第二章:獣人界編

狼人-ワーウルフ-(1)

 瞼を開くと、周囲は一面の砂に覆われていた。右を見ても左を見ても、大小の砂丘が幾重にも連なっているだけだ。植物の姿は無い。そのせいか、動物だって見当たらない。 酷く乾いた場所だった。

 時折砂塵が舞い、無防備を晒す体に打ち付けた。そして景色を、黄褐色に染める。平坦な大地らしきものはどこにも見当たらず、うねった砂の小山が折り重なるように広がるばかり。 吹き付ける風に撫でられて、表面には波紋のような模様がついている。

 季節は、冬のはず。実際、気温はあまり高くない。それでも、燃える日差しと地面からの照り返しのせいで、額から流れ出した汗を片手で拭った。


「成功……か?」


 ほっと胸を撫で下ろす。喉が乾き、掠れた声が出た。乾燥した空気のせいだけではない、と自覚する。

 空間転移の魔法を使ったのは初めてではないけれど、大陸を違えるほどの長距離を跳んだことは、今まで無かった。俺の世界で言う、アフリカ北部の砂漠地帯を訪れた経験も無い。イメージするにも曖昧なものしか浮かんでこなかったし、その結果無事着けるのかどうか、あまり自信が無かった。

 安心するのは、早いだろうか。一口に砂漠と言っても、世界中にある。もしかしたら想定した地域とは違う場所かもしれない。それなら、再度跳ばなければならないが……。


 もう一度、ぐるりと辺りを見回してみた。低めの太陽の位置からして、とりあえず北半球であることは確かだ。他には、これと言って目印になりそうなものは見当たらない。空の青と砂の黄のコントラストは綺麗だが、こう代り映えの無い景色ばかり続かれては、間違っているかどうかすら分からない。

 せめて誰か――いわゆる『獣人』の姿さえ見つけられれば、 ここが獣人大陸だという確信が持てるんだけど。


「おい」


 考えこんでいた俺の耳に、男のものらしき声が聞こえた。弾かれたように顔を上げ、辺りを見回すが、周囲には誰もいない。しかし無意識に足の位置を変えたとき、奇妙な感覚がした。これは明らかに、砂地の柔らかさでは、無い。

 ごくりと唾を飲み込み、恐る恐る視線を足元に落とす。 眼下には体の半分以上を砂に埋めた何者かが倒れていて、 凍りついた俺の目とこちらを睨みつける彼の目が、ぴたりと合った。


「うわっ! す……すみません! 怪我はありませんか!」


 踏みつけておいて怪我は無いかも何もあったもんじゃないと自分でも思うが、気が動転していて上手い言葉が出てこない。跳び退るようにして足をどけ、必死で頭を下げる。


 砂の中から這い出してきた何者かは、水に塗れた動物が体を乾かすように、身を震わせ砂を落としている。顔を上げ、その姿を見て、危うく声を上げそうになった。

 人の年齢に換算するなら、二十代前半くらいの若い男だ。身長は俺よりも十センチほど高いように見える。健康的に日焼けした肌に、程よく筋肉がつき引き締まった身体。頭には、運動会の時につけるような、オレンジ色の長いはちまき。それから少し砂がついた白いTシャツと、深い紺のジーンズ。

 男は自分の体についた砂をあらかた払い終えると、勢いをつけてこちらを見据えた。風に揺れる黄色い前髪の奥で、黄緑に近い色の目が光った。


「怪我は無いかだと?」


 明らかに、怒りを含んだ声だった。頭の上についた犬のような茶色い耳が、はためく。腰に両手をあてて、尻についた感触が良さそうな毛並みの、これもまた茶の尻尾を左右にゆっくりと揺さぶった。人間と酷似した身体に、動物のような特徴をあわせ持つ種族。――『獣人』だ。

 俺が魔法を扱えるようになったせいか、きちんと相手に言葉が通じているのは何よりの救いだが、今はそんな些細な喜びを噛み締めている場合ではなさそうだった。


「あの。本当にすみません。俺、空間転移の魔法にまだ慣れてなくて」


 両手を顔の前であげ、なんとか相手を落ち着かせようとするが、男の険しい表情は変わらない。


「あのな。いきなりヒトの真上に現れて思いっきり踏んずけておいて、ごめんで済む訳が無いだろ! おかげで砂食っちまっただろうが! まさかアレか? お前も冥王だかっていうのの手下か?」

「ち、違……!」


 慌てて、激しくかぶりを振る。しかし相手は、俺の言い分など微塵も聞く気は無いらしい。


「もうこの際どっちだっていい! 俺様に逆らったことを、あの世で悔やむんだな!」


 男は急に着ていたシャツを脱ぎ捨て、身を固くして全身に力をこめた。人間のものと何ら変わりなかった鼻が次第に細長くなりはじめ、丸みを帯びた瞳が険しい獣のそれへと変わっていく。口から覗く牙や手足の爪は鋭く尖り、腕や胸にふさふさとした獣の毛が生えだしている。

 『狼男』の映画を見えているようだった。満月を見ると突然狼に変身し、夜な夜な人を襲ったりする、有名なホラーストーリー。今は真昼間だし、上空に白く輝く月は半月に近い形をしているけれど。


 今や彼が履いていた靴は完全に裂け、原型をとどめていなかった。ジーンズは伸縮性の高い素材で出来ているらしく破れはしないものの、脚のたくましさも長さも、元の姿とは明らかに違う。

 全ては、一瞬だった。それこそ瞬く間に、 男は完璧な人狼ワーウルフへと変化をとげた。元々俺より身長が高かったが、獣化後はそれを大幅に上回っている。見上げるほどの巨体だ。反射で息をのみ、数歩後ろに下がった。


「ふふん。俺様の姿に恐れを抱いたか」


 男は――いや、人狼は嬉しそうに鼻で笑い、目を細めた。


「だがな。許されると思ったら大間違いだ。 見たところ人間のようだが、手加減はしてやらねえからな!」


 言うなり、人狼は俺に向かって突進した。

 速い。まさに獣の疾駆を思わせるスピードだ。もともとそんなに距離が離れていたわけではないし、かわす余裕などない。仕方なく腰元の剣を引き抜き、繰り出された鋭い爪を間一髪食い止めた。

 一瞬でも反応が遅れていれば、命が危うかったかも知れない。目の前には、陽光に光る爪の先端が迫っている。その間、一センチあるか無いか。前髪のうち数本が切り取られ、ぱらりと地面に落ちた。

 思った通り、腕力も人並みを超えている。あちらは右腕一本だが、こっちは右手で柄を握り左手で剣の腹を押さえて、やっと耐えているくらいだ。このまま長時間支えていられる自信は無い。徐々に差が縮まりそうになるのを、歯を食いしばって力を入れ、必死で堪える。俺の両腕は、既に細かく震えだしていた。


「へえ。その剣、飾りじゃ無かったんだな」


 人狼は面白そうに笑って、右手で俺の剣をつかむと、左手を俺の顔めがけて突き出した。身動きがとれず、咄嗟に顔だけ動かし逃れようとするが、完全には避けきれない。右の頬骨あたりに鋭利な刃物で切りつけられた痛みが走り、小さく声がもれた。

 血が、ゆっくりと流れ出すのを感じる。相手に握られた剣を引き、一度体勢を立て直そうとするが、完全に固定されていてびくともしない。しかしこのまま彼の射程距離内にいては、危険だ。間違いなく、無事ではすまない。

 剣を諦め、足に力を入れて出来る限り遠く、後ろに飛んだ。足が砂に嵌まり込んで、上手く力が入らない。それでも追いかけるように再び繰り出された彼の左腕は、運良く俺を捉えるには至らなかった。砂で滑ってしまわぬように踏ん張って着地した頃、俺の息は既に上がっていた。


 人狼は、すぐには攻撃してこなかった。まだ剣を右手で握り締めたまま、苦しそうに喘いでいる俺を見て、何故か嬉しそうに笑みを浮かべた。戦闘そのものを、楽しんでいるのか。

 お陰で先ほどの怒りなど、どこかへ行ってしまったようだ。だったらやめてくれれば助かるのに、そう上手くはいかないらしい。


「俺様と渡り合えるなんてな。人間は弱いって聞いてたけど、違ったのか。 それとも、強いのかな?」


 友人に語りかけるような、砕けた口調で、親し気に声をかけてくる。しかしその瞳は、親しい相手に向けられるものとは明らかに種類が違う。

 獲物を射定める獣の目。むき出しの闘志が、戦いの存続を強く期待している。


「さあ、どうかな」


 頬の血を手の甲で拭い、笑って見せながら、俺は頭の中で状況を打破する策を必死で考えていた。

 正攻法では敵わない。先ほどの攻防で身に染みて分かった。力比べでは、完全にあちら側に分がある。剣が相手に奪われたままなのも、宜しくない。今も彼の右手は、剣の腹をしっかりとつかんでいる。注意を引きつけた隙に奪取するなんて芸当も、できそうになかった。そもそも、相手に隙が無い。懐に飛び込めば、反射に近い速度で反撃が来るだろう。

 本能のみで攻撃しているように見せながら、案外考えているようだった。いや、単純に戦い慣れているのか。


「何考えてるんだ? 来ないのか? じゃ、こっちからいくぜ?」


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