第八話『新しいお部屋』

 霧島少佐が屋敷を初めて訪れてから十日ばかり過ぎた。

 その間、霧島少佐から一、二通ほど令嬢へ便りが届き、その返事を必ず彼女はその日の内に書いては執事に投函を委ねた。

「またお伺いしたい、と書かれてあったのですが、アスカがお部屋を変えるまでは待って頂く様に、と言っていたので『お部屋の模様替えをしております。お部屋が整えられる頃には私の体調も回復して、お招き出来るかと思います』とお返事をしておきました。…それでよかったのかしら?」

「大変結構でございます。その様にお返事を頂ければ霧島様もご納得なさいますでしょう。それに、その内容には一切嘘はございません。お嬢様のご体調が回復なさるまで時間が掛かる事も、新しくお部屋をご準備させて頂いた事も」

 執事の言葉に落ち着いたのか、真新しい先日仕立てたばかりの淡い緑のワンピースに身を包んだ令嬢は、その小さな体を柔らかな椅子の座面にゆったりと委ね、「それならよかったわ」と呟いた後、白い紅茶カップへ桜色の唇を付けた。

 午後の陽光は薄いレースのカーテン越しに広い部屋を照らし、新しく貼られた若草色の壁紙に映え薄い桜色の絨毯に柔らかな影を落とした。

 テーブルには真っ白なクロスが宛てられ、その上にはクロスと同色の真っ白な茶器が並ぶ。白いカップが令嬢の手元で揺れる度、紅色が光と交差し美しい螺線を幾つも描き芳醇な香りが湯気となって立ち上る。

 白い皿に盛られた焼き菓子はフィナンシェ。バターの芳醇な香りとその名の由来通り、金槐を想わせる小金色がより鮮やかに映える。

「お嬢様、お茶のお替わりは如何でございますか?」

「あ、はい…頂きます」

 遠慮気味にカップを差し出す。だが以前よりもお茶の時間を楽しむ心のゆとりが生まれてきたのか、緊張感は感じられなくなった。

「これは何というお菓子なのですか?」

「此方はフィナンシェ、と申しましてフランスの焼き菓子でございます。マドレーヌとよく似たものでございますが、此方はアーモンドの粉を使ったお菓子になります。金槐、という意味を持つお菓子ですからこのように四角い型を使って焼くのが通常とされております。焦がしバターを使うのも特徴の一つで、朝からダイニング中に芳醇な香りが漂っておりました。」

 令嬢は相変わらず敬語を使うが、よく積極的に細かな質問をするようになった。彼女なりに少しずつ心を開く様になった、或いは慣れたという事だろうか。

「新しいお部屋は如何でしょうか?壁紙や絨毯、調度品などは私が独断で選ばせて頂いたものでございますが、もし他にお気に召すものやご希望のものなどございましたらお申し付け下さいませ」

 二階の南向きに面した角部屋は明るく、何故この部屋がずっと空き部屋になっていたのか不思議なくらいの良部屋だった。

 だが、部屋を一つ変えるのも大変だった。メイド長の許可がなかなか下りなかったからである。

 一週間程前になるだろうか。アスカがメイド長に令嬢の部屋替えを提案した事から始まる。

「お部屋を変える?お嬢様がそう仰有ったのですか?」

 メイド長がきつい目を執事に向けて睨んだが、アスカは表情一つ変える事なく話を続けた。

「いいえ、お嬢様からは何も。私が必要だと判断したからです」

「アスカさんが?それはどういう事かしら?」

「先日、霧島様がお越しになった際、お嬢様は臥せっておられたのでお部屋へ通す事はございませんでしたが、今後、お嬢様が社交界に出る機会が増えますと、お嬢様を訪ねて来られる方や、またお招きする機会もございましょう。今のお部屋ではお客様をお通しするには少々粗末過ぎるかと…」

「ですがあのお部屋は奥様が与えられたのですよ?私の一存では…」

「この屋敷の事は全てメイド長に…貴女に権限があると先日奥様から伺いましたが?」

 メイド長は一瞬怯むように視線を反らし、瞳を宙へ泳がせた。

「ええ。勿論この屋敷を取り仕切るのは私ですから。…では、お嬢様のお部屋を変えたい、というのはあくまでも貴女のご意思、という解釈で宜しいかしら?アスカさん」

 妙な聞き方をする口調は先程までの勢いは既になく、何処か自分の立場から逃げているようにも聞こえた。

 その後も幾つか問答を交わしたものの、最後までメイド長が決断を下さないので、結局、「執事が直接奥方へ連絡をとり許可を得る」という事で話はついた。

 その夜、アスカが夫人へ連絡をとりつけ漸(ようや)く令嬢の部屋換えを了承してもらったのだった。

「…本当にこんな素敵なお部屋をもらってもよかったのですか?」

 二杯目の紅茶に口を付けながら令嬢は遠慮気味に尋ねた。彼女も何か不安を感じているように見えた。

 このお屋敷では誰が主なのですか?と口に出しそうになるのを堪えながら穏やかに微笑み長身の腰を丁寧に折った。

「はい。実は、お屋敷へ入った時からお部屋については考えておりました。伺えば、以前のお部屋はお嬢様がお子様の頃に与えられたとの事。お嬢様も社交界デビューを果たされたのです。もう子供部屋は必要ございません。それに奥様の許可も得ております。お嬢様を訪ねて来られるお客様にまさか子供部屋へご案内する、という訳にも参りません」

 令嬢は「そうね」と口許で呟き、そしてまた紅茶のカップへ口を付けた。

「もう…子供ではないのですね」

「然様でございます。…お茶が冷めてしまいましたね。暖かいものに淹れ替えましょうか?」

 手袋越しにポットを手に取ろうとすると令嬢は小さく首を振り、少し恥ずかしそうに両手で冷めたカップを包み込んだ。

「…いいえ。このままで。熱い紅茶より冷めた紅茶のほうが飲みやすいのです。あと…お菓子も好き」

 令嬢は恥ずかしそうに呟くと「子供でなくてもお菓子は好きです…」と付け加えた。

 その表情は俯いた影でよく見えなかったが、声色は初めて聞くもので、何ともくすぐったそうな、少女らしい声だった。 思わずその声の愛らしさに笑みが零れた。

「冷めた紅茶はともかくとして、私も甘い物は好きですから」

 傍らに控える執事の言葉に、恥ずかしそうに俯いていた令嬢がふと顔を上げ、少し照れくさそうな笑みを返した。

 ……彼女のこんな笑みを見たのは初めてかもしれない……

 午後の陽光がその笑みをより朗らかに見せたせいだろう。その笑みは天使の羽の色にも見えた。

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