第2話 悪夢の夜






 霧が追いかけてくる。

 黒い霧だ。

 夜の嵐のおぞましさと、沼の底の静けさを思わせるソレは、意思を持つかのように着々と少年との距離を詰めていた。

 少年の浅黒い肌がじっとりと汗にれる。

 脱兎だっとのごとく逃げる少年の赤毛に、何かが触れてが乱れた。

 次いで感じたのは、髪をかれる感触だった。

 驚愕きょうがくした少年は前のめりになって転んだ。

 振り返った少年の赤眼せきがんに映ったのは《手》だった。

 黒い霧の向こうから《手》が出ている。

 黒くて角張かくばったソレが手招てまねくように動いていた。

 全身が粟立あわだった。

 少年は戦慄せんりつを覚えると同時に、不思議な懐疑心かいぎしんを抱いた。


 ―― この《手》を、知っている・・・?


 ソレが誰のものなのかは分からない。

 だが、この恐怖きょうふ嫌悪けんおを、少年は確かに覚えていた。

 転んだままの少年は、もう黒い霧の中にいた。

 その中に浮き立つようにしてある《手》が、容赦ようしゃなく、少年のまだ華奢きゃしゃな腕を掴みとって引き寄せる。

 その力は強く、抵抗すら出来なかった。

 少年は身体ごと引きずられ、黒い霧の奥深く、計り知れない闇の中へとみ込まれたのだった。




  ***




 少年は声をあげて飛び起きた。

 気付けばそこは宿の一室で、一階の喧騒けんそうかすかに聞こえている。


「・・・またか」


 疲労感ひろうかんかすかな安堵あんどに、少年は息を吐いた。

 これは一体、いつの頃からだったろう。

 もう、いつとはっきり思い出せない幼い時分じぶんから、同じ悪夢を繰り返し見ていた。目覚めると憔悴しょうすいしていて、得体の知れない不安にさいなまれる。

 右手で二の腕をさすりながら隣のベッドに目をやるが、シーツにはしわひとつなかった。はいまだ、階下の酒場にいるようだ。

 汗にれた肌着を着替え、少年は宿の一室を出た。


 階段を下りて一階の酒場に顔を出すと、連れは見知らぬ中年男とカードをしていた。

 その傍らへ行くと同時に、連れが「俺の勝ちだ」と言って、手の内のカードを場に投げる。相手の男がくやしそうにうめき、二人の勝負を見ていた数人がどっと笑った。


「・・・トウマ」

 

 少年が、連れの名を呼ぶ。すると、連れ−トウマは、優しく少年の手を引いて、自分の隣へと座らせた。


「夢を見たのか、レグルス」


 トウマの問い掛けに、少年―レグルスは黙って頷いた。

 色黒でたくましいトウマの腕が、レグルスの頭を引き寄せ、乱暴に髪を撫でつける。

 トウマの手は夢に出てきた《手》と大きさこそ似ていたが、その仕草は正反対のもので、レグルスの不安をぬぐっていった。

 そんな二人の様子を見ていた村人らしき老人に「兄弟かい?」と問われる。トウマはレグルスの頬を軽くつねりながら「可愛いだろ」と笑った。

 肯定ではない。レグルスとトウマに血のつながりはなかった。肌の色や明るい髪色など、似ている箇所かしょ多々たたある二人は、まるで兄弟のように見える。しかし、それをいちいち否定していたのでは余計な詮索せんさくに合いわずらわしい。故にこうして、煙に巻くのが習慣になっていた。


「そういや兄ちゃんたちは旅芸人だったね。昼間見たよ」


 老人が言うと、トウマの向かいに座る中年男が「そうなのかい?」と身を乗り出してくる。トウマは「手慰てなぐさみ程度にね」とカードを手に取り、てのひらの中で華麗かれいに遊ばせた。途端、酒場に拍手と歓声かんせいが起こる。

 スマートに酔客すいきゃくを相手にするトウマを見て、無表情だったレグルスの頬が少しほころんだ。

 レグルスにとってトウマは、正に兄のような存在だった。

 カードを胸元にさっと仕舞ったトウマは、次いで横笛をかなで始めた。それは、魔獣まじゅうの骨をくり抜いて作った笛だ。

 

 トウマは、フダイという一族の生まれだった。

 フダイは炎使いの一族だった。生まれながらにして炎の術を扱う人々が、魔獣を狩猟しゅりょうしながら、此処より東の島国に生きていたという。

 トウマが奏でるのは、彼の故郷の曲だ。

 この国では珍しい、春先から赤い花を咲かせる木を讃える民謡。

 その異国の音色に聞き入る客もいれば、踊りだす客もいる。

 それをぼんやりと見遣みやっていたレグルスに、トウマが目配めくばせした。レグルスはすぐに意図を汲み取った。「お前も吹け」と言っているのだ。

 レグルスはうなずいて立ち上がり、部屋へ笛をとりに行こうと階段に足をかける。

 と、その時だった。

 レグルスの鼓膜こまくを、かすかな地鳴じなりりがらした。

 足が止まる。

 耳をすましていると、おぼろげだったものが次第にはっきりと聴こえて来た。

 得体えたいの知れない振動しんどうに、レグルスの心臓がバクバクと高鳴り始める。

 トウマや酒場の客たちも地鳴りに気付き始めた時、宿の扉が高い音を立て、乱暴らんぼうに開かれた。

 瞬間、レグルスは息をみ、二の腕に触れた。

 宿の入り口に立っていたのは、全身血塗れになった若者だった。


「逃げろ」


 若者が次に叫んだ言葉を聞いて、レグルスは二階の部屋に飛び込んだ。


「魔獣の群れが来る!」


 騒然そうぜんとする中、一階に駆け戻ったレグルスの手には自分の剣とトウマの剣の二振ふたふりが握られていた。




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