第5話 癒えない傷







 ラデンカの丘に、夜のとばりが下りていた。

 薄暗い小屋の中、トウマは静かに眠っている。

 レグルスは、彼の眠るベッドに背を預け、床に敷いた毛皮に腰を下ろしていた。

 膝を抱え、ぼんやりと暖炉の火を見やっている。

 小麦色の肌が薄闇に溶け込む中、赤い髪とまなこだけが、温かな光に呼応していた。

 暖炉の脇では、じゃがいもスープの残りがいま湯気ゆげをたてている。

 集落しゅうらくから持ち帰った荷物が、テーブルの上を乱雑らんざつに埋め尽くしていた。

 ほとんどが食料と医薬品だ。煎じ薬の袋と塗り薬のビンが二つ並んでいる。

 レグルスは膝を抱えたまま、ぼんやりとそれらに目をやった。

 



 村から帰ってすぐに、トウマの傷を手当てした。

 大きな傷は勿論もちろん、細かいり傷やあざに至るまで、ひとつひとつ丁寧に清め、薬を塗ってゆく。

 トウマの全身は、ありとあらゆる傷にまみれているかのようだった。

 左肩は打撲だぼくし、右足は折れ、右脇腹の裂傷れっしょうは酷かった。

 この傷をいつ負ったのか、レグルスは知らない。

 魔獣との戦いの最中さなかに気を失ってしまった不甲斐ない自分を思い起こし、レグルスは強く唇を噛んだ。

 脳裏に、あの夜の悲劇が甦ってきて、強く瞼を閉じた。





  ***




 ヤカ村は血の海だった。

 怒涛どとうのように押し寄せる魔の手から逃げる術などなく、虫けらのように人が死んだ。勝ち目がないと分かっていながらも、生きる為、護る為に武器を手にとったのは、レグルスとトウマだけではない。だが、ひとり、またひとりと魔獣の犠牲となり、いつの間にか二人きりになってしまった。それでも、相手は攻撃の手を緩めなかった。

 血塗られた大地に二人きり。その手足には幾つもの傷が走っている。

 全身を染める血が己のものか否か、まるで判別がつかないほど、多くの血が流れていた。隣に立ったトウマも同様だったが、彼はレグルスよりはるかに多くの返り血を浴びて黒ずんでいた。それだけ多くの敵を倒した証だ。

 レグルスは気を引き締めて剣を構え直したが、圧倒的な数の差に、今にも心が折れそうだった。

 対峙した魔獣は巨大な三本の角を持ち、牛とさいの特徴を併せ持ったような風貌だった。身体は象のように大きく、太くて薄いたてがみが風を切り、地面をえぐる鋭いひづめに踏みつけられて、幾人も命を落とした。き出しになった硬い皮膚とは別に、腕や足の付け根にはよろいのようなうろこが生えていて、剣では歯が立たない。レグルスは、比較的柔らかい咽喉元のどもとや体の内側を狙って刃を繰り出した。

 対して、炎の一族に生まれたトウマは、火炎を巧みに操っていた。

 剣技と炎とを駆使し、レグルスが一頭倒す間に五、六頭は始末した。右手の剣で一頭の急所を捉えて絶命させ、左手で火炎を繰り出し、もう一頭を火達磨にする。無駄のない動きで魔獣を討伐していったが、際限なく押し迫る相手はきりがなかった。

 特別な力を持たないレグルスは、ひたすら剣を振った。

 しかし、もう手も足も鉛のように重たく感じていた。

 疲れ果てた剣の切っ先は、ただ魔獣の足元をかすめる。その隙をついて相手が角で突いてきた。かろうじてかわしたが、次の瞬間、蜥蜴とかげのものによく似た尻尾に横殴りにされ、華奢きゃしゃな身体が豪快に吹っ飛んだ。

 激しく背中を打ちつけて咳き込んでいる間に、取り落とした剣が魔獣の蹄の下で粉々に踏み砕かれる。眩暈めまいを堪えながら立ち上がった時には、六頭もの魔獣に追い詰められていた。それらが高々と吠え、同時に角を突き上げて突進してくる。

 咄嗟とっさに身構えたその時、目の前に火柱が上がった。

 眼前の魔獣たちが、一気に炎に呑み込まれ、断末魔の叫びを上げる。その声だけ残して、魔獣の身体は一瞬にして焼き尽くされた。

 まるで火山が噴火したかのような凄まじい衝撃と熱だった。

 レグルスは熱風に吹っ飛ばされて、木の葉のように地面を転がった。民家の壁だった瓦礫にぶち当たり、なんとか地面に押しとどまると、いつくばって呼吸を整えた。

 レグルスの薄い胸を打ち破ってしまうのではないかと思うほど、激しく心臓が打ち鳴らされていた。

 命を取り留めた代償に、熱風にやられた皮膚がひりひり痛む。下手をすればレグルスさえも巻き込まれかねなかった火柱の威力に、トウマの余裕のなさが反映されていた。


「レグルス!」


 トウマのかすれた声がする。

 顔を上げるが、周囲は火の海となっていて、トウマの姿は何処にも見えなかった。


「レグルス! 何処だ、何処にいる⁉」


 立ち上る黒煙と、くすぶる炎に視界を遮られてた。

 トウマの声のする方へ今すぐにでも駆け出したいのに、体は言うことをきいてくれない。

 レグルスは這いつくばった姿勢のまま、必死に声を上げた。


「トウマ! トウマ!」


 炎が轟々ごうごうと音を立てレグルスの声を掻き消そうとする。

 それに負けじと声を張り上げると、やがて火の粉の向こうにトウマが姿を見せた。足を引きずりながら、こちらへと駆け寄ってくる。



「レグルス!」


 駆け付けたトウマは右腕でレグルスを抱き寄せた。

 左手に剣を持ってはいたが、まるで腕に力が入らない様子で、だらりと垂れさがっていた。


「無事か? 悪い、手加減出来なかった」


 トウマは、レグルスの髪を乱暴に撫で付けながら、何度も謝った。

 レグルスは首を振った。今はただ、トウマが駆けつけてくれたことが、この上ない安堵へとつながっていたからだ。


「魔獣は?」

大方おおかた焼き尽くした。今のうちに逃げるぞ」


 頷き、お互いの身体を支え合って何とか立ち上がる。「さあ」と声をかけて、トウマが右手でレグルスの肩を抱いてくれた。

 その時だった。

 炎の向こうに影が差した。

 次いで、凄まじい咆哮ほうこうが空気を震わせる。

 瞬間、大きな火達磨がトウマの背後に現れた。

 一頭の魔獣が、炎に焼かれながら黒煙を切り裂き、猛烈な速さで突進してきたのだ。


「・・・ッ」


 レグルスは咄嗟にトウマの身体を突き飛ばした。

 トウマが仰向けに倒れ込み、その目が驚愕に見開かれる。

 刹那、魔獣の角がレグルスの腹を突き上げ、その身体が炎と共に高々と宙に舞い上げられた。

 レグルスは凄まじい衝撃に、どうつらぬかれたかと思った。手足の先から頭の芯までしびれが走った直後、痛覚が何処かへと消え去った。

 嗚呼ああ、これはマズいな。と、やけに冷静に思った。

 トウマの悲鳴とも怒号とも判別つかない声が、レグルスの鼓膜を震わせる。

 空中を舞った体が反転すると、眼下に悲痛な面持ちのトウマが見えた。


 ―― 良かった。

    トウマ、生きてる。


 そう思ったのも束の間、レグルスは受け身もとれずに落下した。

 地面に叩き付けられた身体は、もうぴくりとも動かない。

 霞む視界の隅に映るトウマの姿が痛々しい。左肩を庇い、右足を引きずりながら、こちらへ駆け寄ろうとするトウマ。その姿を見つめながら、レグルスは胸中、声にならない想いをひたすら叫び続けた。


 ―― トウマ、逃げてくれ。

    生きてくれ、トウマ。

    トウマ・・・。







   ***




 いつの間に気を失っていたのだろう。

 意識を取り戻すと、ラデンカの丘にあるこの小屋で寝かされていた。

 レグルスとトウマが、ラデンカの木の根元に倒れていたところを、ソキ村の住人に発見されたのだという。そのことを話して聞かせてくれたのはマヤであったか、それともサーヤか、レグルスは覚えていない。意識を取り戻したといっても、当初はとても不確かなものだった。


 ―― どうやって、此処まで辿り着いたんだろう・・・。


 もやが張ったような、混沌こんとんとした意識でそんなことばかりを考えていた。

 実際、今になっても不思議だ。

 満身創痍まんしんそういのトウマにとって、意識のないレグルスを抱えて逃げおおせるのは相当な負担だったろうに・・・。




 レグルスの頭がハッキリとしてきたのは、助けられて三日目のことだった。

 気付けば、レグルスもトウマも、すでに薬屋夫婦のバジールとマヤに手当てを施され、手厚い看病を受けていた。時々、娘のサーヤも小屋を訪れ、レグルスのかたわらで、何かと世話を焼いてくれていたらしい。何しろ、両親のバジールとマヤは、トウマにかかりきりだったのだから。

 レグルスは、頭の形が変わってしまいそうなくらい大きなこぶを作り、全身に火傷や切り傷を負い、背中や胸部を打撲だぼくしていた。特に、腹部の内出血は酷かった。それは、魔獣の角の一撃を喰らった箇所だったが、幸いにも致命的なものではなかったという。

 反して、トウマは深刻だった。右脇腹の深い裂傷が、彼を死に追いやろうとしていた。

 そんなトウマの手当てを続けながら、バジールが渋面を作って口にした。


「医術師じゃないから何とも言えないんだが、一命を取り留めたのは奇跡としか言いようがない。・・・覚悟はしておいた方がいいだろうなぁ・・・」


 その言葉に、レグルスは心臓をえぐられるような衝撃を受けた。

 あの時、死ぬのは自分だと思った。

 それでも、唯一救いだったのは、トウマが生きていてくれたことだった。

 トウマが生き延びてくれることを願ったのに、それなのに・・・。


 ―― ・・・ふたを開けてみれば、このざまか・・・。


 あの惨事の中、トウマにとって足枷あしかせにしかならなかった自分の存在が歯痒はがゆくて、悔しくて堪らなかった。 

 とてもじゃないが、生きている喜びなど味わえる状況ではなかった。

 



 四日目から、レグルスは寝床ねどこで上体を起こし、二人の手当てを受けるトウマを、ひたすら見つめていた。

 薬を塗られるたび、包帯を巻き直すたび、トウマの酷い有様がレグルスの目にさらされる。

 マヤは、レグルスの心労をおもんばかり、村の自分たちの家へ移って療養するように言った。しかし、レグルスは断固として拒否し、二人がトウマへと施す治療や看病を見つめ続けた。

 七日も経つと、レグルスの体力は順調に回復した。起き上がれるようになると、レグルスは自分の傷が痛むのも構わずに、率先してトウマの看病をした。それまで目に焼き付けていたバジールやマヤの見よう見まねだったが、夫婦はレグルスの器用さに感心した。


 ―― 絶対に死なせない。

    今度は、俺がトウマを助けるんだ。


 そんな強い意志が、レグルスを突き動かしていた。




 そして、十日が過ぎた。

 あの日のことは、決して忘れない。

 朝、レグルスが目覚めると、寝台の上のトウマがまぶたを開いていたのだ。

 レグルスは、すぐさま、トウマの傍らで仮眠をとっていたマヤを起こした。マヤはトウマの意識が戻ったと知ると、すぐさま夫のバジールや村長を呼びに、村へと駆けて行った。


「トウマ! トウマ、良かった!」


 トウマの右手を両手に握り締めて声をかけると、それまでぼんやりと天井を仰いでいたトウマが、ゆっくりとレグルスへと視線を向ける。

 目が合うと、薄っすらと笑みを見せてくれた。

 弱く、はかない笑みだった。

 以前の明るくたくましいトウマとははなれた印象に、傷の重たさを突き付けられる。その体は痩せ細り、変わり果ててしまった。

 それでも目覚めてくれた。それこそがトウマの強さだ。

 きっと、このまま元気になってくれる。また二人で生活できる。

 この時、レグルスはそう信じて疑わなかった。



 

 ラデンカの丘で助けられて二十日、トウマが目覚めて十日が過ぎた。

 彼の状態は、良い方にも悪い方にも変わらなかった。

 トウマは一日のほとんどを眠って過ごした。時々フッと目覚めると、ぼんやりと天井を眺めている。レグルスに気が付くと薄っすらと笑う程度で、他には何の反応も見せなかった。

 食事は、流動食しか口にしない。これでは体力が回復しないと懸念けねんするが、食べる気力がまるでないようだった。

 その上、トウマは会話も出来なかった。しゃべる気力がないのか、しゃべれないのか、あの日目覚めてからこれまで、自ら口を開く様子は見られない。

 そんな状態だからか、傷も治りが遅かった。しかし、悪化している様子もない。

 前進も後退も見られない。これにはバジールも首を傾げた。多少の心得があるとは言え、バジールもマヤも一介の薬屋に過ぎないのだ。これ以上は手の施しようがなかった。

 医術師に診てもらえたら良かったのだろう。しかし、この近隣には、ヤカ村しか医術院はなかった。それなのに、その村は壊滅し、医術師本人も犠牲となってしまったのだ。ソキ村に薬屋があったことは、まさに不幸中の幸いだった。

 しかし、ソキ村も大きな村だ。

 いつまでも、村唯一の薬屋が一人に掛かり切りになるわけにもいかない。他にも怪我人や病人はいる。

 忙しそうに立ち回るバジールとマヤに、レグルスは「後のことは自分に任せて欲しい」と申し出た。最初は渋った二人だったが、レグルスの器用さ、トウマの症状が安定しているのをかんがみて承諾した。

 それでもバジールとマヤは、忙しい合間を縫っては様子を診に来てくれた。レグルスの為の食料まで持参してくれる。

 しかし、そんな二人に甘えてばかりはいられない。

 レグルスは自ら狩りをして食料を調達しだした。バジール家族の分の獲物も狩り、さばいてから、自ら村の薬屋へとおもむくくようになった。

 出来る限り、自分たちのことは自分たちでしなくてはならないし、恩もある。

 まだ恩返しは出来そうにないが、感謝の気持ちは伝えなくてはならない。

 そうこうしているうちに、レグルスとトウマがソキ村に来て、ひと月が経っていた。

   






   ***



 

 ぼんやりと想いを巡らせていたレグルスは、窓の外へと視線を投げた。

 夜闇に紛れて見えないが、そこにはラデンカの木が立っているはずだ。

 このひと月の間、寿命の長いラデンカの花は衰える気配も見せず、いつもそばにいてくれた。

 ・・・そう、もうひと月が過ぎたのだ。

 それなのに、トウマの傷は治らない。傷口が熱を持ったりんだりする様子はないが、さすがに治りが遅すぎる。

 レグルスは寝台ベッドを振り返り、トウマの様子をうかがった。


「トウマ」


 そっと名前を呼んでみる。

 しかし、トウマは眠り続けていた。かろうじて聞き取れるほどの弱々しい寝息をたてて。

 レグルスは、その微かな旋律せんりつを聞き逃すまいと息をひそめ、そっとトウマの顔を覗き込んでみる。

 血の気のない顔が闇の中に溶け込んでいた。

 レグルスは体を戻し、もう一度、毛皮の上で膝を抱え込んで顔を埋めた。

 どうしようもなく悲しくて、寂しかった。





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