第32話 最期まで離さない
それは、
相手の嫌がる素振りが、ベラの琴線に触れる。
柔らかいけれど乾いた唇は、思い出の中にある「アレ」のものとは、まるで違っていた。
ベラは相手の口中を
( -- 「アレ」が逝って、もう何年経ったか・・・)
そう、「アレ」の唇はもっと薄くて硬く、いつも荒れていた。
口付ける度に香油を塗ってやっていたのに、「アレ」はすぐに袖口で拭ったり、舌で舐めとったりして、
その姿がまた可愛らしくて、堪らなく愛おしかった。
四十年程前だった。
「アレ」の名前はダニエル。三十歳半ばの儚げな青年は、父が連れ帰った人間の
まだ若かった
ダニエルは癒し手だった。
ギガベスタには存在しない特別な術、治癒魔法。それが使えるというだけでも特別だったが、それ以上に特別なのは、癒し手の体だった。
治癒魔法の効果か、癒し手は容姿の美しい者ばかりの上に、
その事実が世に知られていないのは、単に癒し手の数が少ないからではない。知る者は、皆隠すのだ。一人でも多く自らの手中にするために。
何も知らなかった
ダニエルは
そんな彼の全てを己の色に染めたくて、新たに「ティニャ」と名付けて呼んでみたが、ダニエルは頑なに受け入れようとはしなかった。自分の我が儘が、この男には通用しない。そんな体験も新鮮だった。
いつまで経っても懐かない彼。それどころか、反抗的な態度ばかりが目立った。甘やかしてみても、
彼の全てを。
時が経つうちに揺れ動き出したダニエルの想いと葛藤も、愛おしくて堪らなかった。
それなのに。
ダニエルは、あっさりと死んだ。
ある日。
父からの
癒し手は、自らの体を治療出来ない。
最期まで、
でも、息を引き取る瞬間、私の手を握り返したダニエル。
それは、ただの反射だったのかも知れない。おそらく、意味などなかったのだろう。それでも、最初で最後に、ダニエルが応えてくれた。
それだけで、
ダニエルを看取ったその足で、
父の
嗚呼、
ダニエルが空けた心の穴は、長い年月も埋めることは出来なかった。
ダニエルの代わりになる者など、生涯現れることはないだろう。
しかし、この新しい癒し手との出会いは奇跡だ。
このキスで、
レマの治癒能力を余すことなく吸い上げようと、ベラは執拗な口付けを繰り返した。
そうしているうち、切り落とされた手首の出血が止まる。
同時にベラの唇にかつての色艶や、ぷっくりとした肉感、潤いを取り戻っていった。と、それを皮切りに、渇いた土が水を吸い上げるかの如く、消し炭となっていた肌が、口元から順繰りと、透けるような白く美しい肌を取り戻していった。
瞬く間に消し炭だった全身が、手の先、足の先まで元来の美しい体へと治癒されていく。
ベラは、生え揃った豊かな髪の束が肩に掛かるのを横目に見て、
そうして、露わになった肌を隠すために、レマの
それまでまともに息を吸うことも許されず、酸欠状態で地面に投げ出されたレマは、激しい頭痛と吐き気に襲われた。
必死に息を吸うレマを尻目にベラは鼻歌まじりで、
「うむ、良かろう?」
そう言って笑いながら一回転して見せる。
「どうじゃ、野生的でろう。
楽しそうに言って聞かせるベラだったが、レマは激しい頭痛でそれどころではない。力無く倒れ込む彼の顎を、ベラがクイと足先で持ち上げた。
「口付けだけでこの効果。
そう、能力ならばダニエルより上だろう。
ベラは「この先が楽しみじゃ」と妖艶な笑みを浮かべながら、先刻切り落とされた右手を拾い上げた。その手をまるで
「さあ、次はどれほど口吸いすればこの腕はくっつくかのう。それとも、それだけでは足らぬか? 試してみねばのう!」
言ってレマに馬乗りになったベラの表情は、すでに恍惚としていた。
顔を背けるレマの顔を両腕で固定して、また唇を近づける。
レマはそれを喰いちぎってやろうと身を乗り出したが、ベラはそんな抵抗はお見通しとばかりに上体を
「ハハハ! 愉快じゃ! ダニエルと同じ反応をしおる!」
ベラは馬乗りになったまま、心の底から笑った。子供のような笑い声だった。
こんなにも満ち足りた心持ちは、ダニエルを失ってから初めてのことだったかも知れない。
( --
ダニエルとの日々に近いものを取り戻せるかも知れない )
そう思うと、胸の高鳴りが抑えられなかった。
夜天に、ベラの高笑いが響く。と、それに呼応するかのようにレマが悲痛な声をあげた。
「あぁあああああああああああ‼︎ 」
その絶望に満ちた苦悶の声色も、愉快で堪らなかった。
悦に入ったベラがわざとらしく腰をくねらせた、その時。
突然、背後から抱きすくめられ、体が宙を舞う。
自分がボヴァイアの腕に抱かれているのだと気付いたのは、ボヴァイアが新手の攻撃からベラを庇い、地面に着地した時だった。
ボヴァイアの右翼が綺麗に姿を消して、肩からぼたぼたと大量に出血している。
目の前には、巨大な狼の姿をした幻獣-ダンテが、ボヴァイアの翼を咥えてこちらを威嚇していた。
「・・・なるほど・・・」
その時、ベラは察した。
あの癒し手が叫んだのは、悲嘆すべき現状に絶望したからではない。仲間の放った幻獣がこちらへ近づく気配を自分に悟られない為だったのだと。
「・・・
先刻までの胸の高鳴りは鳴りをひそめ、今は静かな怒りで心が凪いでいる。
ベラは、ボヴァイアの翼を吐き捨てたダンテの後ろで、少し前まで自分の下にいた極上の癒し手が、見覚えのある男に抱き上げられているのを、溢れんばかりの憎悪を隠そうともせず睨みつけた。
その男は、夕刻、岩山の山頂付近でギガベスタの領地から、大型の牛の魔獣-クジャを大量召喚していた時に迷い込んできた小蝿だった。
「・・・生きていたか・・・」
凪いでいたベラの心に、少し波が立った。
力無く倒れていたレマを、フェリドが抱き上げる。
フェリドは全身ボロボロで激しい戦いの後を物語っていたが、薄く瞼を開いたレマに、にこりと笑って見せた。疲れた笑みだった。
「遅くなっちゃった。ごめんね、レマ」
「・・・待ち・・・くたびれた・・・」
「うん。・・・良かった、待っててくれて」
軽口を叩いて、へにゃりと笑うフェリドの頭から、割れた羊の角飾りが落ちる。そうして露わになった金髪は、血液でじっとりと濡れていた。
「・・・酷い有様だな・・・」
「お互いにね」
そう言って顔を上げたフェリドと、好戦的な眼差しでこちらを見ているベラの視線がかち合った。
「まあ、これだけの血があれば、召喚の手間も省けるってもんでしょ」
レマを抱くフェリドの腕に力が入る。
フェリドとベラ、双方の足元に夜の闇よりも深い影が差し、ゴボゴボと蠢き出し、どちらともなく、幻獣召喚が行われた。
「もう一度、力を貸して。アズール! ヘルムート! ギリアン!」
フェリドの呼び掛けに答え、屈強な幻獣三体がダンテに並び立つ。
対峙するベラの幻獣は八体。
フェリドは一瞬、唇を噛んだが、すぐさま腕の中のレマに笑って言った。
「レマ、最期まで離さないから」
「ああ。・・・私もだ・・・」
二人が笑い合う。
ダンテが咆哮し、戦いの火蓋が切って落とされた。
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