第34話 紺碧の空の記憶






 レグルスは、肩で息をしながら立ち尽くしていた。

 見上げた空は、一面の紺碧こんぺきで。真夏の空の下、首筋を伝う汗の感触さえ爽快に感じて、頭の中は今までにないくらいすっきりとしていた。


 汗を拭いながら、周囲へと視線を走らせる。周りの景色は、見覚えのないものだった。

 しかし、此処は庭園だという確信があった。

 知らないはずの場所なのに、何故か、酷く懐かしい。

 「どうしてだろう」、と考えるレグルスの視界の隅に、赤い雪のようなものが舞う。それは、ラデンカの花びらだった。

 園内には、ラデンカの木が並び立ち、咲き乱れた赤い花が風になぶられ、幾千もの花びらが宙を舞っていた。


 少し乱暴な風が駆け抜けて、レグルスの火照った体を冷やしてくれる。

 酷い疲労感に体が重たかったが、不快ではなかった。

 風に弄ばれる髪の毛の先が、頬をかすめてくすぐったい。ふふっ、と思わず漏れた笑い声は、レグルス自身が驚くほど幼くて。その時、ようやく、自分の体が幼な子になっていることに気が付いた。

 広げてみたてのひらは小さく、ぷっくりとしている。しかし、両腕には、子供の手に似つかわしくない鱗が生えていて、レグルスをハッとさせた。


(-- そうか、この倦怠感けんたいかん。バケモノになった後と同じ・・・)


 次いで、小さな鱗は見る間に浮き立ち、サッと風にさらわれて、ラデンカの花弁と共に宙を舞う。全てがれ落ちた後には、幼な子の柔らかな肌が現れて、胸の奥に安堵が広がると同時に、全身の力が抜け、膝からくずおれた。と、大きな腕に抱き留められる。


「・・・兄さま・・・!」


 幼いレグルスは、自分を抱き留めた青年をそう呼んだ。

 真っ直ぐに見上げているのに、青年の顔だけがおぼろげになっていて良く見えない。まるでそこだけ霞がかかったようなのに、しかし、兄が笑っているのだけははっきりと分かった。

 レグルスと同じ色の髪は長く、柳の枝葉のように優雅に揺れていた。


「上出来だ、レグルス」


 低く優しい声に褒められ、幼い胸が熱くなる。

 そんなレグルスを、兄のしなやかな腕が抱き上げた。


「この歳で《竜血りゅうけつ》に目覚めるとは。私とて、初めての覚醒かくせいは七つの時であった」


 歳の離れた兄は、庭園に咲き誇る花々に勝るとも劣らぬ笑顔と、惜しまぬ賞賛しょうさんを与えてくれた。その頬が紅潮しているのを見つめていると、不意に背後から「恐れながら、陛下」と声がかけられた。

 つつましやで、けれど良く通る声だった。


「申せ、トウマ」


 その声に兄が穏やかに返す。


(-- ・・・トウマ・・・!?)

 

 兄の腕に抱かれたまま振り返ると、レグルスの目に飛び込んできたのは、こちらに深々とこうべを垂れる赤毛の少年だった。兄やレグルスとは、少し風合いの違う、黄色味がかった鮮やかな赤毛。レグルスにとっては、自分の髪よりも慣れ親しんだ、その髪色。

 「はい」と返事をして顔をあげた少年は、間違いなく、在りし日のトウマだった。まだ、幼さの残る顔が、柔らかな笑みを浮かべる。 


「陛下の覚醒かくせいは、六歳とよんつきおりだったと、聞き及んでおります」


 トウマがそういうと、兄は「そうであったか」と大らかに笑った。


「しかし、それでもこの子の方が早生そうせいだ。まだ五つになったばかりであろう。これは、将来が楽しみだ。トウマもそう思うだろう?」

「はい、陛下」


 二人のやりとりを見つめながら、レグルスの鼓動が息苦しいほど高鳴る。




(--・・・そうだ、思い出した・・・)


 自分には、兄がいたこと。親子ほども歳の離れた、敬愛けいあいする兄。

 その兄が、自らの信頼厚い小姓こしょうを、弟の侍従じじゅうにと当てがってくれたこと。その侍従じじゅうこそが、トウマだったこと。

 そして、この身体に宿るのは《竜血りゅうけつ》と呼ばれる、一族の限られた者にのみ受け継がれる力であること。

 更には、自分が、御華国ぎょかのくにの王族に生まれたことや、その故国が、既に亡いことも・・・。


 幼い日の記憶を無くしてから八年。こんな風にして記憶が甦ったことは一度もなかった。その間、どんなに過去を振り返ってみても、思い出せる一番古い記憶と言えば戦火のものばかりで、それらは辛く苦しいという印象しかなかった。

 それが、どうしたことだろう。初めて取り戻した記憶は、こんなにも確信と幸福と、寂寥せきりょうに満ちている。

 



 現在と過去がない混ぜとなったレグルスの胸中は、春の嵐の中にあるようにせわしなかった。胸の高鳴りを抑えられなくなったレグルスは、兄の大きな胸にしがみつきながら、息席切って口を開いた。


「兄さま! レグルスはっ・・・レグルスは兄さまのため、トウマのため、そして民のため、立派な竜血りゅうけつとなります!」


 幼い弟の言葉に、兄は深く頷いて「よく申した」と、レグルスの体を強く抱き締める。


「今はまだ、竜血りゅうけつの絶大な力に振り回され、ままならぬことも多いだろう。しかし、覚醒かくせいを繰り返す度、その力は体に馴染み、おのれのものとなってゆく。・・・これから後も鍛錬たんれんを怠らず、立派な竜血りゅうけつとなって、この兄を支えてくれ」

「はい! 兄さま!」


 レグルスは、トウマが見守る中、たくましい兄の腕の中で、精一杯の返事をした。 






 スッと意識が遠のくように目が覚めて、レグルスはゆっくり瞼を開いた。

 その目に映ったのは、夜闇やあんの中に赤い花弁を垂れるラデンカだった。

 項垂れた枝が風に揺れ、花弁がはらはらと舞うのを眺めていると、次第に意識がはっきりしてくる。


(--・・・今のは、夢じゃない・・・)


 蓮の花が泥から顔を出して可憐な花を咲かせるように、レグルスの中に甦った、幼い日の記憶の断片。

 それは、言い知れぬ寂寥せきりょう懐古かいこの念となって、レグルスの胸を締め付けた。目頭が熱くなる。鼻の奥がじんとして、今にも泣き出しそうになった時、「レグルス」とかすれた声に呼ばれ、現実へと引き戻された。

 冷たい手が、レグルスの頬を撫でている。

 その手に自分の手を重ねて視線をやれば、憔悴しょうすいし切った様子のマヤが、じっとこちらを見やっていた。


「・・・マヤ・・・さん・・・」


 声が、喉につかえる。

 マヤは、レグルスに名前を呼ばれると、目にいっぱいの涙を溜めてむせび泣いた。


「・・・目が覚めたんだね、良かった・・・良かった・・・っ」


 マヤは、腕に抱いた外套マントの包みに顔を埋めて泣き続ける。

 レグルスは束の間、その包みを見つめていた。それがサーヤの亡骸であることはすぐに分かった。

 体を起こそうとすると、誰かが背を押して手伝ってくれる。その時、今まで自分が、メイウィルに支えられていたのだと気付いた。

 視線を巡らせれば、周囲を村の男たちに囲まれていた。その男たちはと言えば、こちらを気まずそうに伺っていたり、顔を逸らしていたり、異様な雰囲気だ。

 そんな中、エルヴィンだけがレグルスに近づき「大丈夫か?」と声を掛けて来る。

 レグルスはエルヴィンに頷き、メイウィルの手を借りて立ち上がった。

 すると、不意に違和感を覚えた。違和感、と言っても、不快なものではない。むしろ、その逆だ。

 レグルスが立ち上がったことで周囲の男たちがざわめいて後退あとずさるが、レグルスはそれには気にも留めず、自分の体のあちこちを動かしてみた。


(--なんだか、体が軽い)


 その時、記憶の中の兄の言葉が蘇る。




『今はまだ、竜血りゅうけつの絶大な力に振り回され、ままならぬことも多いだろう。

 しかし、覚醒かくせいを繰り返す度、その力は体に馴染み、おのれのものとなってゆく』




(--・・・竜血りゅうけつ・・・覚醒かくせい・・・)


 まるで、生まれ変わったかのような感覚が、全身を支配していた。


(-- 俺は、バケモノなんかじゃない・・・!)


 レグルスが右手を強く握りしめた、その時。



 ドガガァーーーーーン!!!



 村の方から、地響きと共に、爆音が聞こえてきた。

 見れば、夜闇やあんに黒い煙が立ち上っている。


「行かないと」


 呟くと、不意に力強い手がレグルスの肩に置かれた。

 エルヴィンだ。


「俺も行く」


 そう言って弓をかつぎ直す彼の隣に、同じように身支度を整えながらメイウィルが並び立つ。 


「もちろん、俺も」


 レグルスに向かい合った二人は唇を強く引き結び、瞳には強い光を宿していた。

 三人は、互いに視線を交わし合い、大きく頷き合う。

 しかし、そんな若者たちの姿を見て、マヤがレグルスの足に縋り付いた。


「行ってはダメ! アンタたちまで殺されちまうよ!」

 

 マヤの必死さが、縋り付く力の強さに現れている。しかし、レグルスは揺るがなかった。沈痛な面持ちのマヤの前に膝をつくと、サーヤもろとも、マヤの大きな体を抱き締める。


「ありがとう、マヤさん。心配してくれて。

 ・・・でも、許せないんだ・・・。行かせて下さい」


 自分は、多くのものを失った。

 記憶、トウマ、サーヤ、そして、忘れていた兄と故国。

 その全てが、魔族に起因している。

 そして今、大切な仲間が、その魔族と戦っている。


 マヤからゆっくり離れると、レグルスは彼女の顔を見ずに走り出した。

 その後を、メイウィルとエルヴィンが追いかける。二人を引き止めようとするマルティンの声が聞こえたが、三人は振り返らずに丘を駆け降りた。



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