第四十二話『お嬢様へ…』

 残された美鈴と霧島少佐、そして松平幸助の三人は暫くソファに身を委ねたまま、無言で各々視線を泳がせた。

 午後四時を知らせる古い柱時計の音がリビングまで聞こえた。

「私もそろそろ失礼しよう。霧島少佐と言ったね?あの医者を出頭させるならば必ず私も同行したい。だが、もし君に優れた理解力と人間らしい魂があるのならば、あの医師を許して欲しい。否、あの医師が本当に間違っているのか今一度君自身に問うてほしい。本当に悪なのは何なのかを…」

 松平爺はゆっくりと立ち上がると樫の木の杖を支えに扉まで歩を進めた。美鈴へ視線を向けると好々爺然とした穏やかな笑みを零した。

「何か困った事があったら何時でも言いなさい。それで娘のした事を償えるとは思えないができる限りの事はしたい。貴女は私にとって大切な孫娘だ。生活の事も何も心配しなくていい。これは連絡先だ」

 紙切れを一枚、見送る令嬢へ手渡すと老紳士は屋敷の玄関を出た。門まで続く冬枯れの木立から薄い葉が数枚冬風に巻かれ、やがてその葉に紛れて老紳士の姿も消えて行った。

 美鈴は祖父を見送った後、再びリビングに戻ると霧島は少しばつの悪そうな笑顔で令嬢を迎え、空になった紅茶カップをダイニングへと運んでいた。

「霧島様、お手紙を読んで来ますね。もう少しいらっしゃるのでしょう?」

「ええ。いつもの様に夕食をご一緒にしたいと思います。お手紙を読まれている間に何か作っておきましょう。どうぞごゆっくり」

 穏やかに微笑む霧島に小さく頭を下げ美鈴は自室に入った。ゴブラン織りの柔らかな椅子に腰を下ろし、丁寧にガラスのナイフで開封していく…。封と同じがらの蒼い薔薇模様の便箋はあの時の風景や風の香りさえ思い出される。

 そう、あれは一年前、アスカに強請(ねだ)って海へ連れて行ってもらった帰り道の事だった。美鈴の耳の奥で穏やかな潮騒が美しい旋律となって蘇る。

「ねえ、そこのお店の前で止めて下さる?」

 美鈴はとある花屋の前で降りた。花々が並ぶ店の一番奥に美しい蒼い薔薇が売られていた。それは目立つ店頭ではないが店内でそこだけが凛とした空気に包まれている様に見えた。美鈴はそれを束にしてもらい、車で待っているアスカの許へと戻った。

「お屋敷に飾るのですか?綺麗な薔薇ですね美鈴」

 目を細め、指先で優しく花弁を撫でながら品の良い香りにアスカは酔い痴れていた。

「海に連れて来てくれたお礼よ。蒼い薔薇なんて珍しいでしょう?まるで貴女みたい。燐として控えめだけど強い心を持った色…」

「有り難うございます。では執務室に飾る事と致しましょう」

 薔薇が枯れた後も、アスカは大切に花弁の1枚をドライフラワーにして手帳に挟み、肌身離さず持っていた事を思い出した。

 便箋と封筒に描かれた品のよい薔薇模様は、執事へ贈った花のように凛として強い心の花に見えた。

 美鈴が中身の便箋を開いた時、はらりと何かが膝へ落ちた。指先で拾い上げると、蒼い薔薇の花弁を貼り付けられた栞(しおり)。そう、彼女がずっと手帖に貼り付けていたあの花弁だった。

……あの薔薇、気に入ってくれたのね……

 蒼い薔薇模様の便箋には、青いペンで綴られていた。


『――お嬢様へ


 この手紙を貴女が今読んで下さっているのなら、あの危険な状態から脱して一年が経過している頃でしょう。

 まずは、何も告げずに貴女の前から突然姿を消してしまった私の身勝手をお許し下さいませ。

 貴女の心臓の鼓動は私の心臓の鼓動に変わり、きっと上手く働いてくれていると信じております。

 

 これは私が貴女に捧げる最後の愛情の証です。同時に、長きに渡る忌まわしき宿命からから解き放つ事の出来る唯一の手段なのです。

 

 私の体には鷹宮に抹殺された一条の血が流れております。。鷹宮への復讐を果たす事。それが私の家が代々受け継いできた宿命でした。その為に松平の屋敷に入ったのです。

 ですが、貴女をどうしても手に掛ける事が出来なかった。貴女を愛する程に憎悪が生まれ、憎む程に愛しさが増す。殺したい程に愛してしまう…。

 これでやっと私は全ての冷たい鎖から解放されて、貴女の命を繋ぎ止めながら私の魂も自由になれる。

 

もし叶うならば貴女の美しい黒髪を少しばかり小瓶に入れて海へ沈めて戴けませんでしょうか。そう、いつか行ったあの海に繋がる広い海へ…。

 私は貴女の美しい黒髪が大好きでございました。貴女の素直で、そして時折見せる小さな我が儘なご気性も大好きでございました。

 私が貴女に望む事は、貴女が笑顔で過ごされ、幸せになられる事。


 これからは、貴女が笑う時も泣く時も貴女の中で私の一部は生き続ける事でしょう。貴女の命は私の体が繋げ、貴女の幸せは私の魂を救う事でしょう。

 そして貴女は貴女の道をご自分の足で歩むのです。もし、心が折れそうになった時には薔薇の栞に願いを掛けてご覧なさい。私は貴女のお心の傍にいつも控えております。


 クリスマスキャロルが遠くから聞こえて参りました。貴女が手術室を出る頃には、私も空からクリスマスキャロルを贈りましょう。

 静かな眠りと、これからの幸せを祈って…メリークリスマス。


                              ――蓮飛鳥』

 

手紙に記された名も『アスカ』ではなく『飛鳥』と記されていた。

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