第12話 決意と希望の兆し





 レグルスは、気分の高揚こうようを隠せずにいた。

 フェリドとレマを残し、リルーと共に全速力で森を抜けると、河原に置き去りになっていた水桶には目もくれず、その横を走り抜けた。

 疾走するレグルスに伴って走るリルーは、嬉しそうに飛び跳ね、時々少年の顔を見上げていた。しかし、レグルスはその視線にも気付かず、ただ前だけを見つめていた。


 ―― トウマが元気になる!!

    治癒魔法で治してもらえる!!!


 レグルスの胸は、その思いでいっぱいだった。






   ***

 



 時は少しさかのぼる。

 

「ナイ! キイ!」


 声をあげ、フェリドが両手を広げる。すると、レマの両肩にとまっていた二匹の小竜が空中へと舞い上がり、フェリドの首元へと飛び込んだ。

 小竜たちはキュンキュン鼻を鳴らしながらフェリドへと擦り寄っている。フェリドはそんな二匹の鱗を撫でてやりながら頬擦りした。

 主人と二匹から蚊帳の外にされてしまったリルーが、後ろ脚でぴょんぴょん飛び跳ねながら輪に入ろうとしている。

 レグルスはその様子を呆然と見つめていた。

 あの小竜たちは、一体何なのだろう。

 本当に、竜なのだろうか。

 それとも、別の何かなのか。

 少なくともレグルスは、今まで竜が実在するなど知らなかった。

 しかし、レマもフェリドも、リルーでさえも、小竜たちの存在を当然のこととして受け入れている。今この場でイレギュラーなのは、レグルスの方だった。


「それで、君の名は?」

「へ?」


 小竜たちに気をとられていたレグルスは、レマからの問い掛けに間抜まぬけな声を出していた。気恥ずかしくて内心閉口しながら視線を向けるが、レマは特に気にした様子もなく、真っ直ぐレグルスを見つめている。その碧眼には、強く不思議な光が宿っていた。

 瞳の色に魅せられ、黙って見返していたレグルスに、レマがふっと笑って口を開いた。


「まさか、〈レグたん〉が本名じゃないだろう?」


 言われて、レグルスは口を引き結んだ。

 フェリドが自分を「レグたん」と紹介したことを思い出し、眉間に皺が寄る。

 レマにまで酔狂なあだ名で呼ばれては堪らない。


「レグルス」


 レグルスが名乗ると、レマは囁くように「レグルス」と復唱した。

 それが何だかくすぐったくて、レグルスは目を逸らした。その為、レマが自分の名前以外にも何か呟いたことに、少年は気付かなかった。

 

「レマだ。傷つけてすまなかった」 


 レマは改めて名乗り、謝罪しながらレグルスへと右手を差し出す。

 レグルスは少し戸惑いながらその手を握り返すと、「いえ」と首を振った。


「・・・傷、治してくれて、ありがとう。

 あの竜たちは、レマのものじゃないの?」


 フェリドと小竜たちがじゃれ合う様子に目を向けながら問いかけると、レマは軽くかぶりを振って否定した。


「あの二匹は、フェリドの召喚獣しょうかんじゅうだ。任務遂行後、二手に分かれて帰路についた時、フェリドから預かり受けた。落ち合う時、あの子たちが私をフェリドの元へ導いてくれる手筈てはずだった。だが、君を傷つけてしまって段取りが狂ったからね。倒れた君の介抱を手伝ってもらおうと、ナイとキイを使いに出して、フェリドにこちらへ来てもらったんだ」


 二匹の小竜、ナイとキイが此処に現れると同時にフェリドとリルーがやってきたのにはそういう理由があったのだ。

 納得しながらも、レグルスは《召喚獣》という言葉に首を傾げた。


「・・・あの二匹は竜なの?」

「ナイもキイも、彼の召喚しょうかんした幻獣げんじゅうだ。」

「・・・ゲンジュウ?」


 問い返すレグルスに、レマが「異界いかいに生きる獣のことだ」と説明する。しかし、そこにも「異界」という耳慣れない言葉が現れた。

 レグルスの眉間に浅くしわが刻まれると、レマはそれを見ながら少し笑って口を開いた。


異界いかいとは、私たちが暮らす世界とは別の世界のこと。

 この世界は、いくつかの世界と折り重なるようにして出来ているんだが、普段は個々に存在していて交じり合うことはない。しかし、完全に断たれているわけでもないんだ。

 ここからはフェリドの受け売りになるが、世界と世界のはざまには幾つかのひずみがある。ナイとキイは、フェリドがひずみを通してこの世界へ召喚したんだ」

「・・・・・・」


 それを聞いて、レグルスの胸中には困惑と驚きとがない交ぜになった。

 初めて聞くことばかりだった。今の説明だけで全ては理解できない。何が分からなくて、どう質問したら良いかも分からない程だ。しかし、フェリドが優れた力を持っていることは想像出来た。

 目前の彼は、幻獣の二匹をまるで子犬か子猫でも相手にしているように扱っている。異界いかいの存在などと聞けば、レグルスなどそれだけで身構えてしまいそうだが、フェリドにとっては容易たやすい相手なのだ。

 レグルスは、昨夜酒を酌み交わした相手が、実はとても遠い存在であったことに寂しさを感じた。

 暖炉の前で一晩一緒に過ごし、彼に親しみを抱いていた分、レグルスの感じたフェリドとの距離は、少し胸にこたえた。


 ―― フェリドは、王都の精鋭せいえいなんだ。

    ・・・俺とは、住む世界が違う・・・。

 

 しかし、王都の精鋭せいえいだからと言って、魔獣使いが召喚術まで扱えるものなのだろうか。

 それに、異界いかいひずみ幻獣げんじゅう

 レグルスにとっては耳慣れないことばかりなのに、フェリドもレマも、当然のことのように知っている。

 

 ―― ・・・知らない俺の方が、非常識なのかな・・・。


 ふと不安に思ったレグルスの眉間に刻まれた皺は、先刻よりも深い。

 腕をさすりながら思い悩むレグルスの耳に、クスクスと笑い声が触れた。

 レマだ。

 振り返ったレグルスの眼差しを、レマの碧眼が絡めとる。 


「何か聞きたいことがあるんだろう。

 私が答えられることなら答えようか」


 それは願ってもない申し出だった。

 レグルスは脳内に散乱する幾つもの疑問を整理したが、やはり真っ先に聞きたいことは決まっていた。


「何故、フェリドは召喚術まで使えるんだ?」

「フェリドの一族については聞いたか?」

「・・・魔獣使いの一族だってことは」

「ルー一族は、ただの魔獣使いじゃない。異界から幻獣を召喚し、使役しえきする能力を持ったたぐいまれな一族なんだ。

 子供の頃から魔獣や幻獣を身近に感じながら共に成長するそうだ。

 ただし、一族の者全てが幻獣を操れるようになるわけじゃない。厳しい修行の末、魔獣使いで留まる者もいれば、更に幻獣使いを目指す者もいる。

 しかし、幻獣を召喚できるようになる者は一握りだそうだ。しかも、運良く幻獣を召喚出来たとしても、最後の試練に打ち勝たなければ幻獣使いにはなれない」

「最後の試練?」

「自ら召喚した幻獣を服従させること。

 それが適わなかった召喚者を待つのは、死あるのみだ。

 フェリドは族長の血筋で兄弟も多いそうだが、兄が二人、最後の試練に敗れて亡くなっている」

「・・・」


 最後の言葉に弾かれるような衝撃を受け、レグルスはフェリドを見やった。

 何故か、亡くなったというフェリドの兄たちの存在が、病床にいるトウマと重なってしまったのだ。

 胸が締め付けられた。

 トウマがあんなことになって、感傷的になっているのかも知れない。

 レグルスは強くこぶしを握り締め、想像でしかない痛みを振り払おうと激しくかぶりを振った。しかし、想像は脳裏から離れなかった。

 血の繋がった兄弟が亡くなる。

 それは、途方もない悲しみだろう。

 

 ―― ・・・もしも、トウマが・・・。


 そこまで考えて、レグルスはゾッとした。

 右の二の腕をさすると、自分が鳥肌立っていることに舌を巻いた。

 想像しただけで、自分はこうも怯えている。

 

 レグルスは、情けない己を押し殺すように奥歯を噛みしめて、フェリドへと視線を戻した。

 フェリドは相変わらず、ナイ、キイ、リルーとじゃれている。

 楽しそうな彼の姿を見て、レグルスは誰にともなく呟いた。


「・・・どうして、いつも笑っていられるんだろう?」

 

 それは、頭で考えるよりも先に口をついて出た言葉だった。

 レマがこちらを見ているのが分かる。

 何気なく口にした言葉だったが、それは心の声そのものだった。

 胸中をさらけ出してしまった気恥ずかしさに、深く頭を垂れる。

 レグルスは、実兄を亡くしたフェリドと自分とを、勝手に重ね合わせていた。しかし、今目にしているフェリドと自分とでは、何一つ一致しない。

 笑顔でいるフェリドと、遣る瀬無い思いでいる自分。

 何がこんなに違うのだろう? と、揺らぐレグルスに対し、次いでレマがくれた言葉が、明確な答えとなった。


「それが、彼の強さなんだ」


 レグルスは、レマの横顔に目を向けた。

 彼の蒼い眼差しは、もうこちらを見てはいない。

 真っ直ぐに、フェリドへと向けられていた。

 自信に満ち溢れた眼が、仲間への揺るぎない信頼を物語っていた。

 レグルスは、フェリドの笑顔とレマの眼差しに、彼らの強さを感じ取った。

 途端、疑問が想いへと変わった。

 何で何でと、疑問ばかりに囚われていた自分が、馬鹿らしく思えてきた。


 ―― ・・・俺も、強くありたい・・・。


 そう思ったレグルスの胸がじんじんしびれている。

 それは、この二人との別れが近いことを悟ってしまったからだ。

 フェリドは言っていた。

 この村で仲間と落ち合い、王都への帰路に着くと。


 ―― ・・・もうお別れか・・・。


 今まで感じたことのない寂寥せきりょうが、レグルスを支配していた。

 これまで旅に生きてきたレグルスにとって、出会いと別れは日常だった。フェリドとレマとのことも、今までと何も変わらない。そう思っていた。

 しかし、この胸を締め付けるような想いは何だろう。

 

 ―― ・・・この人たちと、もっと一緒にいたかった・・・。


 この出会いは特別だった。 

 彼らのことを、もっと知りたい。

 そうしたら、自分は何か変われるのではないだろうか。

 今よりも、強くなれるのではないだろうか。

 そんな想いにかられたレグルスの胸に、一瞬、彼らと共に行きたい、と言う想いが頭をもたげた。 

 一瞬だけ、頭をもたげた想い。しかしそれは、レグルスに物凄い嫌悪感を抱かせた。

 彼らと共に行くと言うことは、トウマを捨てていくと言うことだ。


 ―― そんなこと、出来るわけない。


 一瞬でもトウマを裏切った自分を、レグルスは激しく叱責しっせきした。

 俺は、何の為に強くなりたいのか?

 ひとえに、トウマと生きていく為に他ならないからではないか!


 ―― 寂しいとか、悲しいとか、そういう弱い心は、もういらない。

    ・・・俺は、此処で強くなってみせる・・・。


 それは、レグルスの中に渦巻いていたモヤモヤとしたものが、形となった瞬間だった。


「・・・俺、帰るよ。トウマが待ってる」


 レグルスは真っ直ぐに顔を上げ、フェリドとレマへと告げた。

 

「トウマさん、ボクが小屋を出た時はまだ眠ってたよ」


 三匹を引き連れてこちらへ歩み寄ってくるフェリドの言葉に、レグルスはほっと胸をなでおろした。

 できることなら、トウマが目覚める前に帰りたい。

 急に気がいてきたレグルスの気持ちを汲み取るように、フェリドは笑みを浮かべ、少年の肩を抱いて言った。


「スープ作りも途中だし、早く戻ろっか!

 レマもお腹空いてるでしょ。

 レグたんとトウマさんと食事してから出発するのはどう?」


 その言葉に、レグルスの胸が温かくなった。

 もうしばらく、二人と一緒に過ごすことが出来る。そう思うと自然と心が弾んだ。

 フェリドとレグルスは返事を待ってレマへと視線を向けるが、彼は「トウマさん?」と首を傾げた。

 レグルスがどう説明しようかと頭を悩ませている間に、フェリドがさっと口を開いた。


「レグたんのお兄さんだよ。あ、でも血の繋がりはないんだって。

 トウマさんは、ケガをして寝たきりになってるんだ。

 実はね、レグたんはヤカ村で起きた魔獣襲撃事件の生存者なんだ。もともとは旅芸人で、トウマさんと、ずっと旅をして生きて来たんだって。でも、偶然滞在していたヤカで魔獣に襲われて、何とか二人でソキに逃げて来たんだ。だけど、トウマさんは怪我の所為せいで寝たきりに」


 束の間、三人の間に沈黙が流れる。

 風が吹いて、髪が舞い上げられたと同時に、レマの凛とした声が響いた。


「診てみよう」


 レグルスは何を言われたのかすぐには理解できず、胸の内でレマの言葉を何度も反芻はんすうしながら噛み砕く。


「・・・それって、」


 恐る恐る口にしたレグルスに、レマの蒼い瞳が微笑む。


治癒ちゆ出来るかどうか、やってみよう」


 それは、暗闇に差し伸べられた一条の光だった。

 全身が震えた。

 想像もしていなかった好機に、レグルスの体からストンと力が抜けた。


「レグたん⁉」

「大丈夫か?」


 気付けば、レグルスは尻餅をつくようにして座り込んでいた。

 フェリドが驚きに声を上げながら、へたり込んだレグルスの体を支える。

 レマもすぐさま膝をついてレグルスの顔を覗き込んだ。

 レグルスの顔は強張っていたが、その頬に赤みが差しているのを見て取り、心配はないようだと、レマはフェリドと顔を見合わせ、小さく笑った。


「レグルス。力になれるかどうか、診てみなければ分からない。治癒魔法と言っても万能ではないんだ。だが、君を危険にさらしたつぐないはしよう。フェリドも世話になったようだし、全力を尽くすよ」


 レマは、きちんと釘を刺すのを忘れなかった。

 しかし、その言葉がどれ程レグルスに伝わっているかは分からない。

 実際、「全力を尽くす」という言葉の響きに、レグルスの全身が熱くなっていた。武者震いのような震えが全身を駆け巡ると、身体中の血液が燃えたつようにカッと熱くなった。

 治癒魔法の効果は、先刻レグルス自身が身をもって知っている。


 ―― トウマが、元気になる!!!


 心中、叫ばずにはいられなかった。

 興奮したレグルスはすっくと立ちあがると、もう走り出したい衝動しょうどうを抑えることは出来なかった。


「俺、先に戻ってる!」


 フェリドとレマへ叫ぶように告げたかと思うと、レグルスは即座に走り出した。そんな少年に釣られる様にして、リルーがはしゃぎながら後を追い駆ける。


「二人は後から来て!」


 レグルスは、呆気にとられるフェリドとレマをその場に残し、リルーを引き連れ、あっという間に森の中へ消えて行った。


 




  ***




「アハハ。レグたん嬉しそ」


 鉄砲玉の様なレグルスと、毬のように跳ねながら走っていったリルーを見送り、フェリドが笑った。

 レマの忠告がどれほどレグルスの耳に入ったかは分からなかったが、それでも現状より悪くなることはなかろうと、フェリドは楽観していた。

 高い空を見上げ、太陽の位置を確かめてから、隣のレマへと視線を投げる。

 レマは未だ、レグルスとリルーが消えて行った大きな岩肌の向こうを見つめていた。


「珍しいね。レマが自分からあんなこと言うなんてさ。普段は、あんまり他人ひとに深入りしないのに」

「・・・ああ、そうだな」 

 

 フェリドの言葉に相槌あいづちを打ちながらも、心此処にあらずといったレマの様子に、フェリドは首を傾げた。

 

 レマは、身内には親切だが他人に対して淡白な一面を持つことを、フェリドは知っていた。特定の誰かに深入りする様子も、今まで見たことがない。誰とでもそれなりの距離を持って接するのが、レマと言う人間なのだと思っていた。

 しかし、レグルスに対しては、どうも様子が違う。

 フェリド自身、レグルスのことは気に入っているし、彼に不思議な魅力も感じていた。しかし、だからと言って、特筆してどうということもない。


「レグたんのこと、気になる?」


 あの少年の何がレマの気にかかるのだろうかと、探るように問いかけたフェリドに、レマは「いや」と小さくかぶりを振って、濡れた髪をかきあげた。

 森の緑をすり抜けた優しい陽光に、長い髪から振るい落とされた雫がきらめきながら草地へと落ちる。

 その洗練された仕草はいつものレマのもので、フェリドは少し安心した。

 だが、別の懸念もあった。


「見る限り、トウマさんはかなり重症だよ。まるで死人みたいに眠り続けてるんだ。ボクが彼らの小屋に滞在している間、一度も目を覚まさなかった」

「そうか」

「・・・治癒魔法の代償だいしょうを考えると、レマが心配だ」


 強い魔法には、代償だいしょうが付き物だ。

 魔獣や幻獣を使役することにも命の危険が付きまとうのと同じように。

 トウマの病状を思うと不安は残る。

 だがそれよりも、今フェリドの脳裏に浮かぶのは、レグルスの喜ぶ顔だった。

 フェリドは、レマの下した決断を信じることにした。


「けど、ありがと。嬉しいよ。

 あの子見てるとほっとけなくてさ」


 フェリドが満面の笑みを向けると、レマも小さく笑って応えた。


「それは良かった」

「くれぐれも無理はしないでね」

「ああ、分かった。」

「その服、まだ濡れてるね。荷物はどしたの?」

「置いてきてしまったんだ」


 そう言って、レマが昨日の夕刻から今朝に掛けての出来事を説明する。

 それを聞き、どうやら魔獣襲撃事件の黒幕に近づいていることを感じ取ったフェリドは、食事を済ませたら、女のむくろのある洞窟へ戻ってみようと提案し、レマもそれに同意した。

 もし仲間がいるとしたら、女を探して洞窟を訪れるかもしれない。

 王都へ帰還する前に手掛かりを掴めたらと、二人は考えた。

 しかし、その前にやることがある。

 まずは濡れたままのレマに、乾いた服を着せることが先決だと、フェリドはある幻獣のことを頭に思い浮かべた。


「じゃ、荷物はセラに取りに行かせるよ」

「ああ、助かる」


 フェリドはベルトの飾りに手を掛けると、手慣れた仕草で外した。

 それは単なる装飾品ではない。折り畳み式になっていて、裏の留め金を外すと短くも鋭い義爪ピックが出てくる。

 フェリドはそれを左手に持つと、口元に笑みを浮かべたまま右手の人差し指の腹を突いた。鋭い先端が皮膚を突き破る。義爪ピックを抜くと、それを追い駆けるように血液があふれ出し、指の腹の上で赤い雫を作った。

 フェリドは指をひるがえし、自らの影へと血を垂らす。

 

 血は地面を覆った柔らかな草の表面を滑り、大地へと染み込んでゆくと、途端、フェリドの影が濃くなった。

 まるで夜の海のように黒くなったそれに、微かな波紋が立つ。

 彼はその中心に指をかざしたまま、呪文を紡いた。


『 我が血をしるべに来たれ 』


 呼び掛けに呼応するように、それまで薄茶色だったフェリドの瞳が、薄紫色へと変化する。


『 セラ。

  われなんじ召喚しょうかんす』


 瞬間、静かに波打っていた影が、ふつふつと沸騰するかのように沸き立った。

 一際大きな泡が立ち、ゴボっと低い音を響かせて影の表面がうめくと、その中心から何かがぬっと頭を出す。

 フェリドの右手が空中で、それを引き上げる仕種をした瞬間、暴れる影の水面みなもから、新たな幻獣が現れた。

 

 幻獣が上空へ飛び出て翼を広げると、フェリドの影は何事もなかったように元に戻っていた。


「久しぶりだね、セラ」 


 フェリドは、自らの目前へと降り立った幻獣-セラの頬をてのひらで包み込んで笑った。

 セラは、上半身が女人、下半身と両腕が鳥のそれという出で立ちの幻獣だ。

 愛らしい面立ちをしているが表情はない。くりくりとした目は、指示を出す主の表情の変化を、なにひとつ見逃すまいと真っ直ぐフェリドに向けられていた。

 フェリドがレマの荷物を取りに行くよう命令を下し、「分かった?」と確認すると、セラは無言のままコクリと頷く。それを見てフェリドがセラの頭を撫でた。


「教えた通りに変身して、ちゃんと人間らしく振舞うんだよ。

 さあ、行って」


 それにもコクリと頷き返し、セラは翼を広げて風を呼んだ。

 大きく羽ばたき、強烈な突風を巻き起こしたかと思うと、次の瞬間、セラの姿は消え去っていた。


「すぐに戻ってくるよ。

 レマが着替えたら、ボクらも村へ向かおう」

「ああ、ありがとう」

「どーぅいたしまして!」


 二人の間を、優しい風が駆け抜けていった。

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