第17話 小兎のように





  

「小娘、名はあるか?」


 高圧的な物言いが耳の奥に木霊こだまする。

 心臓を掴まれたような戦慄が走り、眩暈めまいを覚えた。

 サーヤは、目前の見目麗しく不気味な女が魔族であると、直感的に悟っていた。それは、人間としての本能だったのだろう。

 相手の鋭い眼光がサーヤを見下ろし、先を促していた。


 怖い。

 体が動かない。

 涙が止まらない。

 声なんて出ない。

 でも、


 ―― でも、答えなくちゃ殺されちゃう!


 必死だった。

 サーヤは両頬を涙で濡らしながら、すがるような思いで声を振り絞った。


「あ・・・、さ・・・サーヤ・・・。」


 酷く、掠れた声だった。

 それでも、相手は聞き取ったらしい。その妖艶な口元が、にたりと弧を描いた。

 途端、サーヤは気付いてしまった。

 例え相手の問いに答えられたとして、今の状況の何が好転するというのか。

 自分は、恐ろしい狼に睨まれた小兎に過ぎないのだ。


 どうして。

 どうして、こんなことになってしまったの?


 絶対的な恐怖と絶望とに襲われ、サーヤの意識が混濁こんだくし始める。

 涙が溢れ、視界は霞み、息苦しさと激しい鼓動に胸が張り裂けそうだ。

 ぼんやりとする意識の中、サーヤの脳裏に、先刻までの楽しい情景が蘇った。






  ***




 春めいてきたその日、丘の上のラデンカの木から花が散った。

 昼前に一陣の強い風が吹き、赤い花びらを全て奪い去っていったのを、サーヤは庭先にいて目にしていた。

 少し寂しい気もしたが、それは本格的な春の訪れを意味していた。

 春が来る。

 そう思うと、胸が躍って仕方がなかった。





「モリー、見て! 木苺の花が咲いてる!」

 

 サーヤは春を探そうと、幼馴染のモリーと共に森を訪れていた。

 昼下がりの穏やかな日に誘われて家を出る際、「森へ出かけるなら薬草も頼むよ。」とサーヤの父親バジールに用事を言いつけられた少女たちは、面倒ごとは先に済ませて心置きなく遊ぼうと、森に入ってすぐ薬草探しを始めた。

 若い芽をつけた薬草がそこかしこに顔を出していた。

 少女たちは夢中になって薬草を摘み、その指先は葉の汁に染まった。

 バスケットに半分程の野草を採った頃、目敏いサーヤが木苺の可愛らしい花を見つけ、モリーを呼んだのだった。

 サーヤの編み込まれた薄茶の髪が、春の木漏れ日の中に躍る。

 快活な彼女は、緑色に染まった指先で白い小花に触れ、微笑んだ。

 駆け寄ってきたモリーは、木苺の花を見ると「まぁ、可愛い!」と飛び上がって喜んだ。

 モリーは、サーヤと同い年の小柄でそばかすのある少女だった。

 普段おっとりとした彼女も、春の訪れに心が躍るのだろう。

 今日のモリーは、少し癖のある濃茶の長い髪を編み込んでいる。それはサーヤとお揃いで、二人はサーヤの母親マヤに髪を編んでもらってから遊びに出たのだった。


「ねえ、サーヤ。薬草はもうこのくらいで充分でしょう? この花で冠を作りましょうよ!」

「賛成! 私、花冠を作ってレグルスに渡そ! お兄ちゃんのお見舞いにって。」

「え~、またあの子? 私、あの子苦手だわ。ちょっと怖くて。」

「モリーったら、人見知りして。レグルスは素直で良い子だよ? いつも一生懸命だし。ただ、すっごく不器用なんだよね。笑うのが下手なの!」

「そこが苦手なんだってば!」

「そう? でも、きっと大丈夫! そのうち仲良くなれるよ! お兄ちゃんが元気になれば、レグルスももっと笑えるようになるって! だから、モリーも花冠作るの手伝って? で、帰りに丘の上の小屋に寄って行こ?」

「仕方がないわね。サーヤは花冠作るの下手なんだもの。でも、小屋へは一人で行って。私はやっぱり怖いからイヤ。」

「もーう! モリーの怖がり!」


 サーヤとモリーは、しばらく「行こう」「行かない」と言い合いながら白い花を摘んだが、少女特有の気まぐれで話の流れはころころと変わっていった。大声で笑ったかと思えば、急にひそひそと囁き合って、おしゃべりに夢中になりながらも、しっかりと手は動かして花を摘んでいた。やがて少女たちは、木苺の花だけで冠を作るのは難しいと知ると、他の花を探しに場所を移った。

 遊び慣れた森の中を、二人の小さな足が歩んでゆく。

 少女たちを森の奥へと誘うかのように、春の花々が転々と咲いていた。

 二人は喜びに胸を躍らせた。

 しかしこの時、少女たちの背後からは、ひたひたと魔の手が忍び寄っていたのだった。




 空は晴れ渡り、春の太陽は燦燦さんさんと輝いている。

 木漏れ日の中、夢中になって花を摘み、モリーに助けられながら花を編んで、ようやく花冠を完成させた時、サーヤの頬を冷たい風がなぶった。

 顔を上げたサーヤは、目に映った周囲の様子を見て驚愕した。


「え、霧?」


 いつの間にか周囲は、薄いもやに覆われていた。

 サーヤはすぐさま天を仰いだ。しかし、空は晴れ渡り、木々の間から陽光も差している。

 この明るさの所為で、薄霧が立ち込めてきたことに気付けなかったのだろう。


「・・・何で霧なんか・・・、雨でも降るのかな?」

「サーヤ、早く帰りましょ。」

「そうだね。」


 そう言って、二人は慌てて来た道を戻り始めた。

 しかし、そんな二人の行く手を阻むかのように、冷気と薄紫色がかったもやが流れ込んでくる。二人はバスケットに入れて持って来ていたローブを羽織って先を急いだが、気温はぐんぐん下がり始め、あっという間にきりが立ち込めてしまった。

 サーヤは再び天を仰いだ。

 森の木々が枝葉を伸ばしてはいたが、その合間から見える空は青く明るい。


「晴れてるのに、どうして霧が出て来たんだろう?」


 首を傾げるサーヤの隣で、ローブの前を引き寄せながらモリーが答えた。


「急に気温が下がったからじゃない? うー、寒ーい。きっと、私たちが思うより、春はまだまだ先だったのね。」

「・・・そうかなぁ。」


 モリーの言う通りなのだろうが、何故かサーヤはすっきりしなかった。

 何か変だ、と心に引っかかって仕方がない。

 けれど、考え込んでいる暇はなかった。これ以上、きりが濃くなる前に森を出なくては、迷子になってしまう。

 二人は無言のうちに足を速めた。

 しかし、そんな二人を嘲笑あざわらうかのように、霧はますます深くなってゆく。

 やがて二人は、どちらともなく足を止めた。

 恐れていた事態に陥ってしまったのだ。


「サーヤ、迷ったかも。」

「でも、道は間違ってないはずなのに。」

「どうしよう。」

「もう少し行ってみよう!」


 サーヤはモリーを励まして、足を進めた。

 しかし、行けども行けども、森を抜けることが出来ない。どうも、同じところをぐるぐる回ってしまっているようだった。


「どうしよう、完全に迷っちゃったよ。」


 困り果てて思わず吐いてしまったサーヤの言葉に、モリーの表情が崩れる。その瞳にたちまち涙が溢れるのを見て、サーヤは慌ててモリーの手を握り締めた。


「大丈夫! お父さんもお母さんも、私たちが森に入ったことを知っているんだから、帰りが遅かったら探しに来てくれるよ。だから、もうこれ以上迷わないように此処でじっとして、霧が晴れるのを待とうよ。ね?」


 サーヤの言葉に、モリーはこくこくと何度も頷いた。

 サーヤはそれを見てホッとしたが、心細い気持ちはモリーと同じだった。

 木の根元に二人寄り添って座り、少しでも気を晴らそうと、バスケットの中を覗き込む。


「モリーのお陰で、綺麗な花冠が出来たね。」


 サーヤが自分の花冠を手にしてモリーに笑いかけると、顔を上げたモリーも笑って応える。しかし、その笑みは引きつっていた。それを見て、サーヤはすぐさまモリーの肩を抱いた。サーヤ自身、そうしてモリーの体温を感じ取ることで、自分を励ましていた。

 二人はそうして、半時程互いを励まし合っていた。

 いくら待っても霧は晴れない。それどころか濃くなっていくばかりで、サーヤは薄紫色のもやの壁を見つめ、それから空を仰いだ

 やはり、晴れている。

 何か、不可思議なことが起きているのではないだろうか。

 サーヤがそう思い始めた時だった。

 視界の隅で、何かが光った。ハッとして目を凝らす。

 と、金色の光が二つ、薄紫がかった霧の中から、サーヤとモリーを凝視していた。

 眼光だった。

 最初一対だったそれが、二対、四対、終いには六対と、瞬く間に増えていく。

 サーヤが息を飲んだ様子を見て、モリーも事の次第に気が付いた。


「もしかして、狼!?」


 モリーが引きつった声を上げる。


「そんな、・・・この森に狼が出るだなんて・・・。」

「ま、まさか、」

 

 「魔獣?」と、モリーが口にした瞬間、サーヤはモリーの手を強く握り締めて立ち上がった。


「モリー、逃げよう! バスケットは捨てて!」


 瞬間、二人はバスケットを放り出して走り出した。

 サーヤとモリーを凝視していた目は追って来ない。

 サーヤはそれに安堵と疑問を感じながら、モリーの手を引いてひたすら走った。

 やがて見覚えのある道に出た。それが村へと続く道だと気づいて一気に駆け下りようとした時。


「キャ!」


 二人の行く手を塞ぐように、ひょいと獣が姿を現した。

 イヌ科の動物に似ていたが、風貌は犬とも狼ともつかない獣で、体も狼より一回り程大く、額にはいくつか盛り上がりがあった。それが小さな角だと気づいた時には、サーヤはモリーの手を引いて進路を変えていた。モリーは転びそうになりながらも必死についてくる。

 サーヤはそんなモリーを気遣いながら後ろを確認したが、やはり魔獣は追い駆けてこなかった。

 そうして走り続け、サーヤもモリーも息を切らせていた。立ち止まって呼吸を整えていると、背後の霧の中からのそのそと、魔獣が姿を現す。襲ってくる様子はないが、二人の後を追ってきていることは確かだった。

 サーヤとモリーは追い立てられるようにして走り続けた。

 しばらくすると、また魔獣が現れて進路を変えた。

 また走り、また魔獣が現れる。しかし、襲ってくる様子はない。

 進路を変え、追い立てられ、これではまるでもてあそばれているようだ、と思い至った時、サーヤはハタと気が付いた。


 ―― ・・・もしかして、何処かへ誘い込まれてるの・・・?


 それまで恐怖と焦燥に苛まれて小さくなっていた疑問が、漸く晴れた。

 魔獣たちのあの不可思議な動き。

 あれは、サーヤたちを何処かへ追い込んでいたのだ。

 そうと思い至って、サーヤは足を止めた。

 モリーが激しく肩を上下させながら、地面にしゃがみ込む。

 サーヤもひどく疲れていたが、それどころではなかった。

 何か、恐ろしいにかかってしまったのかも知れない。そう思うと体が震えたが、サーヤは必死に周囲へと目を走らせ、耳を澄ませた。

 だいぶ森の奥へと入り込んでしまったようだった。

 木々は生い茂り、梢の間から覗く空は、夕焼けに染まりつつある。

 このまま夜を待つことしか出来ないのだろうかと、周囲を見回すが、相変わらず四方は薄紫かかった霧の壁に覆われていた。これでは、何処に魔獣が潜んでいるのか、いつ襲い掛かってくるのか、まるで想像がつかない。

 サーヤは身の拠り所のなさに震え、両腕を掻き抱いた。


「助けて。・・・お父さん、お母さん・・・。」


 そう呟いた時。

 サーヤの耳に、微かな話声が届いた。


 ―― ・・・誰かいる・・・?


 助かるかも知れない!

 サーヤの胸に、僅かな希望の灯火ともしびがともった。

 サーヤはモリーの肩を抱いて立たせると、「聞こえる?」と声を掛ける。最初こそ首を傾げていたモリーだったが、やがて彼女の耳にも、微かな人の話し声が届いたらしい。モリーは表情を輝かせ、「人の声?」とサーヤに笑って見せた。

 二人は、声のする方へと手探りで歩みだした。




 少しずつだったが、サーヤとモリーは確実に、声のする方へと近づいていた。

 やがて、微かだった人の声が、言葉と言う形を持ち始める。


「 ―― ・・・たの。

 さぁ・・・・・ぉ愛しいヒルデや。ヨルダのものを見せておくれ。」


 薄紫がかった霧の向こうから、確かに人の声がする。

 女性の声だった。

 その優しげな声にサーヤの胸に安堵が広がる。その人の姿をなんとか見たいと、一歩、足を進めた刹那だった。


「なんと、哀れな。」


 空気が震えた。

 先程の優し気だった声音は一変し、そこに込められた怒りと憎しみが空気を伝わって二人の元まで届いた。

 サーヤの肌は粟立っていた。手を取り合っていたモリーの肌も鳥肌立っている。

 サーヤとモリーは顔を見合わせ、お互いの血の気の引いた表情に驚愕した。

 途端、どちらからともなく、体が震え出す。

 しかし、そんな二人のことなど構うことなく、霧の向こうの人物は増々声を荒げた。


「わたくしの妹を、こうもはずかしめようとは。

 許さぬ。決して許さぬぞ。

 ヨルダのかたきめ、必ず見つけ出し、始末してくれる。必ずじゃ!

 ・・・じゃが、その前に。

 喜ぶが良いヒルデ。ようやっと分かったのじゃ。

 そなたの美しい髪を焼き、このわたくしの指先を汚した、あの炎使いの居場所が。

 ソキじゃ。」


 異様な気迫におののきながらその場に立ち尽くしていたサーヤとモリーは、『ソキ』の名を聞いて息を飲んだ。

 サーヤは感じていた。

 霧の向こうの人物は危険・・かも知れない、と。

 それはただの勘だったが、モリーも同じことを感じ取っているらしく、二人の足は揃ってその場を後退あとずさっていた。

 女の声は、尚も話を続けている。

 

「ラデンカの加護が気に病まれるのであろう?

 あれの所為で、以前は手が出せなんだのう。

 ・・・しかし、案ずることはない。既に手は打ってある。」


 不穏な響きを含んだ言葉に、その意味は分からずとも、おののきから二人の足がガクガク震え出した。

 村に、何か災いが起こるかも知れない。知らせに村へ戻らなければと思うが、この霧では村へ帰るどころか、また魔獣におびえながら森を彷徨さまよい歩くしかない。まさに八方塞がりだ。

 立て続けに起こる不運に、サーヤの胸は張り裂けそうだった。

 そんなサーヤの隣にいたモリーが、不意に擦れたうめき声を漏らす。


「・・・もう、もうイヤだ・・・。」

「・・・モリー・・・?」


 小さく言って、モリーがその場にしゃがみ込だ瞬間、ガサガサっと微かな音が立った。ビクリと肩を震わせたサーヤが霧の向こうへと視線を走らせると同時に、薄紫がかった霧の中から二匹の魔獣が飛び出してきた。

 先に来た一匹がサーヤの目前で、モリーの首根っこを咥える。モリーの叫び声が上がったと思った時には、サーヤもあとから来たもう一匹に押し倒され、同じように首根っこを咥えられた。

 二匹は、悲鳴をあげるサーヤとモリーを軽々と咥え上げ、霧の中へと踵を返す。

 魔獣が走ると同時に下半身が引きずられ、サーヤの足に激しい痛みが走った。歯を食い縛って耐えるサーヤの鼓膜を、モリーの悲鳴が震わせる。

 サーヤが二、三度地面に膝を打ち付けたところで、魔獣は足を止めた。

 牙から解放され、恐る恐る周囲を伺ったサーヤたちの周囲を、無数の魔獣が囲んでいた。サーヤはその光景に言葉を失い、縋るような思いで隣に目をやった。そうしてサーヤが見たのは、感情を全て失って蒼白するモリーの顔だった。その視線の先を追って、サーヤも愕然とした。


 サーヤとモリーの目前で不敵に微笑む女が二人。

 一人は銀色の短髪で、もう一人は豊かな黒髪を風にかせていた。

 黒い髪と、黒ずんだ金色の瞳。

 真っ白な肌と、しなやかで長い体躯たいく

 それは、人間ではなかった。


「この小兎こうさぎどもが、わたくしのさくじゃ。」


 黒髪の女が、ぷっくりと赤い唇を微笑ませながら言った。

 霧の向こうからサーヤたちの聞いていたのは、黒髪の女の声だった。

 女は艶やかな黒髪を揺らしながら立ち上がり、持て余しそうな程長く白い手足を優雅に動かして、こちらへと歩み寄ってくる。

 途端、サーヤの隣で、モリーが悲鳴を上げてうずくまった。

 サーヤはそれを視界の隅に留めながらも、金縛りにあってしまったかのように身体が動かず、逃げることも叫ぶことも出来ずにいた。ただ、涙だけが溢れた。

 そんなサーヤの顎を、女の足先が器用に上げさせる。


「小娘、名はあるか?」




 





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