第九話『引き継がれる宿命』
ある日、アスカは祖父の法事で三日間休暇をとった。
松平邸へ入ってから連続した休みをとったのは初めてだった。メイド長は執事から手渡された休暇申請書に目を通しながら小さな目を丸くさせた。
「三日でいいのですか?貴女はこの三か月間というもの規定の休みさえ執務をなさっておられたでしょう?うちに労組はありませんけども、一応、使用人達の勤務状態も任されている立場上、労働条件を超えた稼働は何かと後で国から煩(うるさ)く言われるので…」
「ええ。勿論メイド長の御立場も理解しております。それに、規定の休みならきちんと休んでおります。執務室に入るのは、単に私があの部屋が好きで落ち着くからなのです。勿論、机上での雑務をする事もございますが、それも私にとって休日の使い方の一つです。では、申請書は受受理して頂けますね?」
「勿論よ。御祖父様の法事なのですね。ゆっくり参って差し上げて下さいな」
この三か月の間、始めはあの妙な雰囲気に馴染めなかったが、最近になってやっと令嬢に相応しい執事らしく振る舞える様になっただろうか…。墓地へ向かう車の中でぼんやりとメイド長とのやりとりを思い出していた。信号で停車すると、三か月の月日が経過した事を改めて感じる。
黄金に色付いていた街路樹の銀杏はすっかり葉を落し、細い枝を寒空へ伸ばしていた。
「御祖父様、お久しぶりです」
薄く汚れた御影石の墓石にくすんだ影が映り込んだ。
だがそれはやがてアスカの手によりみるみる光沢を蘇らせた。御影石本来の美しい輝きはアスカと、周りの木々を鮮明に映し出せる程に磨かれた。アスカは墓の清掃が済むと静かに手を合わせた。
「松平邸へ仕える事となりました。御祖父様の志、私が果たす時が参りました」
アスカは十二の時に両親を事故で亡くして以来、父方の祖父母に育てられた。祖父はアスカにとって目標でもあり尊敬する執事だった。
その祖父は亡くなる数数年前より松平の家へ入る事を願い続けた。だがそれは果たされず。彼はその想いを孫娘のアスカに託して彼女が執事学校へ留学する前年に、莫大な遺産だけを残してこの世を去った。祖母は後を追う様にその一年後に亡くなった。
改めて松平家へ入る報告を口にした後、深い木々に囲まれた空を見上げた。
蓮の家は明治から続く執事の家系だ。今の代は男が生まれなかった為に女であるアスカがその家業を引き継ぐ事となった。
名家の執事を多く輩出する事で有名な、英国のブリック・フォード執事養成学校へ入ったのは初代以来の快挙となった。女である事で家業に不相応だと言われぬように必死だった。
二番目など意味の無い事だ。これは常にアスカ自身が意識している事だった。
それ故にいつも首席で、それは英国の執事学校を卒業するまで貫き通した。
幼い頃から努力を重ね、他の子供達の様に遊ぶ事は滅多になかった。そんな娘を両親はいつも、無理はするな、自分らしく生きろ、と繰り返した。それは事故で亡くなる前日まで続いた。
だが彼女にとっては家柄に相応しい、否、歴代以上に最高の執事となる事を目指す、それこそが『自分らしく生きる』という事だと信じてきた。
そしてもう一つ、蓮の家には果たすべく『使命』があった。
忌まわしい過去が代々受け継がれる宿命を背負っているのだ、と幼い頃より祖父から聞かされていた。
――明治初期、名家と呼ばれる家のひとつに一条という家があった。
一条家は軍閥で伯爵の爵位を与えられていた。
当時、一条の当主であった一条英正は優秀な軍師であり、数々の戦功を遂げていた豪将でありながら、性格は穏やかで子煩悩であり愛妻家であった。近隣の山々や田畑を持ち、財界でも名を上げていた。
また、学校や病院などの当時あまり国が力を入れていなかった建設にも積極的に取り組み、海外へ優秀な学生を留学させ、医者や教師を育て、使用人達にも学校へやるなど教育にも熱心だった。
そんな一条家に仕える使用人の中に、ふみという優秀な若くて美しい女中がいた。彼女は何時しか出入りの商人、かつという男と密かに恋仲となった。
当時、二人の家は貧しく、給金を全て郷里へ仕送りをしていた。その為、自分達の手元には一銭も残らぬ状態だった。そんな二人にとって心から望むものは金と裕福な暮らしだった。
「いつかお金を貯めて二人で暮らそう。一条家の様な立派な家にして美味しいものを腹一杯食べて、使用人達も雇ってな」
「ええ。それに日本中を旅行しようよ。気に入りの場所があれば暫くそこでのんびり過ごすのもいいねえ」
二人はいつもそんな夢物語を語り合い、まだ先の「いつか」に思いを馳せるのだった。それが二人には幸福な時間だった。
ある日、かつが珍しく人気のない場所へふみを誘った。
一条家から少し離れた林道。その奥の細い道を入ったところに小さな祠があった。昼なお鬱蒼と緑が茂るほの暗いそこへ二人はひっそりと入って行った。
「なんだい。こんな所へ呼び出したりして。誰かに見られたら妙な噂を立てられるじゃないか。英正様の御耳に入れば追い出されちゃうわよ」
「馬鹿。あの方はお前を優秀な人材として認めている。今更追い出したりするもんか。それより…今日はいい話を持ってきたんだ」
「なんだい?『いい話』って」
木々が風で大きく揺れ、ざざざ、と乾いた音を立てた。かつはふみにそっと耳打ちを落とすと、木々のざわめきの中、ふみの顔色がみるみる蒼くなった。
「な?いい話だろう?」
「…一条家を…乗っ取ろうっていうのかい?」
かつが大きく頷いて見せた。そうして確認する様にもう一度、耳打ちをした言葉を繰り返した。
「一条の財産を頂く。二人で協力すれば上手くいく。お前は一条の寵愛(ちょうあい)を利用して、俺の言う通りに動けばそれでいい」
それから数日の間、ふみはかつと逢う事はなかった。
しかし日が経つにつれ、毎晩郷里で泣く幼い妹や弟を思った。
体の弱い両親がその痩せた体に鞭打って田畑を耕している光景を思った。もう何年も田舎へは帰っていない。
…父のぜんそくはひどくなっていないだろうか?
…母は一段と痩せて血色が悪くなっていないだろうか?
…幼い妹や弟たちは腹を空かせて泣いているだろうか?
――「一条の財産を頂く」――
かつの声がふみの耳元で甘美な旋律を響かせた。幾度も繰り返し聞こえるその言葉は、ふみの不安を覆い尽くしていった。
……私がかつさんと協力すれば、父も母、弟や妹たちを楽にさせてやる事が出来る。いいえ、私とかつさんも幸せに暮らせる……
ふみの心にひとつの決心が生まれた。
再びふみがかつと逢ったのは、かつが提案を持ちかけてから一か月ほど経過してからの事だった。かつはふみを責める事はせず、早速計画を企てた。
「いいか。まずは一条家の権利書を手に入れろ。後は財産を証明するものなら何でもいい」
それから、ふみは英正の部屋を掃除中、少しずつ引き出しなどを調べた。
この女中は頭が良いのか一度に色々な所を調べると勘付かれると思い、一つの場所を時間を掛けて丁寧に少しずつ調べあげたのである。
権利書や財産を管理する書類などを納める場所も把握したが、すぐには手を出さずその機会を作る算段を付けていた。
そして事件は起きた。一条の屋敷が大火に包まれたのだ。
当時、一条の屋敷には使用人五人、屋敷主、妻、そして子供が三人が住んでおり、その夜は屋敷に住み込む者の殆どが揃っていた。
闇に轟々と燃え立つ紅蓮の炎は、屋敷とその敷地内を全て舐めとり、火は一晩中燃え続けていたという。
その事件は未曽有の大惨事として新聞にも大きく取り上げられた。
かつとふみは小高い丘からこの様子を眺め、その夜の内に新たな土地へ移り消息を絶った。
やがて行方をくらましていた二人は『鷹宮』と姓を変え大財閥を築いた。勿論、一条の財産を元手にして成り上がったものである。
一条の財産は、偽の遺言書を書く事を生業としている知人に頼みこみ、まんまと騙し取る事に成功したのだった――
……一条家は滅んだ……
美しく磨かれた墓石に夕暮れの茜色がその光沢に映えて紅く染まった。反射した紅色がアスカのダークブラウンのコートを鈍く照らした。
冬の夕暮れは空気が澄んでいる為か、紅の色が鮮やかに見えた。墓地を覆う木々の狭間から差し込むそれは鋭利な剣にも見え、その鋭い紅蓮の刃がアスカの右肩から左腰へ真っ直ぐ切り裂くように射した。
「忌まわしい過去が代々受け継がれる宿命を背負っている、か」
紅蓮の刃の切っ先を拳で握るとそのまま墓前に一礼落とした。
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