第10話 蒼い鳥の面影
昨夜の雨の
清々しい朝のひと時。
しかし、
目覚めた瞬間、
頭も体も、そして気分も、まるで
何が起こったのか分からず、薄く
「レグたん、おはよ。気分はど?」
「・・・最悪」
相手の笑顔さえもが
レグルスは、大きな舌で無遠慮に頬を舐めまわしてくるリルーを押しのけ、鉛の体をなんとか起き上がらせた。
「・・・なんか、気持ち悪い・・・」
頭を抱えて
「二日酔いだね」
面白がるように言われて一瞬苛立ったが、「そうか、これが二日酔いか」と分かると、何かがふっと
そうだ、トウマもよく二日酔いになっていた。
村や町で宿がとれると、トウマは決まって飲み屋に繰り出した。しかも、嫌がるレグルスを
トウマはすぐさま飲み屋の亭主や居合わせた客と仲良くなってしまい、レグルスはいつも居心地の悪さを抱えながら一人静かに食事を済ませた。そうして運が良ければ、トウマの目を盗み、一人先に宿の部屋へと逃げ帰ることが出来るのだが、彼に放してもらえなければ、酔っ払いたちに囲まれながら、その膝の上で眠り、夜を明かした。
トウマは朝まで飲み明かし、翌日は「頭が痛い」「飲み過ぎた」などと
―― 今度トウマが二日酔いになったら、もっと優しくしよう。
レグルスは、ごくごくと
あんな風に酒を飲んだのは初めてだった。今までは、野宿の夜などに、温めた葡萄酒を口にして、体を温める程度だったのだ。
しかし、こちらが
「
昨夜の酒の全てが元気の源だと言わんばかりに満面の笑みを浮かべ、軽快に朝食の準備を始めるフェリドの様子が
レグルスは、そんな彼に対する不当な反骨精神から自分を奮い立たせ、寝床から起き上がった。
先に立ち上がっていたフェリドが、軽く小首を傾げてこちらを見下ろしながら口を開く。
「トウマさんもまだ寝てるし、レグたんもゴハン出来るまで寝てていいよ?」
「・・・いい。水、
そう言うと、レグルスはまず寝台へと歩み寄り、トウマの様子をうかがった。相変わらず、静かに眠っている。
―― 今日は何か口にしてくれるだろうか。
ここのところトウマが口にするものといえば水物ばかりだ。
フェリドの方へと目を向ければ、彼は既に暖炉の傍に座り込み、鼻歌を歌いながらジャガイモを
レグルスは
「いってらっしゃい!」
すると、陽気な返事が返ってきた。
一瞬、扉を押し開こうとした手が止まる。
もう何日も、聞かない言葉だった。トウマが元気だった頃を思い出して、不覚にも目頭が熱くなる。
レグルスは、精一杯の
昨夜の
濡れた草の上に、
まるで血の海のようだと思い、レグルスの脳裏に魔獣と死闘を繰り広げた夜の光景が
あの夜、むせかえるような匂いを放っていたのは、大量の血と、焼け
思い返すと、胃の
レグルスは
見上げたラデンカの木は、沢山の雫を抱え、
どっしりとした幹に枝がそびえ、これだけの花弁を散らしてもまだまだ豊かな花房を誇り、若緑の葉がつやつやときらめく。それは、大地を染める血を吸って生気を得たからではないかという妄想が頭をもたげ、吐き気を覚えた。
嵐で洗われ空気が澄んでいる分、目の前の光景は凄みを増して見えた。
―― ・・・馬鹿らしい・・・。
二日酔いなどになるから、愚かな妄想に
早く冷たい水で顔を洗い、気を引き締めよう。
レグルスは水桶を持ち直してラデンカの木に背を向けた。
***
ラデンカの丘を下ると清らかな流れがある。
丘と村とに寄り添うようにしてあるその川が、この地に恵みをもたらしていた。
この流れを村の方へと下れば、川沿いに果樹園が広がる。春には
レグルスは少し上流へと向かい、浅瀬になっているところで靴を脱いだ。
冷たい流れの中に足を
春が近いというのにまだまだ朝晩は冷え、川の水も凍てつく冷たさだったが、二日酔いに
やがて、冷たい流れに
頭痛は治まらなかったが、気分は晴れた。
服の袖で顔を拭うと、そばに置いていた水桶を手に取り、たっぷりと水を汲んだ。川岸へと上がると重たくなった水桶を置き、自分もその隣へ腰を下ろす。足を拭く布を忘れたレグルスは、平たい石の表面に足の裏をピタリとつけて、両足を
しばらくすれば、靴を
周囲に高い木々が点在するこの辺りは森の入口だ。上流の方へ向かうにつれ、森は深くなる。レグルスは何度かこの森へ入って狩りをした。豊かな森だった。
今は森の木々の上で、小鳥たちが羽を休めている。皆、思い思いの枝にとまり
その中に「蒼い鳥」の姿を探してしまうのは、子供の頃からの
悲劇を愛する「蒼い鳥」。
大人になることの寂しさに思いを
途端、寝たきりになったトウマの姿が脳裏に
―― 早く帰らないと・・・。
レグルスは立ち上がり、まだ雫の宿った足を振るって靴を履いた。
その時だ。
急に、周囲の小鳥たちが高々と鳴き始めた。
レグルスは驚いて枝々を見渡した。先刻までおしゃべりに夢中になっていた小鳥たちが、
こんな光景を目にするのは初めてだった。
一体何が起きているのかと
レグルスは驚愕のあまり、その場に立ち尽くすことしか出来なかった。
―― ・・・何だ、今の・・・。
小鳥たちが去り、
しばらくして、レグルスの耳元を風がさっと駆け抜ける。
それと同時に
先刻の小鳥たちのそれとは異色の美しい歌声。
人の声だった。
男だろうか女だろうか、判別し難い。しかし、心地よい響きだ。
そして、耳を優しく撫でつける美しい
異国のものなのだろうか。その節も流れも、レグルスが初めて耳にするものだった。
・・・それなのに。
―― 何故だろう。
その胸の痛みが『懐かしい』という感情であることを、この時のレグルスはまだ知らない。
無意識に、レグルスの足が歌声のする方へと
まるで歌声に
意識は歌声に
しかし「行かなくてはならない」という衝動が、レグルスを突き動かしていた。
***
歌にいざなわれるまま、川沿いを上流に向かって歩き続けた。
途中で川の流れが分かれていたが、レグルスは迷わず支流に沿って進んだ。
次第に森は深くなり、木々の枝には鳥が集まっている。その鳥たちは風に運ばれてくる歌声に合わせて
流れは、次第に細くなってゆく。
森の中は、以前レグルスが狩りに入った時とは様子が違っていた。季節の移ろいということではない。森が淡い光に包まれていたのだった。
様々なものが明かりを宿していた。
葉の葉脈、草の上の雫、目覚め始めた新芽、まだ固い
しかし、レグルスには周囲の様子など見えていなかった。その思考は閉ざされ、視線はただ先へと向けられている。
昨夜の雨でぬかるんだ森の中を、ただひたすらに足を進めた。
いつの間にか、上流から吹く風や川の流れが微かな血の匂いを運んできていたが、意識のぼんやりとしたレグルスには気付きようがなかった。
ただ本能が告げている。
「進め」、と。
体内を巡る血液が
歌声へと惹きつけられる
途端、レグルスの閉ざされていた思考が鮮明になる。
鼻先を微かな血の匂いが
そんなレグルスの眼前には泉が広がっていた。
大きな泉だ。
レグルスはその時初めて、周囲の森が淡い光に包まれていることに気が付いた。
そんな幻想的な光景と、微かに
困惑に眉根を寄せるレグルスの耳に、ちゃぽん、と水音が聞こえて視線を走らせる。
すると、泉の水面に、蒼い影が浮かんでいた。
それが人の頭だと分かるのに、そう時間はかからなかった。
蒼い髪が水面を滑っている。
誰か泳いでいるのだと気づいた時、ふわっと蒼い頭髪が浮かび上がり、あの歌声が再びレグルスの耳を
「・・・っ」
レグルスが息を飲んだ瞬間、歌いながら
―― ・・・綺麗・・・。
そう思った瞬間、レグルスの胸中に一抹の不安が
目の前にしている幻想的な光景。
そして、美しい蒼い髪。
かつて、レグルスに忠告したお婆は言っていた。蒼い鳥のことを「彼女」と。
蒼い鳥が「鳥」であるとは限らない。
変幻自在でもおかしくないのではないか。
何しろ「彼女」は、悲劇を
―― ・・・まさか、これが蒼い鳥・・・⁉
瞬間、
蒼い髪が揺れ、彼女が振り返ろうとした瞬間、
風圧を受けてレグルスが目を
男だった。
黒づくめの長身が、さっとレグルスの視線から「蒼い鳥」を
レグルスの目前で、影は変形を繰り返した。幾つもの黒い帯へと姿を変えた影は
その銃口は、真っ直ぐにレグルスへと向けられていた。
全ては束の間の出来事だったが、レグルスの目には、その全てがスローモーションのように焼き付いた。
―― ・・・っ、
レグルスの
「やめろ、撃つなっ!」
誰かが叫んだ次の瞬間、森の中に銃声が
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