戦う術を求めて(1)


 成田からインドのデリーまでは、俺の住んでいた世界と同様、飛行機が出ていた。それを利用して、ひとまずインドへ渡った。悠々と客席に座って、ではない。

 今は謎のモンスター騒ぎで世界中おおわらわだ。他の世界はどうだかよくわからないが、人間界はたった二晩で混乱の坩堝るつぼと化していた。一般の客を乗せる便など一便も運行していない。混乱に乗じて貨物輸送用飛行機の中に紛れ込み、不自然な体勢で倉庫に潜むこと十時間。必死の思いでインドにつくころには、失神寸前だった。


 胸の傷も、無視できない。朝起きた時は大分楽になっていたから、多少の無茶はできるだろうと、たかをくくったのがいけなかった。即席の包帯で固定してあるが、巻き方が悪いのか、無理がたたったのか、痛みで時折眩暈がするほどだ。考えてみれば昨日から、傷に障る行動ばかりしている気がする。


――安静にしていればそのうち治る。


 エルドの残した言葉が耳に痛い。このままでは、治るものも治らない。小さくため息を付くだけでも痛む胸を拳で押さえ、とりあえず近くにあった柱に背をあずけて体を支えた。

 さて、ここからがまた問題だ。どうやって、スリランカへ渡ろうか。場所を説明するだけでも大変だ。こちらの世界に、などという国は無いのだから。

 考えてみれば、よく知られてもいない島に隠れ住んでいる老人なんて、本当に見つかるものだろうか。流石に簡単に会えるなんて思いはないが、妙案があるわけでもない。

 今更ながら自分の浅はかさが悔やまれた。頭に血が上って、焦りすぎていた。もっと事前に、情報を集めてからにすれば良かった。


「アの……」


 大体、エルドが得た情報の大元をあたれば、何か分かったはずなのに。それを聞くことすら頭に無かった。あんなことがあった後では無理も無かったかもしれないけど、必死の思いでここまで来て、この先どうしていいか分かりません、じゃ話にもならない。


「アの、スミマセン……」


 現地の人間に話を聞こうにも、インドは基本的にヒンディー語のはずだ。英語も通じる場所では通じるのだろうが、俺自身、英語が得意とは言えない。こんなことなら、もっと真面目に勉強しておけばよかっ――


「アの! スーミーマーセーンー!」

「……え?」


 ふと我に返り、視線を声のした方――下へと向けた。

 全く気付かなかったが、いつの間にか目の前に、俺の胸位までの背丈の女の子が立っていた。年は十二、三歳といったところか。色あせた花柄のワンピースを身に付け、彼女の体に比べるとかなり大きな荷物を背負っている。

 未だ幼さの残る丸みを帯びた顔立ちで、濃い褐色の肌のせいか、こちらに向けて開かれた瞳が大きく映った。先ほどの訛った感じの日本語といい、どうやら現地人のようだ。

 少女は少し厚めの唇をとがらせ、首を思いきり傾けて俺を見上げていた。いかにも文句がある、という雰囲気。どうやら俺が気付く随分前から、声をかけていたらしい。


「あ、ごめん。何か用かな?」


 俺が笑みを返すと、少女はむくれつつも手に持っていた何かを俺に差し出した。


「コレ、落とシましたヨ!」


 首を傾げながら、その手に載せられたものを見て、はっとした。

 紅地に漢字の旧字体とアルファベットで書かれた国名。金の菊の御紋が光る、手帳サイズの小冊子。一言断って手に取り中身を開いて確かめると、生まれてこのかた一度も染めたことのない黒髪と、流した前髪が眉間にかかる細面、虚空を睨みつける切れ長の瞳が出迎えた。俺のパスポートだ。

 いつ落としたのだろう。そう言えば誤って中に迷い込んでしまったふりをして税関を通った後、鞄にしまおうとした時に、酷い痛みでうずくまった。恐らくその時だ。

 危ないところだった。これだけ混乱した現場でパスポート不所持が発覚しようものなら、下手をすれば留置場行きにもなりかねない。

 蒼白で固まった俺の顔を、少女が覗き込んだ。


「アナタのデしょう?」

「あ、ああ。拾ってくれてありがとう。助かったよ」


 少女は満足そうに何度か頷き、俺の方を向いたまま一歩後ろに下がった。


「そうデスか、オ役に立テテ良かったデス。今度カラは、気ヲつけて下さいネ」


 大人びた口調で言い残し、きびすを返して立ち去ろうとする。慌てて、その背中に声をかけた。


「ちょっと待ってくれ」

「……何デスか?」


 彼女が振り向いたのを見届け、パスポートを鞄にしまい込む。今度はしっかりとチャックを閉じたところまで、確認。背負った鞄を背負いなおし、少しかがんで彼女に視線を合わせた。


「大切なものを拾ってくれたお礼に、お茶を一杯ごちそうしたいんだ。いいかな」


*  *  *


 空港内にある、落ちついた雰囲気の喫茶店に入った。慣れない英語を駆使して、アイスコーヒーとオレンジジュースを注文する。

 日本語圏を脱し、自身の言語スキルが心もとない今、日本語が通じる人材は貴重だった。まさか彼女が老人のことを知っているだろうなんて都合のいい考えはないが、多少の情報は得られるかもしれない。それに実際、パスポートのお礼もしたかった。


 少女は喫茶店に慣れていないのか、キョロキョロと忙しなく周囲を見回してばかりいた。俺にパスポートを手渡した際の毅然きぜんとした態度とは大違いだ。

 暫くして注文の品が運ばれてくると、ぱっと顔を輝かせた。早速、目の前に置かれたオレンジジュースのストローに手を伸ばそうとして、ふと何かに気づいたように俺を見る。宙に浮いた手を膝の上に戻し、つぶらな瞳でじっと顔を覗き込んでくる。おあずけを食らった子犬のように。

 苦笑しながら動作でジュースをすすめると、少女は嬉しそうにぺこりと頭を下げ、今度こそストローに口をつけた。


「さっきは、ありがとう」


 コーヒーにミルクとガムシロップを入れ、ストローでかき混ぜながら、改めて礼を言った。グラス一杯に入った大きめの氷が、カラカラと涼しげな音を立てる。


「イエ、当然ノ事ヲしただけデスから」


 また大人びた口調に戻った少女は、一度ストローから口を離すと頭を振った。表情まで取り澄ました感じになっているのが、かえって可笑しい。


「ところで、日本語上手だね。誰かに習ったの?」

「あ、実ハ私のマ――母が日本人なんデス」


 ママと言おうとした口を手で押さえ、慌てて母と言い直す少女。俺は浮かびそうになった笑みを、コーヒーと一緒に飲み込んで誤魔化した。


「へえ、そうだったのか。どうりで上手い訳だ」

「そ、そうデスか? アリガトウございマス」


 少女は恥ずかしそうに頭を下げ、少し顔を赤らめた。嬉しいけれど照れくさい、そんな表情だ。すぐには俺の方へ視線を戻さずに、目の前のストローをいじっていた。いかにも幼い子供らしく、微笑ましい仕草だった。

 暫くして顔を上げた少女には、無邪気な微笑みがあった。口調も少し、砕けたものへと変わっている。


「アの、ココにはどうして来たんデスか? カンコウ?」


 初対面ゆえの警戒心が、少しずつとけてきたようだ。


「いや。実は、ある島をさがしてるんだ」

「シマ……」 

「うん。そこにはしばらく誰も住んでなかったんだけど、最近不思議なお爺さんが住みだしたらしくてね。 その人に会いに来たんだ。その島のこと、何か知らないかな?」


 少女は口許に人差し指ををあて、天井を睨みながらうーん、とうなった。随分と悩んでいるのを見かねて、知らないならいいんだ、と言おうとした時、 彼女の瞳に明るい光が灯った。


「私は……よくワカラナイけど、長老様ナラ知ってるカモしれない」

「長老様?」

「うん、私ノ村ノ長老様。長老様ハ物知りで、何デモ知ってるノ」


 少女は自信満々に言って、自分の両手をぱんと合わせた。

 、か。小さい村での話だろうから、実際に何でも知っているとまではいかないだろうが。確かに村の長ともなれば、その辺の人間よりは知識が豊富かもしれない、と思う。

 人間界に含まれるかどうかさえ危うい無人島に住み着いた老人の話など、モンスター騒動で混乱している今、テレビや新聞に取り上げられるはずもない。いっそ土着の文化に詳しい人間の方が、有力な情報を握っているのでは、と期待が湧いた。日本語を理解できるこの子が通訳になってくれれば、言語の問題もなんとかなりそうだ。


「良かったら、村に案内してくれないか?」


 俺の申し出に、少女は待ってましたとばかりに勢い良く頷いた。それから慌てて、残ったオレンジジュースを音を立て一気に飲み干した。


「イイよ! 私についてキテ!」


 言うなり、嬉しそうに立ち上がる。自分の足元に置いてあった大きな荷物を、ひったくるようにして背負いあげると、喫茶店の出入り口まで走って行き、自動ドアの手前で止まって手招きした。早く来い、と言わんばかりだ。こっちはまだ飲み終わっていないというのに。

 ウエイトレスが少女と俺を見比べ、くすくすと声を殺して笑った。

 つい先ほどまで目の当たりにしていた少女の大人びた態度を思い出すと、つられて笑いそうになる。結局、その欠片だけを口の端にのせ、コーヒーを残したまま、席を立った。

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