第十一話『兆し』

 数日後、霧島少佐が令嬢を訪ねてきた。

 晩餐会で令嬢に声を掛けた霧島晃児は、非番の度に屋敷へ訪れては令嬢に遇いに来た。若いながら海軍少佐であり代々軍人貴族の家柄で父親によって厳しく育てられたという。

「やあ執事さん、本日も雨ですね。ですが雨というのも情緒があって私は好きですよ。時に…」

「ご機嫌よう霧島様。ようこそ…お嬢様でございますね?お部屋にいらっしゃいますのでご案内致しましょう」

 令嬢の新しい部屋は、専ら、この少佐の訪問の為に整えられたようなものだった。

「お嬢様、霧島様がお出でになりました」

「ご機嫌よう美鈴様。本日も雨が降っておりますね。お加減は如何でございますか?本日は外に出られませんからチェスでも致しましょうか」

 真っ白な軍服に包まれた長身の長い影。霧島は令嬢へ真っ直ぐ視線を向け、戸惑いながらも嬉しそうにはにかむ彼女へ穏やかに声を掛けた。

 アスカは傍らで紅茶を淹れながら、それとなく二人の会話に耳を傾けた。令嬢視線を上げ、霧島に眩しそうに瞳を細め挨拶を返し小さく頭を下げて見せた。

「ご機嫌よう霧島様。本日は非番なのですね。…でもいつも軍服を着ていらっしゃるのですね。非番の日でも着用が義務付けられているのですか?」

「いえ。非番は何を着ても構いません。ただ私があまりにも服のセンスがない、という事と軍服は楽ちんなので着ているのです。案外面倒臭がりなのですよ。それに…」

 霧島は令嬢の傍らへ腰を屈め車椅子に座る彼女の耳元まで顔を落として、ぼそりと囁いた。

「…軍服のほうが三割増しで美男子に見えるでしょう?」

 「ほら」と顔が見えるように令嬢の目線まで膝を突いて微笑み掛けた。頬を染めて俯く令嬢を彼は愛しい者を見つめる様な眼差しを向けている。

 茶の用意を調えた後は執事が残る必要はない。ないが、一応護衛と令嬢の体調が急変する事を考慮して、部屋続きに扉一枚のみで隔てられている控え室で待機する事になる。何か用があるまで令嬢の部屋には入らない。それが執事の務めなのだ。控え室の扉から暫く部屋の様子を伺った。

 霧島少佐なら心配せずとも護衛も任せられるだろう。執務室に戻って仕事をしていても問題は無いだろうが、万が一に備えてこの儘控え室に留まった方がよいだろう。

 令嬢に客人があれば報告をしなくてはならない為と、万が一彼女に対して彼が無礼な態度をとればすぐに対応出来る為…これも執務の内なのだ。

 ――執務?本当にそれだけか――?

 心の何処かで何かが問いかける。

 ……執務だ。決まっている。相手が軍人だろうと此方もそれと同様の、いやそれ以上の訓練を受けている身だ。否、万が一此方が倒れる事があったとしても家人を守るのか執事の義務だ……

 ――令嬢の為に命を投げ出してもいいというのか。お前は…蓮アスカだぞ――

 控え室で書類に目を走らせるもその手と視線は止まったまま。心の中で自問自答を繰り返していた。

 ……分かっている。私は蓮アスカだ……

 令嬢は身体も弱く滅多に外出などする事はないが、霧島少佐は何かと理由を付けては彼女を外へ積極的に誘い出した。それが功を奏したのか、最近の令嬢は顔色も良く、またよく笑うようになった。 

 食欲も以前と比べて随分進むようになり肌の血色も良くなってきた。虚弱な家人が回復傾向にあるならば喜ぶべき事だろう。  

 書類を少し乱暴に机へ放り投げると扉の向こう側で談笑し、あの鈴を転がす様な愛らしい笑い声を立てる令嬢の声に耳を傾けた。

 ……彼女にとって私の存在とはどの様なものに映っているのだろうか。冷たく厳しい執事か、或いは、唯の煩いだけの存在なのか……

 一瞬拳に力を入れたがそれはすぐ開かれた。ふ、と自嘲気味に小さな笑みを零すと僅かに開いた扉の傍らに立ち、二人の様子を伺いながら得体の知れぬ葛藤を幾度となく繰り返しては、自問自答する自分を滑稽に思った。

「私、霧島様とお話をするようになってから随分元気になった気が致します。きっと霧島様は私のお薬みたいな方なのかもしれませんわ」

「美鈴様のお薬になれるのであれば、貴女が求める時に何時でも馳せ参じましょう。私もまた、貴女を笑顔に返す事が出来るならば喜びになるからです」

 アスカは扉からそっと身体を離すと、暫く窓を打ち付ける雨粒へ視線を向け何時しか雨音に耳を傾けていた。

 鉛色の空の遥かで遠雷の蒼い閃光が音もなく光った。まるで今、自身が抱いている心の色のようだ。心の中で何かが狂い始めている。

 梅雨空に霞む水煙をいつまでも眺めていれば、幾度目かの閃光に照らされて長い影が絨毯に妖しく揺らめいた。

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