第三章

第16話 霧中の策略




 森の中に、春の日差しが降り注いでいる。

 その日差しを避けるように、黒いベールを被った短髪の女が、獣道を歩いていた。

 地面は昨夜の雨にぬかるんでいる。

 しかし、丈の短いサテンのドレスからすらりと伸びた足は、躊躇なく歩を進めていた。泥はねが、美しい肌に染みを作るも、それをいとうどころか気にする素振りも見せない。

 そんな女のなまめかしい足も、肩から露わになった両腕も、うなじの見える首筋も妙に細長く、薄い胸元は異様なほどに白かった。

 それは、人間にはありえないものだった。

 女は、持て余しそうな程長い足で獣道を歩き続け、やがて洞窟に辿り着いた。

 ぽっかりと大きな口を開ける洞窟の前で立ち止まった女の元に、何処からともなく狼の様な姿をした魔獣が集まってきた。五匹いる。

 それらは従僕じゅうぼくらしく女の背後に整列すると、濡れた地面に座ってこうべを垂れた。

 しかし、女はそれらには一瞥いちべつもくれず、無言のまま、洞窟の中へと足を踏み入れた。




 女の銀色に輝く瞳は、猫のそれの様に微かな光も捉えた。

 人間ならば暗闇と思える洞窟内も、女にとっては何の障害にもならない。

 女にとって言葉通りの障害となったのは、洞窟の狭い道を塞ぐ、巨大な魔獣の死骸だった。

 しかし、女は顔色一つ変えることはなかった。

 薄く紅をぬった唇が開き、口笛の様な鳴き声が洞窟の中に響き渡る。

 途端、外で待機していた獣たちが現れ、巨大な死骸に噛みつき、その巨体を引きずり始めた。

 そうして出来た隙間をぬって、女は洞窟の奥へと向かった。




 洞窟の奥には血の匂いが充満していた。

 凝固し始めた血溜りの中に、銃弾に倒れた女の亡骸がある。

 冷たくなった華奢な女と、その傍らにたたずむ短髪の女。

 その面立ちは酷似していた。

 体格の差異はあるが、姉妹か、あるいは双子ではないかと思わせるほどだった。

 短髪の女は悲しむでも憐れむでもなく、無表情のまま淡々たんたんと、華奢な女のむくろを見下ろしていた。やがて瞬きし、ベトベトした血溜りの中に膝をつく。

 銀色の眼で亡骸の顔を覗き込み、撃ち抜かれた眉間に、鋭い爪で彩られた指先で触れた。

 その爪先が、遺体の眉間から鼻先、唇、顎、首筋を伝って胸元へと下ろされてゆき、やがて心臓の上でぴたりと止まる。

 次の瞬間、鋭い爪が、亡骸の薄い胸板をさばいた。

 死体の胸に大きな入口が開くと、女は無遠慮に手を突っ込む。

 静かな洞窟に、肉をえぐるグチャグチャという音だけが響いた。

 やがて肉をえぐっていた手がピタリと止まる。

 女はてのひらに目的のものをしっかりと掴むと、亡骸から一気に引き離した。

心臓だ。

 巡ることを忘れたどす黒い血がゴボッと音を立ててあふれ出すと、洞窟はまた静寂に包まれた。




 心臓を手にした女は亡骸を残して洞窟を出ると、一匹の獣僕じゅうぼくまたがって獣道を走らせた。残りの四匹がその後に続く。

 森の中をひたすらに駆けると、やがて薄く紫色がかった霧が立ち込め始めた。

 それを合図にするかのように、女がすんすんと宙の匂いを嗅ぐ。

 目的の匂いを嗅ぎ当てたらしい女は、獣僕じゅうぼくに指示を出して左に曲がらせた。

 しばらく走ると、小さく地崩れしたような段差があった。そこを飛び越えるとわずかな岩場にでる。

 大きく平たい岩の上に、人影があった。

 その人影を、数匹の魔獣が囲っている。

 女は短い髪をなびかせて獣僕じゅうぼくの背から飛び降りると、獣らの間をぬって人影の前へと進み出た。

 途端、女の表情が一変した。それまでの無表情が嘘の様に顔を歪め、両手に冷たくなった心臓を握りしめて人影の足に縋り付く。

 人影の正体も、また女だった。

 その女は、黒く豊かな髪を真っ直ぐ腰元まで伸ばし、体をくねらせて岩の上に腰を下ろしていた。しゃなりと伸ばされた手の先に、美しい風貌には不釣り合いの火傷があった。

 その指先が、縋り付いて泣いている女の短い銀髪をゆっくり撫で付ける。


「よしよし。わたくしの愛しいヒルデ。」


 黒髪の女は愛おしげに長い睫毛を伏せ、ヒルデと呼んだ女の短髪を丹念に梳いてやる。

 ヒルデはせきを切ったように嗚咽おえつをもらした。


「ヒルデ、今は泣けばよい。私たちの妹の死は、この身の引き裂かれる思いであったのう。しかし、よう耐えた。ようヨルダのしんぞうを持ち帰ったの。さぁ、わたくしの愛しいヒルデや。ヨルダのものを見せておくれ。」


 しなやかで艶かしい姉の足に縋り付いていたヒルデは、その足に何度も額を擦り付けて頷き、大事に抱えていた末の妹の心臓を長姉に捧げた。

 妹の震える手から、ヨルダの中心にあったモノを受け取った女の薄紫色だった瞳がギラリと光る。やがてその眼光は、胸の内に湧き上がる感情に呼応するように、薄い紫から激しい金色へと変貌していった。


「なんと、哀れな。」


 その言葉が発せられた瞬間、周囲に控えていた獣僕じゅうぼくたちの耳が一斉に引けた。

 女の内なる感情が波動となって空気を揺らし、彼女らを護る防壁のように立ち込めている霧を、より濃くしてゆく。


「わたくしの妹を、こうもはずかしめようとは。許さぬ。決して許さぬぞ。ヨルダのかたきめ、必ず見つけ出し、始末してくれる。必ずじゃ!

 ・・・じゃが、その前に。」


 怒りを露わにしていた女の口元に、薄っすらと笑みが浮かぶ。

 睫毛を伏せた女は、妹の刈り込まれた短い髪を哀れむ様に撫でつけながら、くくく、と喉の奥を鳴らした。


「喜ぶが良いヒルデ。ようやっと分かったのじゃ。そなたの美しい髪を焼き、このわたくしの指先をけがした、あの炎使いの居場所が。」


 火傷を負った指先を唇に押し当てて笑う長姉の様子に、ヒルデが弾かれた様に顔を上げた。そんな妹の頬を両手に包み込んで、女は怪しげに囁く。


「ソキじゃ。」


 ヒルデの目が輝いた。

 ソキ村と言えば目と鼻。しかも、彼女らが狙いを定めていた標的である。

 しかし、喜びも束の間、ヒルデの表情が曇った。

 ヒルデは子犬が鼻を鳴らす様な声を上げて姉の膝に手をついた。

 それだけで、姉には妹の言わんとすることが分かった。


「ラデンカの加護が気にまれるのであろう? あれの所為せいで、以前は手が出せなんだのう。・・・しかし、案ずることはない。既に手は打ってある。」


 そう言ってヒルデの髪を再び撫で付けると、女は指先で自らの長い黒髪をさっと払った。その手が流れるような仕種で、真っ直ぐに濃霧を指差し、傍らの獣僕じゅうぼくに顎で合図する。

 すると、狼の成りをした魔獣二匹が指示された方角へと駆け出し、濃霧の中に飛び込んだ。

 途端、甲高い叫び声が上がった。

 少しして、二匹の魔獣が濃霧の中から駆け戻ってくる。二匹とも、何かを引きずっていた。

 瞬く間に姉妹の元へと参じた魔獣二匹が咥えていたものは、二人の人間の娘であった。

 少女たちの顔面は蒼白だった。

 恐怖に全身が強張っている。

 当然だ。

 魔獣に捕まり引きり回された挙句、引き出された先で待っていたのは、人間とは似て非なるモノたちだったのだから。

 それを目にするのは初めてだろう。

 しかし、少女たちは知っていた。

 目前のものが、魔族であると。

 おののく娘たちを見下し、女は満足そうに笑った。


「この仔兎こうさぎどもが、わたくしのさくじゃ。」


 ヒルデにそう言って聞かせると、女は艶やかな黒髪を揺らしながら立ち上がり、娘たちの前へと歩み寄る。

 少女の一人は悲鳴を上げてうずくまり、もう一人は恐怖の為か動けずにいる様で、涙のあふれる瞳をうつろにさ迷わせていた。

 女は足の先を器用に使い、上体を起こしたままの娘のあごを上げさせる。


「小娘、名はあるか?」


 女の問い掛けに、娘は口をパクパクさせるだけだったが、やがてかすれる様なかすかな声が喉の奥から漏れた。


「あ・・・、さ・・・サーヤ・・・。」





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