第十話『被虐の令嬢』
法要で過ごした休暇は瞬く間に終わり、アスカは三日振りに屋敷へ戻った。
たった三日しか経過していないというのに随分空けていたような気がしたのは、妙にがらんとした、そう、屋敷へ初めて訪れた時と同じような薄寒い静寂が屋敷内を支配していたからだろうか。その夜は早く床に就いた。
早朝、微かな物音がアスカの耳を掠めた。ベッドからすぐには起きあがらす暫く瞳を閉じて再度耳を澄ます。
――がたん
やはり物音がする。身を起こすと上着に袖を通し。静かに扉を開け音が聞こえたと思われる方向へ慎重に歩を進めた。
気配を消し、懐には護衛用の小銃を忍ばせいつでも引き金を引けるように指先だけは小銃に意識を集中させた。再び二度ほど物音が聞こえた。
……間違いない。二階からだ。もしや不審者か……?
更に神経を研ぎ澄ませながら階段を静かに昇る。
二階から物音がしたなら令嬢の部屋だろうか。 懐に忍ばせた指先は銃鉄に触れ、隠れた銃口は獲物を待つハンター宜しく辺りの気配を身体以上に探る。
令嬢の部屋の前で息を潜め、まずは中の様子を伺う為に僅かに扉を開いた。と同時に小さな悲鳴の様な声が耳を掠めた。
突入しようか、とも思ったが相手の様子を暫く見る必要がある。いたずらに突入して相手の神経を逆撫でする可能性も考えられたからだ。
「貴女の為に貴重な時間をとられたわ。全く、使用人を何だと思っているのかしら?」
「…ごめんなさい。でも…清掃中の札が出ていたので悪いと思ったのです」
令嬢の声だろう。だが随分と生気を感じさせない声だ。
「こんな夜中にお手洗いの清掃などする筈もないでしょうに。誰かが凡そ仕舞い忘れていた事くらい、お嬢様も子供ではないのですからちょっと考えれば想像がつくと思います。まるで私が悪いみたいな言い方…忌々しい事!」
言葉と同時に振り上げられた細い腕を、背後から躍り出た影が掴み上げた。
「…っ!」
「お早うございますメイド長。早朝から随分とお元気そうですね?飼い犬でも調教なさっておいでか?」
メイド長の手から細い革製の布切れが、闇に染まるまだ新しい桜色の絨毯へ落ちた。
「アスカさん…あ、貴女、私室でお休み中だったのでは?」
背後に立つ執事の姿に、メイド長は驚愕と怯えの混じった声でうわ言の様に問うた。
「私室で休んでおりましたら、二階から物音がしたので目が覚めたのです。幸い、耳が良い上に執事学校では厳しく護衛の訓練を、それこそ軍隊並な訓練を受けておりましたので、特に深夜の音は微細なものでも過敏に体が反応するようですね。…ところで、貴女の今躾けられていた『飼い犬』はどちらに?どうやらここはお嬢様の私室のようですが。まさか貴女の犬がお嬢様を襲うような事でも?」
「……」
黙り込むメイド長の傍らで小さく身を縮めている影へ視線を向けた。よれよれになったパジャマは所々一文字に薄く切り裂かれ、その内の数カ所は血が滲んでいるのが暁の闇の中でも確認ができた。恐らく、メイド長が手にしていた細い革製の布は体罰を与える為のものだったのかもしれない。
アスカの鋭い眼光は闇の中で妖しく光り、メイド長の腕を乱暴に離した。そのまま令嬢を庇(かば)うように腕で覆いメイド長を睨みつけた。
「…失礼、飼い犬ではなくお嬢様に、でしたか。メイド長にあるまじき行いですね。勿論、本日朝一番にご主人様にも奥様にもご報告致します。宜しいですね?」
メイド長の青い顔色は、やがて悪魔の微笑みに変わり勝ち誇ったように口角を上げた。その笑みに一瞬ヒヤリとした冷たい水が背中を流れた気がした。
「…ええ。貴女がそうしたいならそうなさったら?アスカさん。私はただこの屋敷の決まりを守っただけですもの」
「決まり?家人に対して乱暴を働く決まりなど存じ上げませんが?」
「では後はお願いします。ああ…汚れたものや破れて修復が不可能なものは廃棄処分を。私はこれから休みますからお昼から出ますと皆さんにはお伝え下さい」
静かに淡々とした事務的な口調はいつものメイド長そのものだ。立ち去ろうとするメイド長に早足で近付きその肩を乱暴に掴んだ。
「お嬢様へお詫びの言葉をまだ戴いておりませんよ?メイド長。それに先程聞こえた限りでは、御手洗いに清掃の札を仕舞い忘れておられた、とか…」
だが何も言わず一瞥するだけで彼女は部屋を出て行った。令嬢は床に崩れたままベッドに背を委ねていた。ぐったりした細い身体を抱き上げた瞬間、彼女の下腹部に冷たく湿った感覚が手のひらに伝わった。
「…!」
メイド長が憤ったのは恐らくこれが原因なのだろう。メイド長の言葉ではないが、何故確認をせずに我慢をしていたのだろうか?家人であれば、例え清掃中の札が掛けてあったとしても一声掛ければ堂々と用くらい足せるだろうに…。
……彼女は令嬢でありながら、使用人達からぞんざいな扱いを受けているのか、或いは、令嬢がそこまで気遣いをせねばならぬ事情でもあるのだろうか……
だが今は唯黙って、抱きかかえた令嬢をそのままバスルームへと運ぶ為に部屋を出た。薄い紫紺に染まる空が廊下の窓を照らし始めていた。
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