見えない糸(2)
バッシャーン――……!
「痛って! 何だ?」
強烈な衝撃を顔面に感じ、反射で体を起こした。垂れた前髪の端から
「いきなり何するんだよ! しかもそれ、俺が汲んできた水だろ!」
声を荒げると、喉に違和感を感じて激しく咳き込んだ。
くそっ、何だって言うんだ。気管支にまで入ったじゃないか。
「いくら呼びかけても、起きる様子が無いのでな」
悪びれる様子も無いシムルグに腹を立てながら、体の上にかかっていた、びしょ濡れの布団を無造作に剥ぎ取った。ベッドから下りて立ち上がり、呼吸を整えつつ改めて文句を言おうとした所で、ふと、違和感に気付く。
ゆっくりと、振り向いた。眼下には、すっかり濡れてしまったベッドと、同じく乱れた掛け布団があった。ベッドの脇にはガラス張りの窓があり、木々の間から零れ落ちた日差しが射し込んでいる。小枝の木漏れ日が、木目そのままの床に影となって映り、風が吹くたびに美しく踊った。
もう一度、視線を正面――シムルグの方へと戻す。彼の左側面には、木製の小さなクローゼットが置かれている。新しくは無いが、目立った汚れや破損箇所も無く、今まで丁寧に扱われていたことがよくわかる。部屋の広さは大体六畳程度で、窓のほぼ真向かいに木製のドアが取り付けられている。ベッドとクローゼット以外に目立った調度品は無いが、シンプルでかえって住み安そうな造りだ。俺はそんな、部屋の中に居た。
おかしい。確か、シムルグの帰還を待てずに戸口の所で眠り込んでしまったはずだ。それが、なんで個室のベッドに――しかもご丁寧に、布団までかけて寝てたんだ? 足元には、日用品がいっぱいに詰まった俺のバックパックまで。
「もしかして、ここまで運んでくれたのか?」
おずおずと問いかける俺に返されたのは、優しい笑みだった。昨日から意地の悪い笑みや含み笑いは何度か見ていたが、この表情は初めてだ。
「あんな場所に寝たのでは、疲れも取れまい? 今日からここが、おまえサンの寝床じゃ。部屋の調度は好きなように使え。とは言っても、大してありはせんがな」
「……ありがとう」
「何じゃ、急に素直になりおって」
シムルグは自分の髭をいじりながら、なんとなく照れくさそうに、首を横にふった。部屋を出て行こうとし、その出口で振り向きざま、思いついたように言う。
「顔を洗って着替えたら、居間に来るがいい。軽く食事をとった後、冥王と、これからおまえサンが為すべき事について、話してやるからのう」
俺の返答を待たず、シムルグは静かに、扉をしめた。
* * *
「冥王が行動を起こし始めたのはつい最近のことだが、その数年前から、すでに不穏な動きを見せていたのじゃ。わしはそれに気付き、奴の悪行を止めるべく調査を開始し、冥王が太古の技術を利用して、海底に城を構えたらしい事実をつき止めた」
「海底」
「そうじゃ。しかも陸棚ではなく、海溝の奥――その中でも最も深い、
シムルグは重いため息をついた。テーブルに両肘をあずけ、ゆっくりとかぶりを振る。相当てこずっているのが、話しぶりで分かった。確かに、倒せるだけの力を持っていても、相対することができないのでは話にならない。
でも。
シムルグの正面に腰掛ける俺は、木製のコップに注がれた水を一口飲んだ。一息ついて、静かに問う。
「何か方法はあるんだろ?」
シムルグが、息を漏らした。口の端が笑みの形に歪んでいる。
そう。方法がないはずが無い。何をどうしても手出しができないと言うなら、俺がここにいる意味など無い。シムルグはあの時、確かに言ったのだ。冥王は、恐らく俺にしか倒せない、と。
おもむろに席を立ち、いったん奥の部屋に引っ込んだシムルグが、しばらくして何かを手に戻ってきた。
玉だった。何か不思議な雰囲気の、青く透き通った玉。丁度手のひらにすっぽり納まるくらいの大きさで、周囲にこれといった光源も無いのに、優しく淡い光を放っている。
夢幻に似た輝きに目を奪われていると、シムルグは無造作に玉を投げて寄越した。驚きながらも受け取り、改めて手の中の物体に視線を落とす。中心部から周囲に向かって、徐々に青みを増していくそのさまは、玉自体が意思を持ち、光を発しているかのようだ。
「それもまた、太古の技術の一つでな。わしはオーブと呼んでおる」
妖しい輝きから、視線を離せない。正面に座り直したらしいシムルグの声を、耳だけで受けとめる。
「わしが得た情報によるとな。世界にはこれと同じものが、全部で六つあるそうだ」
「六つ? この世界にある大陸の数と、同じだ。確か、人間大陸、妖精大陸、幻獣大陸、獣人大陸、魔大陸、竜大陸……だったか」
親父の部屋の分厚い事典にあった内容を、記憶からたどたどしく引きずり出すと、シムルグは何度か頷いた。
「そうじゃ。オーブは、各々の大陸に一つづつ存在する。ここにあるのは人間界のオーブ。他のものは、文献にも詳しく載っておらんかったので良くは分からんが、同じような形状をしておるはずじゃ」
曖昧に相槌をうちながら、片手で軽くオーブを投げ上げてみる。清浄な青が、宙を舞う。万華鏡に似たきらめきが、視界を覆う。
「これが、何かの鍵になるのか」
軽快な音をたて、再びオーブが手の中に納まった。
「ここから真っ直ぐ北に行ったところに、標高二千メートルほどの山がある。そのふもとにある遺跡内の石板に、集めた全てのオーブをはめ込むのじゃ。さすれば、己が望む任意の場所に転移することができる。魔法でさえ進入不可能な場所――強固な結界が張り巡らされた、冥王の居城にも、な」
「その石板ていうのも、古代の技術なのか」
「文献が正しいならば」
「だから、この島に移り住んだんだな」
「そうだ。本来はわし自らがオーブを全て集め、直接手を下すつもりだった。だがしかし、おまえサンに出会って確信した。わしには、奴を倒す事はできん」
妙に確信的に断言するので、自然と眉が寄った。初めて会った時も、そうだった。俺にしか、倒せない。台詞は予想めいていたが、口調は予言に近かった。
だからずっと、その意味が分からず気になっていた。何故、俺でなければいけないのか。何故、シムルグでは駄目なのか。
「初めて会った時にも、同じようなことを言ってたよな。どういう意味なんだ」
シムルグからの返答は、無かった。ただ、深いため息をつくだけだ。
何故かこの話題になると、口が重くなるようだった。なかなかはっきりと、理由を言おうとしない。初めて会った時だって、俺の質問に耳も貸さず、何かぶつぶつと独り言を言っていた。
また、はぐらかされるだろうか。内心諦め交じりに、それでも視線だけは逸らさずに待っていると、シムルグは根負けしたように髭を擦った。
「世には、
「何だよ、それ。全然答えになって無いだろ」
回答を求めたら、漠然とした概念が返ってきた。納得がいかない。
不満を口にするが、シムルグはそれ以上の譲歩をする気が無いようだった。
「今はそれで良い。望む望まないにかかわらず、そのうち分かる時がくる」
何か理由があるのだろう。それでも、隠し事をされるのは気分が良くない。自分の身に関わることとなれば、尚更だ。
しかし口をつぐんだシムルグの、苦しそうな顔を見ると、踏み込みきれなかった。自分が言いたくないというより、俺に知られたくない、というのに近い気がした。そんなことは、知らない方が俺のためなのだ、と。
俺には人の心なんて読めないから、良くは分からないけれど。
「……まあいいさ。その逆なら問題だけど、俺に出来るって言うなら、望む所だ。やってやろうじゃないか。別に世界平和のためじゃない。母さんとオバさんの仇を討つためだ。俺が、この手で、冥王を倒してみせる」
脳裏にこびりついて消えてくれない残像に、誓いを立てる。噛みしめるたびに浮かぶ感情は、恐怖よりも憎悪のほうがずっと強かった。
だから。たとえどんな代償を支払ったとしても、どんなに時間がかかったとしても。この手に冥王を倒す力が宿るのなら、俺はそれらを惜しまない。
「隼人」
静かな声で、名を呼ばれた。穏やかな中にも厳しさを含んだ表情が、目の前にある。
「仇を討つ、というのが悪いとはいわぬ。その強い意思は、時には生きるための力にもなろう。しかし、その元となる感情は『負』の力じゃ。負にとらわれ過ぎれば、心は闇に染まる。このことをゆめゆめ忘れるな。常に心を強く持て。いいな」
雰囲気に、気圧される。怒号のような重圧はなく、ヒステリーのような激情もない。優しく諭す口調なのに、否定を許そうとしない強い意思がにじむ。
反論は、選択肢に無いと知った。笑ってはぐらかすことさえ、できそうにない。過剰に思えるほど真剣な気配に、生唾を飲んだ。
「……ああ、分かったよ」
頷いて、苦笑を返すのがやっとだった。シムルグは相変わらず生真面目な顔で、目を伏せた。そして、沈黙が続く。何となく、空気を重く感じた。
肯定したはずなのに、と思う。何かが気に食わなかったのだろうか。分からない。
シムルグが言いたかったことくらい、俺は理解しているつもりだった。だから、肯定的な返事をした。言わされたのではない、自らの意思だ。
確かに、ちょっと大袈裟なんじゃないか、とも思う。生きるための力だとか、心が闇に染まるとか。俺はそんな小難しい理論で動いてるわけじゃない。もっと、単純な話だ。
冥王は俺の憎むべき敵で、母さんとオバさんの仇。何があろうとその関係は変わらないし、奴をこの手で倒すまでは、俺の憎しみが消えることも、決意が揺らぐことも無い。どうあっても俺は俺だ。自我を失うなどありえない。
それだけの、話だ。厳しい顔をしてあえて言われるようなことじゃない。
外で、小鳥の鳴き声がした。それをきっかけに、淀んだ雰囲気が不思議と元に戻った。今のは一体何だったのか、そんな疑問さえ溶けて消え去る自然さだった。
「ところで、昨日――いや、今朝か。おまえサンに水汲みをやらせたじゃろう」
脳裏にいまいましい記憶がよみがえり、俺は小さくうめいた。妙な緊張で乾いた喉を潤そうと、空いている方の手をコップに添えた所で、固まる。振動を受けて少し、テーブルに水がこぼれた。
「ああ、やったとも。思い出したくも無いけどな!」
コップを鷲づかみにして、一気に中身をあおった。ほとんどヤケクソに近かった。
意地になって作業を完遂してしまったのが、悔やまれてならない。本当は筋肉痛と全身疲労で、こうして座っている今も体中が痛いのだ。
「当分は、あれがおまえサンの課題じゃ」
そんなわけで、さらりと告げられた指令には、危うく水を吹き出しそうになった。
「な、何言ってんだよ! あれを一杯にするのに、何時間かかったと思って――」
「だから言うておるのじゃ。基礎体力をつけんことには、魔法はおろか剣も振れんだろうが」
喉まで出掛かった文句を、見事に打ち返された。俺が聞いても正論だと思う。お陰で、言い返せないのが悔しい。
不服満面の顔で押し黙った俺を一瞥し、シムルグがまた、自分の髭を撫でた。その口許にふと、意地の悪い笑みが浮かんだような気がしたのは、気のせいだと思いたい。
to be continued...■
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