悪夢の爪痕(2)
空のペットボトルや毛布は空き地に残したまま、自分の家がある方へと向かっていた。歩く振動で胸の痛みが湧き上がるが、全く歩けない、というほどではない。気休めに胸を片手で押さえ、もう片方の手を壁伝いに這わせて、ゆっくりと進む。
自然と顔が下がり、足元ばかり見てしまうせいか、散乱した瓦礫が目に付いた。俺の家まではまだ距離があるが、よく見れば周囲の家々も大なり小なり被害を受けているようで、所々屋根瓦が飛んだり窓ガラスが割れたりしている。時折無造作に開け放されたままの玄関があり、大抵の場合、靴が散乱していた。逃げるときに、慌てて蹴散らしたのだろう。
ポストに突っ込まれたままの新聞紙。繋がれてどうすることも出来ず、悲しげに飼い主を呼ぶ犬。かつて人が居た気配はするのに、人の姿は何処にも無い。ほとんど自主的な緊急避難をした後のようだ。現在の状況もまだはっきりと分からないのに、恐怖の象徴である場所に帰る者などいるわけがない。静寂と残骸だけが支配する街。
酷い光景だと思った。まるでゴーストタウンだと。しかし驚きはしなかった。これから目にするはずのモノに比べれば、ここはまだましな方だ。
自宅付近まで来ると、もはや周囲に壁が無かった。家も電柱も植木も何もかも破壊しつくされ、爆弾が落とされたような有様だった。辺りには、異様な臭気が立ち込めている。血と屍肉が入り混じった匂いだ。もはや人なのかすら危ぶまれる肉塊が、一面に散らばっている。
くちゃくちゃと、何かを
「うっ……」
口許に手を当て、湧き上がる吐き気を必死でこらえる。喉まできていたものを何とか飲み込むと、反動で酷く胸が痛んだ。
これが、モンスターの通った後。もはや町と呼ぶことなど出来ない、無残な傷痕。元から少し斜めに曲がって立っていた電柱も、ガーデニングが趣味らしくいつ見ても花で埋め尽くされていた評判の庭も、全てが無に帰され、何も残らなかった。生み出されたのは無数の瓦礫と、点々と散らばる死体の山。
黒い嘴の先端を紅く染めたカラス達から視線を外し、無意識に顔をしかめながら目的の場所へと、ただ、足を進める。
* * *
無理をして動いているせいか、強くなってきた胸の痛みに呼吸を荒げながら、ぼんやりと足元を見ていた。眩暈がしそうになるのは、きっと怪我のせいだけじゃない。
そっと、目をつぶってみる。深呼吸はできそうにないが、それだけでも少しは心が落ち着く気がした。ほんの少し。本当に、少しだけ。でももしかしたら、それすらも気のせいなのかもしれない。現に、高鳴った鼓動は、一向に治まらない。むしろ五感のうちの一つを封じているせいか、拍動がより大きく感じられる。耳に痛いほど、響く。
目を開けた。当たり前だが、状況は変わっていなかった。これが、夢であってくれたなら。幾度と無く願った、叶わぬ思いが、胸をかすめる。
うるさい目覚ましの音に、不平を漏らしながらうっすらと目を開ける。カーテンの隙間から差し込む、日差しが眩しい。手探りで枕もとの目覚ましを探して手に取り、寝起きでほとんど覚醒しないまま目の前まで持ってくる。長針が示す、ありえないはずの時間に、流石の俺も一気に目が覚める。
慌てて着替えて部屋を飛び出し、階段を降りると、その終点で仁王立ちになっている母さんがこちらを睨む。何度も声かけたのに、なんて怒号に知らぬふりをして、リビングに駆け込んで皿の上のトーストをかじる。
しかし朝食をゆっくり取っている時間は無い。 残りは走りながら食べることにして、まだ文句を言っている母さんを尻目に家を飛び出す。
あら、今日も遅刻しそうなの? 苦笑しつつ声をかけてくるオバさんに、俺も苦笑いを返す――。
それが毎日のお決まりパターン。最も普遍的な、俺の日常。今は、その光景こそが夢だった。幸せな夢、そのものだった。
「母さん……」
そっと声をかけた。物言わぬ母さんの体に。
うつ伏せで、傷口が見えないせいか、母さんの体は綺麗なままだった。カラスや他の生き物達に、
傍らにしゃがみこみ、そっと体に触れてみた。 母さん自慢の長い黒髪がさらりと流れ、もはや固まってしまっている、地面に流れた血の跡を覆った。母さんの体は、既に硬くなっていた。無理も無い。もうあれから、一日経ってしまっているのだ。
いまいち焦点の合わない視線を、斜め前に投げた。そこにはオバさんがいた。壊れて不自然な格好に曲がった人形のような、オバさんが。こちらは仰向けに倒れていた。いかにも無念そうに、目が大きく見開かれている。
半ば這うように移動し、オバさんにそっと触れるとその瞼を閉じさせようとした。しかし、筋肉が硬直しているせいで上手くいかない。何度やってもバネの様に、めくれあがった瞼が戻ってきてしまう。
仕方なく、着ていたシャツを少し破いて、できた布を顔の上にかけた。弱めの風にあおられ、端がはためいていたが、飛んでいくことはないようだった。
俺はゆっくりと立ち上がった。はじめと同じ様に、二人の体を見下ろした。土ぼこりを含んだ風が吹き、俯いた視界の端に映る前髪を揺らした。
「ごめん母さん、俺……」
一筋の涙が頬を伝う。
「俺、母さんが待ってた隼人じゃないんだ。別人、なんだ」
声が震える。何故か口許が、笑みのかたちに歪む。全く可笑しくなんかないのに。
「だから俺を守る必要なんて無かったんだ。庇う必要なんて無かったんだ。母さんが身代わりになる必要なんて……無かったんだよ……」
蘇る、あの日の記憶。
――良……かった……隼人……無事ね……?
口の端から血を流しながら笑んだ、母さんの顔。
喉の奥からやっとの思いで搾り出した声をきっかけに、溢れた涙が次々と流れて、母さんの体の上に落ちた。丸い染みが点々とつき、母さんが着ていたモスグリーンの服に、いくつもの濃い円が描かれた。
流れる雫を拭わぬまま、ゆっくりとオバさんの方へ顔を向けた。顔にかけられた白いいびつな布が、時折風に揺れている。
「オバさん。俺、オバさんのこと嫌いじゃなかったよ。人の事いちいち口出してくるし、おせっかいだし、うるさく思うこともあったけど……ホントは、嫌じゃなかった……」
そうだ。むしろ嬉しかった。自分を気にかけてくれることが。片親の上、母親が夜の仕事をしているという境遇の所為で、 周囲からつま弾きにされがちだった幼い俺を、親身になって案じてくれていたことが。母さん以外で偽りも打算も無い愛情を真っ直ぐに向けてくれたのは、オバさんだけだった。
顔を伏せた。視界の端に、紅黒い血溜まりに落ちた母さんの体と、無造作に投げ出されたオバさんの腕が映る。
――もう見られない。母さんの優しい笑みを。
――もう聞けない。オバさんの少し枯れたような元気な声も。
これ以上
「何で……」
無意識に、呟きが漏れた。口にしたって仕方が無いからと、ずっと抑え込もうとしていた言葉。
「何で二人が、死ななくちゃいけないんだよ!」
突然の大声に驚き、周囲にいたカラス達が一斉に飛び立った。抜けるような青い空に不釣合いな、何枚もの黒い羽が、既に死んでしまった街に柔らかく降り注いだ。
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