第四十話『屋敷を後に』


 ……さて。仕上げは上々、といこうか。蓮家の…一条の長きに渡る重いくびきが今落とされるのだ……

 再び静かに時を刻む音だけが部屋を包み始める。屋敷中の窓という窓を全て開き、冬の冷たく澄んだ空気を邸内へ入れた。

 少し留守にしていた屋敷は、あれだけ毎日の様に清掃作業を欠かさず事がなくとも少しばかり埃が積もっている。

 そういえば、令嬢が消えたあの日、彼女の希望でケーキを買ってきていた事を思い出しダイニングへと向かった。冷蔵庫を開ければあの時のまま、可愛い箱が一つ主の帰りを待っていた。箱には二つのケーキが並んでいた。令嬢の好物であるいちごのショートケーキ、そしてアスカの好きなオペラ。

「勿体ない事をしてしまった。致し方あるまい」

 すっかり傷んでしまったケーキを廃棄すると、他のゴミと共に袋に詰めてしっかりと口を縛った。

 屋敷内を丁寧に磨いていると、この屋敷に初めて入った時の光景が思い出される。

 …令嬢に対してよそよそしく振る舞う使用人達、

 …粗末な部屋を与えられ、錆びた車椅子に身を委ね、薄い生地のワンピースに身を包んだ少女…とても令嬢とは思えぬ風貌で、顔色は青白く、髪も艶が無かった。

 ……彼女が笑顔を向けてきた最初の日は何時だっただろうか。そうだ、部屋を新しく変えた時だ。明るい陽光の射す部屋でお茶を飲みながら初めて見せた笑顔。その笑顔に、まるで天使のようだと心を奪われたのだ。あの日から私の心にあの方が住み始めていた。否、もしかすると初めて会った時からかもしれない……

 すっかり綺麗に磨かれた屋敷に満足すると、アスカは簡単に荷物をまとめて玄関に立った。

 古い柱時計が見送る様に午後四時の刻を告げ、四つ目の音が鳴り止む頃には誰も居なくなった。この屋敷の刻(とき)が再び流れ始めるまで暫く屋敷は静かな眠りに就く事だろう。

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