第四十一話『裁きの基準』

 季節は巡り、木々の青さがすっかり紅や黄金に染まり、地面を錦の絨毯に染め上げ、その染め上げた見事な絨毯はやがて訪れる冬将軍が拭い去ってゆく。

 美鈴が退院して屋敷へ戻った後もアスカが戻る事は無かった。入ってはならないと言われていたアスカの執務室は鍵が掛けられており、霧島が無理やりそれを開け、室内に何か手がかりになる物はないかと二人で探してみたが、矢張り何も残されてはいなかった。パソコンの記録も全て抹消されており、書類で溢れかえっていた机も棚も全て綺麗に片付けられていた。そんな奔走の内に、気付かぬ内にアスカが消息を絶ってから一年が経過しようとしていた。

 そんなある日、美鈴が定期検診へ行った時、担当医師の風間から渡したいものがあるので改めて訪問したい、という申し出があった。

「渡したい物?今受け取る事は出来ないのでしょうか?」

 美鈴が不思議に思い医師へ首を傾げた。

「此処ではなく、直接お宅へ伺ってお渡ししたいのです。それに此処では話せない事もありますから。今度の日曜日にでも伺って宜しいでしょうか?」

 日曜日の午後、美鈴は霧島少佐と共に屋敷で客人を招く準備に朝から忙しくしていた。

「渡したい物か。気になりますね。案外ラブレターかもしれませんよ?」

 茶器を揃えながら紅茶缶を棚から取り出す美鈴へからかう様に霧島が言葉を掛けた。

「ラブレターなんて頂いた事はないわ。それに先生は既婚者です。奥様もいらっしゃるのだから」

「ラブレターを貰った事がない?それなら今度、私が貴女に送ってもいいですか?」

 美鈴の手が止まり、危うく缶を落しそうになったが。霧島の手がその手を支え、缶をテーブルに置くと支えていた掌を包み込んだ。

「霧島様…」

「いけませんか?私が貴女に恋文を送るのは…」

 美鈴の目が泳ぎ始める。まだアスカが忘れられない。心にはずっと彼女が住み、半ば諦めているとはいえずっと彼女が戻るのを待っていた。

「ごめんなさい…突然だったので驚いてしまって。でも恋文はもう少ししてから頂いてもよろしいでしょうか?今はまだ上手くお返事を紡げないと思うのです」

 言葉を選びながら、それでも霧島の気持ちを害さぬ様に美鈴なりの心配りが寧ろ、霧島には痛かった。

「…アスカさん、ですか」

「……」

「貴女もまた彼女を愛しているのですね?」

「ええ。女性同士だと呆れられますか?」

「いいえ。人間同士性差を超えて愛せるという事はとても尊いものだと思います。それに、アスカさんなら大抵の女性は心を奪われるでしょう。あの方は強く、美しく、気高い。恐らく女性が女性に憧れる要素を全て持っているのでしょうから」

「アスカは約束してくれたのです。必ず私の許へ戻って来る、と。だから私はずっと待っているのです。待っていたいのです」

 やがて予定の時刻を回ろうとした時、訪問者を告げるベルの音が鳴った。

「こんにちは松平さん」

 霧島がモニタを確認し応対すると明るい挨拶と共に、風間医師の姿が映し出された。

「いらっしゃいませ先生。お待ち致しておりました」

 霧島は玄関で医師を出迎え居間へ通すと、丁度お茶を淹れた美鈴が笑顔で迎えた。

「先生、本日はわざわざお運び下さりありがとうございます。どうぞ…」

医師をソファに案内すると二人は向かい側に並んで座った。風間医師は「これはご丁寧に」と一言添えた後、静かに淹れたての紅茶を一口、二口と流し込んだ。

「それで…何でも渡したい物がお有りなのだとか?」

 穏やかな口調で言葉を掛けたのは霧島だった。美鈴も少し緊張しながらも期待を込めた瞳を医師に向けている。それはまだ幼さが残る少女らしい好奇心が含まれていた。

 風間は暫く沈黙した後、鞄から一つの封書を取り出すと美鈴の前に差出人が見える様に置いた。差出人の名前を見るや美鈴の瞳が涙で揺れた。

「…そのお手紙は一年前に託されたものです。手術が成功したら一年後に手渡してほしい、と」

「手術…二度目の手術の事でしょうか?」

 霧島はふと美鈴が二度目の手術を受ける事になった日の事を思い出した。美鈴も思い出したらしい。尤も、彼女にとって一度目は意識の無い状態で知らぬ内に終わっていた為に覚えていないのだが…。

「確か、一度目の手術は私の体力が持たなかったので、銃弾を全て取り除く事が出来なかったと伺って、二度目というのはその残りを抜去して下さったのでしたね」

 美鈴は紅茶のカップを両手で包みながら思い出していた。

 二度目の手術を受けたのは、アスカから暫く留守にすると告げられた翌日だっただろうか。手術後も彼女は一度も姿を見せなかった。それからもずっと…。

 切なさが再び胸を締め付けた。封筒へ視線を向けるだけで泣きそうになるのをぐっと堪え、その辛い顔を悟られぬ様に紅茶を二口ほど喉に流した。

「ええ。そうご説明をさせて頂きました」

 風間は静かに頷いてみせた。封筒の差出人はまさに霧島と美鈴がずっと探し続けている女執事の名前だった。だが、そこには『蓮アスカ】という本来の名前ではなく『蓮飛鳥】と記されていた。

 美鈴が震える指先で封を解こうとすると医師の手が柔らかくそれを制した。

「お手紙を読まれる前に少しお話しておく事があります。私の話を聞いた後、お手紙を読んで下さい」

 医師は再び二口程紅茶を流した後ゆっくり話を始めた。そう…一年前、執事と二人で会話を交わした夜の事を。

診察室の窓が冬の闇に染まり二つの影を黒い鏡が映し出していた光景を思い出しながら…。

「松平さんの一度目の手術…つまり銃弾を受けて運ばれた時に行われた手術の後、蓮さんに症状の説明を致しました。彼女が松平さんの身内代わりだと仰っておられましたので…」

 風間医師はその時の様子を二人に語り始めた。


―― 「それで…お嬢様は、美鈴様のお体はどの様な状態なのでしょうか?」

  椅子に掛けるや、急(せ)かす様にアスカは風間医師に訊ねた。

「美鈴さんは先天性の心臓疾患がお有りで、警察の調べによれば新薬開発の為に薬剤を幾種類も投与されていたとか。検査wpしてみましたところ薬剤反応がありました。あと…銃弾を受けた箇所についてですが」

「抜去できたのてしょうか?」

「それが…悪い事に心臓付近の動脈と静脈の間に埋まっている状態でしてね。普通なら装置でなんとか取り出せるのですが、美鈴様の場合、様々な新薬を投与されていた影響なのか心臓が変形しているのです。銃弾を動かせば命も危ぶまれる…今回は一度閉じて改めて治療法を講じる事に致しました」

「という事は…銃弾はまだお嬢様の体に入ったまま…」

「ええ。そういう事です」

 窓から射していた月の光は暗雲に覆われたのだろう。その淡い光さえ飲み込み闇が深い色になった。尤も、その闇は明るい電灯の点いている部屋からは見えないが…。

「先生の仰る事は恐らく最善を尽くされるものなのでしょう。しかし…本当はまだ策をご存知なのてはないですか?だがそれは何らかの支障を来すかもしれないような…」

 アスカの切れ長の瞳が一瞬光った。医師は少し驚いたが小さく笑い「貴女は鋭い方だ」と呟いた。

「…確かに策はあります。しかしながら貴女の仰る通りで今の我が国では不可能な事です。それでもお知りになりたいでしょうから申し上げましょう。…美鈴様の心臓に健康な心臓を移植するのです。心臓だけではない。周辺の血管も一部移植する必要があります。ですがこれは誰のものでも良い訳ではありません。型が合わなければ出来ませんから」

「……!」

  今度はアスカが言葉を失う番になった。再び沈黙が二人を包む。アスカはゆっくり立ち上がると医師に背を向け、漆黒に染まる黒い鏡のような窓に己の姿を映し出した。

「もしも型が合う素材があれば、先生は手術が出来るのでしょうか?」

 医師は少し考え込んだ後短い返事をした。

「はい。私は海外研修が長かったので心臓移植も何例か立ち会い執刀もした事がありますから」

 アスカは暫く考え瞼(まぶた)を閉じては開き、やがて体を医師に向けると丁寧に頭を下げた。

「先生、一度私を調べて頂けますか?もし型が合えば手術をお願いします」――

 

 風間は眉間へ指先を当てじっと瞼を閉じた。アスカの鋭い眼光と漆黒に塗り込められた窓に映る白い電灯が瞼のスクリーンに映し出されていた。

「…それで私は早速蓮さんの適合検査を致しました。その結果…美鈴さんの今を見ればお分かりでしょう」

 霧島の顔が青ざめた。屋上でアスカと話した光景を思い出したからだ。

 ……アスカさんはあの時、既に心が決まっていたのだ。だから私に美鈴様を… …

 美鈴の小さな体は霧島の隣で震えていた。風間は穏やかに続ける。

「あの方は貴女だけではなく、自分の魂を救う為でもあると仰有っておられた。貴女には衝撃的だったでしょう。ですがこれがベストな選択だったのです」

 霧島が美鈴の肩を優しく撫でた。暫く重い沈黙が続いた。

 が、その静寂を打ち消す様に再び屋敷内の呼び鈴が鳴り響いた。霧島が立ち上がり玄関へ応対に出た。

「…君は誰かね?」

 玄関に突如現れ迎える白い軍服姿の男性に、老紳士は思わず警戒した。

「失礼致しました。私はこのお屋敷のご令嬢、美鈴様の知り合いです。驚かせてしまい申し訳ございません」

 霧島は反論する事をせず非礼を詫びた。紺の背広と細いボトムに身を包み、樫のステッキを軽く突いたまま眼前の男を見上げていた老紳士は、白い顎髭をひとなでした後、深々と頭を下げた。

「いや、此方こそご無礼を。私は松平雅恵の父親で松平幸助と申します。孫に…美鈴嬢に会いに伺いました」

「美鈴様の…どうぞ…」

 霧島の案内でリビングにまた一人来客が増えた。先客の 風間医師との挨拶を軽く各々交わした後、美鈴は新たに紅茶を淹れた。

「…では、風間先生はアスカさんの心臓を美鈴様に移植した、と仰有るのですか?」

 静けさに再び投石したのは霧島だった。美鈴は医師から手渡された手紙の封を手のひらに置き、幾度も封筒に描かれている蒼い薔薇模様へ視線を落とした。恐らく、この中身は自分に宛てた遺書なのだろう。それが分かるだけに今は封を見ているだけで胸が絞め付けられる。

「そうです」

 霧島の問いに風間医師は短く、しっかりとした口調で答えた。

「貴方はご自身が何をしたのか分かっておられるのか?我が国では生体心臓移植は認められていませんよ?」

「分かっています。私とて医師の端くれです。法律的な部分も含め最低限の医療知識はあると認識しておりますから」

「ならば話は簡単です。貴方を殺人容疑者として警察へ引き渡します」

 霧島は静かに立ち上がると風間医師の腕を掴み掛けた。その時、枯れ枝の様な、だが力はしっかりとした手が伸びて霧島の腕を振り払った。

「松平様…?」

「君はこの医師を警察に引き渡そうというのかね?」

「当然です。彼はアスカさんを…」

「だが美鈴さんはそうしなければ助からなかった。蓮さんはそれ程までに守りたかったのではないのかね?命を差し出しても美鈴さんを生かせたいと願ったのではないのかね?」

「…しかし!」

「私の娘は事業展開を広げる為に、世界中の罪なく病に苦しむ人の命を食い物にして様々な新薬の人体実験を繰り返した。鷹宮氏と一緒になったのも美鈴嬢がサンプルとして魅力的に映ったからだろう。…君は法律に違反しているから医師を警察に引き渡すと言った。引き渡すならそれも良い。だが私も引き渡せ」

「松平様の仰有る事はよく分かります。しかし法は法です。例外など簡単に認める訳にはいきません。私もこの帝国を守護する軍人の一人です。間違いを見逃す事は出来ません。現にアスカさんは亡くなったのです。違法な術式によって殺されたのですよ?」

 いつの間にか老紳士と霧島は向き合い睨み合っていた。互いに視線を外す事はなく緊迫した空気が辺りを張り詰める。

「法を守っていれば救える命もみすみす死ぬのを待つだけです。私は医者として最善を尽くせたと自信を持って言える。例え死刑判決が下ろうと、私は最後の瞬間も同じ事を言えるでしょう。…命を見捨てなければならぬ法を守るより命を守る為に法を冒そう。さあ霧島少佐、私を警察へ引き渡したまえ」

 すい、と二人の間に腕を伸ばす医師、それを止める老紳士。三人の動きを止めたのは先程から成り行きを眺めていた美鈴だった。

「アスカは私に命まで捧げて仕えて下さった唯一人の執事です。私の大切な執事です。彼女の心臓は今私の体で生きています。アスカは死んでいないわ。アスカが生きている証は私です。新薬の実験を繰り返されながらも私はこうして彼女と共に生きてるの。もしもそれが罪だと仰るなら、私がこうして生きている事もまた罪となるでしょう。警察に引き渡されるなら私も連れて行って下さい。ですがその前に教えて欲しい事があります。霧島少佐、貴方は法を冒して私の命が繋ぎ留められる事と、法に触れずに私が死ぬ事と、どちらをより喜ばれますか?」

「……っ!」

 霧島は言葉に詰まった。その胸中は今、軍人としての自分と人間としての自分が互いに葛藤を繰り返していた。霧島は既に理解していた。法は人の幸せを願う為に作られたもの、勿論、集団となれば組織としてより効率的に物事を運ぶ為でもあるだろう。だが今件についてはどうだろうか…。

「失礼…どうやら今日は日が悪かったらしい。また出直して参りましょう」

三人に背を向けると霧島は扉へと歩を向けた。が、それを潮時とばかり風間医師が鞄と上着を急いで取ると霧島の方へ体を向けた。

「霧島少佐、貴方にはまだ此処に残り、やらなくてはいけない大切な任務がございます。私の任務は終わりました。今日は失礼します」

 扉へと手をかけた足しの医師が顔だけ振り向いて一言添えた。

「ああそれから、もし警察へ出頭令が下ればいつでも参上致します。私はずっと病院におりますので。では」

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