骨折を治した、あの魔法だった。


「己が力量の程がわかったか。剣も上手く扱えないようでは、修行にすらならん」


 肺が新鮮な空気を吸って、ようやく平静を取り戻した。それでもまだ、衝撃の中に居る。

 己の無能さと、幼稚な思い上がりを自覚した。そして愕然とした。何もかも、師匠の言うとおりだった。まだ、早い。手前勝手な暴論に思えた主張も、今なら納得できた。

 基礎的な筋力が足りない。戦闘のための思考が、身についていない。理想に体が追い付かない。剣の扱いが覚束ない。そして。

 俺には、剣を振るう技術以前に、剣を持つ覚悟すらできていない。


「だが気迫だけは、なかなかのものだった」


 傍らに膝をついていた師匠が、立ち上がる。顔には、後悔の色が見えた。


「済まなかったな。不用意に古傷をえぐるような真似をして。 おまえサンを本気にさせようと、少々言い過ぎたかもしれん」


 少し辛そうに、目を細める。どこか遠くを見るような目つきだった。他人を思いやってというよりは、自身が傷ついている顔だった。

 不意に、理解した。人の心が読めるというのは、もしかしたらそんなに勝手の良い能力では無いのかもしれない、と。


 相手の思惑が分かれば、ある面では便利だろう。日常生活では相手に対して不必要な詮索をしなくてもいいし、戦闘では特に、絶大な効果を発揮する。どこから攻撃が来るのか前もって分かっていれば、避けることも受けることも容易い。きっと俺の攻撃を見ずに防いだのは、その恩恵だった。

 けれど他人の記憶や心情の中には、読み取りたくないものもある。憎悪、怨恨、嫉妬、悲哀。あらゆる負の感情が、自分の意思とは関係なく己の中に流れ込んできたなら。味わいたくない苦痛を、嫌でも共有せざるを得なくなる。相手の暗い念が、強ければ強いほど。狂わんばかりの心の闇が、精神を蝕むのだろう。


 体を起こし、地面に座り込んだ。挑発に乗って湧き上がった怒りは、治まりつつあった。

 代わりに師匠の哀しそうな言葉が、表情が、胸に突き刺さっていた。きっと俺の感情を、記憶を共有してしまったのだと思うと、申し訳ない気持ちにさえなる。


「……いや。いいんだ。別に」


 地面に投げ出した自分の足元に、視線を落とす。

 本当は俺も、素直に謝るべきだった。ちらりとでも師匠を疑い、しかもそれを彼に気付かせてしまった。反省しているのだから、きちんと口に出して謝罪するべきだと思った。

 でも。

 はずが無い。良いわけが無かった。本当は今でも、どうしようもなく悔しかった。

 あの日、あの惨劇の場において。俺は何も出来なかった。間違いなく当事者としてそこにいたのに、俺はあいつに、傷一つつける事が出来なかった。それどころか、母さんが死んだ原因は、間違いなく、にあった。

 何もかもみんな、俺に力が無いせいだと思った。今でもそれが、許せない。あいつに対抗し得る力。それさえあれば、自分の身は自分で守れた。母さんが死ぬ事も無かったし、もしかしたらオバさんだって――


「隼人」


 頭に、そっと手を置かれた。俺は顔を上げなかった。今までの思いが全部、見透かされているのを分かっていたから。合わせる顔が、無かった。


「その剣は、おまえサンのものじゃ。今までのことに加えて、今日からは素振りもやっておけ。その重さと扱いに慣れるだけでも、随分違う。頃合いを見て、また手合わせもしてやる。 それから」


 法衣に似た白い服が、ふわりと風にひるがえった。この場を後にしようとするらしい師匠の後ろ姿を、そっと視線で追いかける。

  師匠は俺の右手――小屋とは反対側の方へしばらく行くと、うっそうと木が茂った森の数メートル手前で立ち止まった。


「魔法の契約をしておく」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る