第10話 蒼い鳥の面影

 



 昨夜の雨の名残なごりが草木をらしている。

 下草したくさに宿るしずくに陽光が当たり、ラデンカの丘がきらめいていた。

 清々しい朝のひと時。

 しかし、水汲みずくみに出たレグルスの気分は最悪だった。

 


 



 目覚めた瞬間、にぶい痛みが頭にのしかかってきて、レグルスは小さくうめいた。

 頭も体も、そして気分も、まるでなまりのように重たくて起き上がれない。

 何が起こったのか分からず、薄くまぶたを開いてうなっていたレグルスの視界に、ひょっこりと、笑顔のフェリドとリルーが顔を出した。


「レグたん、おはよ。気分はど?」

「・・・最悪」


 相手の笑顔さえもがわずらわしい。

 レグルスは、大きな舌で無遠慮に頬を舐めまわしてくるリルーを押しのけ、鉛の体をなんとか起き上がらせた。


「・・・なんか、気持ち悪い・・・」


 頭を抱えてうめくレグルスに、フェリドが水を手渡しながら笑った。


「二日酔いだね」


 面白がるように言われて一瞬苛立ったが、「そうか、これが二日酔いか」と分かると、何かがふっとに落ちた。

 そうだ、トウマもよく二日酔いになっていた。

 村や町で宿がとれると、トウマは決まって飲み屋に繰り出した。しかも、嫌がるレグルスをともなって。

 トウマはすぐさま飲み屋の亭主や居合わせた客と仲良くなってしまい、レグルスはいつも居心地の悪さを抱えながら一人静かに食事を済ませた。そうして運が良ければ、トウマの目を盗み、一人先に宿の部屋へと逃げ帰ることが出来るのだが、彼に放してもらえなければ、酔っ払いたちに囲まれながら、その膝の上で眠り、夜を明かした。

 トウマは朝まで飲み明かし、翌日は「頭が痛い」「飲み過ぎた」などと愚痴ぐちりながら日が高くなるまでゴロゴロと過ごした。そんなトウマの頭を冷やしてやったり、水を飲ませたり。介抱かいほうするレグルスの方が愚痴りたい気分だったが。・・・そうか、これが二日酔いか。確かに辛いものだ。


 ―― 今度トウマが二日酔いになったら、もっと優しくしよう。

 

 レグルスは、ごくごくと咽喉のどを鳴らして水を飲んだ。しかし、コップ一杯ではかわきが癒えない。

 寝床ねどこの上に座り直して頭をくと、昨夜の葡萄酒ぶどうしゅの口当たりの良さが苦々しく思えた。

 あんな風に酒を飲んだのは初めてだった。今までは、野宿の夜などに、温めた葡萄酒を口にして、体を温める程度だったのだ。

 しかし、こちらがひどい二日酔いに悩まされているのに対し、同じように飲んでいたはずのフェリドはケロッとしている。


つらいかもしれないけど、何か食べたほうがいいよ」


 昨夜の酒の全てが元気の源だと言わんばかりに満面の笑みを浮かべ、軽快に朝食の準備を始めるフェリドの様子がうらめしい。

 レグルスは、そんな彼に対する不当な反骨精神から自分を奮い立たせ、寝床から起き上がった。

 先に立ち上がっていたフェリドが、軽く小首を傾げてこちらを見下ろしながら口を開く。


「トウマさんもまだ寝てるし、レグたんもゴハン出来るまで寝てていいよ?」

「・・・いい。水、んでくる」


 そう言うと、レグルスはまず寝台へと歩み寄り、トウマの様子をうかがった。相変わらず、静かに眠っている。

 

 ―― 今日は何か口にしてくれるだろうか。

 

 ここのところトウマが口にするものといえば水物ばかりだ。

 フェリドの方へと目を向ければ、彼は既に暖炉の傍に座り込み、鼻歌を歌いながらジャガイモをけずるように細かく切っていた。レグルスの視線に気が付くと、「スープだよ。具材は細かい方が食べやすいでしょう?」と笑みを見せる。病床びょうしょうにあるトウマを気遣ってか、はたまた二日酔いのレグルスも同じようにおもんばかられているのか。とにかく、スープを作るというのなら、トウマの為にも新しい水で作ってもらおう。

 レグルスは水桶みずおけを掴み、ぼんやりとする頭を抱えたまま、何の気なしに「行ってきます」と呟いた。


「いってらっしゃい!」


 すると、陽気な返事が返ってきた。

 一瞬、扉を押し開こうとした手が止まる。

 もう何日も、聞かない言葉だった。トウマが元気だった頃を思い出して、不覚にも目頭が熱くなる。

 レグルスは、精一杯の虚勢きょせいを張って小屋を出た。






 昨夜の風雨ふううで、ラデンカの花びらが幾らか散っていた。

 濡れた草の上に、数多あまたの花びらが無慚むざんに横たわっている。

 まるで血の海のようだと思い、レグルスの脳裏に魔獣と死闘を繰り広げた夜の光景がよみがえった。

 あの夜、むせかえるような匂いを放っていたのは、大量の血と、焼けただれた肉だった。

 思い返すと、胃のの辺りが悲鳴をあげた。

 レグルスはかぶりを振ったが、二日酔いによる頭痛のせいか、凄惨せいさんなイメージは脳裏から離れていかない。

 見上げたラデンカの木は、沢山の雫を抱え、凄烈せいれつに輝いて見えた。

 どっしりとした幹に枝がそびえ、これだけの花弁を散らしてもまだまだ豊かな花房を誇り、若緑の葉がつやつやときらめく。それは、大地を染める血を吸って生気を得たからではないかという妄想が頭をもたげ、吐き気を覚えた。

 嵐で洗われ空気が澄んでいる分、目の前の光景は凄みを増して見えた。


 ―― ・・・馬鹿らしい・・・。


 二日酔いなどになるから、愚かな妄想にとらわれるのだ。

 早く冷たい水で顔を洗い、気を引き締めよう。

 レグルスは水桶を持ち直してラデンカの木に背を向けた。






  ***




 ラデンカの丘を下ると清らかな流れがある。

 丘と村とに寄り添うようにしてあるその川が、この地に恵みをもたらしていた。

 この流れを村の方へと下れば、川沿いに果樹園が広がる。春には林檎りんごの白い花が咲き乱れて綺麗なのだと、以前サーヤが話していたのを思い出した。

 

 レグルスは少し上流へと向かい、浅瀬になっているところで靴を脱いだ。

 冷たい流れの中に足をひたしてしゃがみ、両手にすくって水を飲んでから顔を洗う。

 春が近いというのにまだまだ朝晩は冷え、川の水も凍てつく冷たさだったが、二日酔いにかつを入れるには丁度良かった。

 にぶい頭痛をどうにかしたくて、何度も何度も顔を洗う。

 やがて、冷たい流れにひたしたままの足が、しびれに似た痛みを訴え始めて、レグルスはようやく顔を洗うのをやめた。

 頭痛は治まらなかったが、気分は晴れた。

 服の袖で顔を拭うと、そばに置いていた水桶を手に取り、たっぷりと水を汲んだ。川岸へと上がると重たくなった水桶を置き、自分もその隣へ腰を下ろす。足を拭く布を忘れたレグルスは、平たい石の表面に足の裏をピタリとつけて、両足をかわかし始めた。

 しばらくすれば、靴をけるくらいには乾くだろう。

 周囲に高い木々が点在するこの辺りは森の入口だ。上流の方へ向かうにつれ、森は深くなる。レグルスは何度かこの森へ入って狩りをした。豊かな森だった。

 今は森の木々の上で、小鳥たちが羽を休めている。皆、思い思いの枝にとまりさえずっていた。レグルスはそんな小鳥たちの様子を見つめた。

 その中に「蒼い鳥」の姿を探してしまうのは、子供の頃からのくせだ。

 悲劇を愛する「蒼い鳥」。

 勿論もちろん、そんなモノなど現実にはいはしない。少し歳を重ねれば、「蒼い鳥」の存在は御伽話おとぎばなしに過ぎないのだと誰もがさとってしまう。

 大人になることの寂しさに思いをせると、幼い日に「蒼い鳥」が怖くてトウマの腕の中で泣いた日のことを思い出した。

 途端、寝たきりになったトウマの姿が脳裏によみがえった。


 ―― 早く帰らないと・・・。


 レグルスは立ち上がり、まだ雫の宿った足を振るって靴を履いた。

 その時だ。

 急に、周囲の小鳥たちが高々と鳴き始めた。

 レグルスは驚いて枝々を見渡した。先刻までおしゃべりに夢中になっていた小鳥たちが、みな一様いちように森の奥へ視線を向けて歌っている。

 こんな光景を目にするのは初めてだった。

 一体何が起きているのかと瞠目どうもくするレグルスを尻目に、小鳥たちは朗々と歌い、一羽、また一羽と森の奥へと飛び去ってゆく。やがて誰かが合図したかのように、残りの数羽が一斉に飛び立って行った。

 レグルスは驚愕のあまり、その場に立ち尽くすことしか出来なかった。


 ―― ・・・何だ、今の・・・。


 小鳥たちが去り、静寂せいじゃくに包まれた川辺で、レグルスは白昼夢を見たような思いで呆然としていた。


 しばらくして、レグルスの耳元を風がさっと駆け抜ける。

 それと同時に耳朶みみたぶかすめたのは〈歌〉だった。

 先刻の小鳥たちのそれとは異色の美しい歌声。

 人の声だった。

 男だろうか女だろうか、判別し難い。しかし、心地よい響きだ。

 そして、耳を優しく撫でつける美しい旋律せんりつ

 異国のものなのだろうか。その節も流れも、レグルスが初めて耳にするものだった。

 ・・・それなのに。


 ―― 何故だろう。

    ひどく、胸が痛い・・・。


 その胸の痛みが『懐かしい』という感情であることを、この時のレグルスはまだ知らない。

 無意識に、レグルスの足が歌声のする方へとみ出す。そしてもう一歩、もう一歩と、ゆっくりと歩が進み、いつの間にか森の中へと踏み入っていた。

 まるで歌声にきつけられるように、体が勝手に動いた。

 意識は歌声にせられてしまったように、ぼんやりとしている。

 しかし「行かなくてはならない」という衝動が、レグルスを突き動かしていた。






   ***




 歌にいざなわれるまま、川沿いを上流に向かって歩き続けた。

 途中で川の流れが分かれていたが、レグルスは迷わず支流に沿って進んだ。

 次第に森は深くなり、木々の枝には鳥が集まっている。その鳥たちは風に運ばれてくる歌声に合わせてさえずりながら枝を渡り、レグルスを導くように上流へと向かっていた。

 流れは、次第に細くなってゆく。

 森の中は、以前レグルスが狩りに入った時とは様子が違っていた。季節の移ろいということではない。森が淡い光に包まれていたのだった。

 様々なものが明かりを宿していた。

 葉の葉脈、草の上の雫、目覚め始めた新芽、まだ固いつぼみ、しっとりと濡れたこけ、それら全てが、歌に呼応するように光を生み出していた。

 しかし、レグルスには周囲の様子など見えていなかった。その思考は閉ざされ、視線はただ先へと向けられている。

 昨夜の雨でぬかるんだ森の中を、ただひたすらに足を進めた。

 いつの間にか、上流から吹く風や川の流れが微かな血の匂いを運んできていたが、意識のぼんやりとしたレグルスには気付きようがなかった。

 ただ本能が告げている。

 「進め」、と。

 体内を巡る血液が躍動やくどうしているような感覚が全身を駆け巡り、心臓が早鐘はやがねを打っていた。

 歌声へと惹きつけられる衝動しょうどうに突き動かされて大きな岩肌を越えた時、突然、歌声が途絶えた。

 途端、レグルスの閉ざされていた思考が鮮明になる。

 鼻先を微かな血の匂いがかすめたような気がして、まゆをしかめた。

 そんなレグルスの眼前には泉が広がっていた。

 大きな泉だ。

 レグルスはその時初めて、周囲の森が淡い光に包まれていることに気が付いた。

 そんな幻想的な光景と、微かに鼻腔びこうをくすぐる血の匂いとが、レグルスの中で相反していた。

 困惑に眉根を寄せるレグルスの耳に、ちゃぽん、と水音が聞こえて視線を走らせる。

 すると、泉の水面に、蒼い影が浮かんでいた。

 それが人の頭だと分かるのに、そう時間はかからなかった。

 蒼い髪が水面を滑っている。

 誰か泳いでいるのだと気づいた時、ふわっと蒼い頭髪が浮かび上がり、あの歌声が再びレグルスの耳をでつけた。歌声に呼応して、森全体がふわりふわりと明滅めいめつする。

 

「・・・っ」


 レグルスが息を飲んだ瞬間、歌いながら水面みなもを滑るように泳いでいた人影が立ち上がり、その腰から上をあらわにした。こちらに背を向け、濡れた蒼い髪が背中に張り付いている。細い背中にまとわりついた髪の隙間から、透けるように白いなめらかな肌が見えていた。しかし、それは左半分だけのこと。もう右半分には、首筋から腰辺りまで焼けただれたように引きつった赤いあざが見えた。むごたらしいあざだったが、蒼い髪の下に白と赤との対比がえて美しかった。


 ―― ・・・綺麗・・・。


 そう思った瞬間、レグルスの胸中に一抹の不安がよぎった。

 目の前にしている幻想的な光景。

 そして、美しい蒼い髪。

 かつて、レグルスに忠告したお婆は言っていた。蒼い鳥のことを「彼女」と。

 蒼い鳥が「鳥」であるとは限らない。

 変幻自在でもおかしくないのではないか。

 何しろ「彼女」は、悲劇をかてとする「神」なのだから。

 

 ―― ・・・まさか、これが蒼い鳥・・・⁉

 

 瞬間、おそおののいたレグルスの咽喉のどからうめき声が漏れた。それは微かな声だったが、蒼い鳥には聞こえたらしい。泉の中にある彼女の背中がびくりと震え、歌声が途切れる。

 蒼い髪が揺れ、彼女が振り返ろうとした瞬間、一陣いちじんの風が吹いた。

 風圧を受けてレグルスが目をすがめた途端、泉のほとりから何かが飛び出した。

 男だった。

 黒づくめの長身が、さっとレグルスの視線から「蒼い鳥」をかばい、その体を抱きすくめて彼女の左手をからめとった。そして、その手を、レグルスを指差すように構えさせたかと思うと、瞬間黒づくめの男の姿が影へと変化する。

 レグルスの目前で、影は変形を繰り返した。幾つもの黒い帯へと姿を変えた影は躍動やくどうし、「蒼い鳥」の白い肌を滑ってレグルスへと向けられた左手へと移動する。少しの間そこでうごめいたかと思うと、「蒼い鳥」の手の中で銃へと姿を変えた。

 その銃口は、真っ直ぐにレグルスへと向けられていた。

 全ては束の間の出来事だったが、レグルスの目には、その全てがスローモーションのように焼き付いた。


 ―― ・・・っ、


 レグルスの赤眼せきがんに、銃口の奥に終結する粒子の閃光が焼きつけられる。


「やめろ、撃つなっ!」


 誰かが叫んだ次の瞬間、森の中に銃声がとどろいた。



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