第十四話『深夜の電話』

 ある日の深夜、アスカは執務室の机に向かっていた。静寂と闇が包む無音の空間の中では能率が上がり、与えられた書類へ目を通すのも、日中より細部まで読み取る事が出来る気がする。

 ここ最近は、松平コンツェルン社長である雅恵夫人から重要事項についてのデータ作成や、予算案など委されるようになった。

 松平コンツェルンは巨大な企業の一つで、元は医療薬品や医療機器を扱う小さな工場だったらしい。 小さな工場だった頃、先代の社長は様々な人脈を作り、頭を下げ発展を遂げてきた。

 以来病院や専門学校、福祉施設始めレジャー施設にも着手し、今や最大手企業の一つとして名を馳せている。

 静寂の中、パソコンのキーを叩く音だけが部屋に響く。 処理が一段落すると、室内の冷蔵庫から水出しのアイスコーヒーを注ぎ仄かな月灯りをぼんやり眺めた。

 コーヒーの香りが緊張感を和らげる。こうして一人で飲むコーヒーは唯一、執事の顔から自分に戻れる時間でもあるのだ。 

 アスカが松平の屋敷に入ってから半年以上が経過していた。

 これまでの執事は三ヶ月、長くて半年で自主的に去るか、或いは夫人の意に添わず解雇処分されて長続きした者はいない、とメイド長がいつか話していた。

 その事から言えばアスカは最長記録を更新した事になるのだろうか。幸い、屋敷に入って以降、雅恵夫人から苦言らしいものを受けた事はない。

 ないが、時折彼女が不穏な顔を見せるのは執事の仕事振りを観察しているのか、或いはまだ信頼するに足りぬからか。 何れにせよ解雇は免れているならばそれでよい。

 グラスの氷に月灯りが反射し、コーヒーの揺らめきに合わせて光りが踊り出す。 と、その揺らめきが激しく揺れたのは静寂を引き裂く電話の音に身体が動いたせいだろう。 それも屋敷の電話ではなく執務室にだ。

 こんな夜更けに、それも執務室へ直接掛けてくる者は凡そ一人しかいない。

「はい。蓮です」

 丁寧に応対すると電話の向こうから静かな笑い声が聞こえた。  

「あら。まだ起きていらしたのね。こんな時間までお仕事をさせているつもりはないわよ?」

 国際電話なのだろう。昼間の喧噪音が微かに聞こえた。

「ご機嫌よう奥様。丁度お預かり致しておりましたデータを作成致しておりました。今メールで送らせて頂いたばかりでございます。あと予算案のほうも…」

「そう。有り難う。今回はお仕事のお話ではないのよ」

「では、どういった事でございましょうか。この様な時間に執務室へ掛けてこられる、とすれば何か急用でしょうか?」

「ええ。だって個人的に連絡をとるにも執務室への直通しか無いでしょう?貴女はプライベートフォンをお持ちではないのかしら?」

「いえ。持っていない事はございませんが、平素、お嬢様にお仕えしております身ですから電源は切っております。此方から何処かへ連絡を入れる以外、外部からの受信はせいぜいメール程度でございます。執務室の電話でしたら必ず出ますから、そちらの番号をお伝え致しました。折角掛けて頂いても常に不通ですと奥様にもご迷惑でしょうから。ところで本日はどの様なご用件でしょうか?」

「ふふ。いいわ。そういう事にしておいてあげましょう。用という程のものでもないのだけど確認したい事があるのよ。…あの霧島という男、貴女はどう思って?調べた限りでは非の打ち所の無い綺麗な方のようだけど?」

 頭の奥に冷たい水を浴びせられた気がした。が、声色も表情も変えずに「そうですね…」と一呼吸置いた後、静かに口を開いた。

「とても誠実な方だと思います」

「そう。では以前貴女が話して下さった感想は変わらないのね」  

「はい。霧島家といえば由緒正しい軍人の家系であり、軍閥で元は伯爵の爵位を与えられた名家でございます。次期当主、晃児様はその血を立派に受け継がれた方…これ以上の殿方はいらっしゃらないかと…」

「地位も名誉も家柄も…何もかも揃っている上に、軍内の評価も良好…本当に非の打ちようが無いわね」

「奥様はお気に召しませんか?」

ふいに電話の向こう側が無言になり暫く沈黙が流れた。

「いいえ。でも、あまりにも出来過ぎでいると想わなくて?そんな何もかも揃った美丈夫な殿方が娘に、それも病弱でずっと屋敷に籠もっている青白い顔色のあの子に心を留めて下さるなんて。まるで御伽噺の王子様みたいだわ」

 ほほほ、と高い笑い声が電話口から響いた。何故か憎悪か嫉妬にも似た黒い女の業のような匂いを感じたのは、アスカも夫人と同様に女性だからだろうか。

「では、霧島様と美鈴様とのお付き合いは今のままで宜しいでしょうか?」

「ええ。貴女が危険だと思わない限りは。でもあの子はまだ十七。くれぐれも間違いの無いよう、清いお付き合いをさせて下さいね。もし何かあれば連絡をして頂戴」

「畏まりました。ああ、それから…」

 長い銀髪を指先で梳きながら窓へ視線を向け電話の向こう側へ声を掛けた。

「何か…?」

「今後、お嬢様の事は全て私にお任せ頂きたいのです。いえ、お嬢様の事のみならず屋敷の全てに於いてお任せ戴きたく存じます」

「ふふ。貴女も変わっているわね。自分のお仕事を増やされる事を望むなんて。よくてよ。貴女のお好きなようになさいな。メイド長には私から言っておきましょう」

「有り難うございます奥様」

 会話を終え受話器を置いた後、再び静寂が包み込んだ。

 窓から射す月灯りは雲に隠れ、やがて闇が部屋を包みこみ執事の長い影をも掻き消した。

 闇の中で冷たい笑みだけが静かに浮かんで消えた。

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