第二十話『剣交』

 松平邸の執務室。

 書類を繰る音と共に部屋を包む珈琲の芳醇な香り。夕暮れの窓から注ぐ淡い紅。それに映る影が長く絨毯に落ちた。

 影の主はデスクの上でパソコンを操作しながら何やら考え耽り、書類へ全て目を通した後ノートパソコンを閉じ燕尾から携帯を取り出すと早速霧島少佐へ電話を掛けた。

「蓮です。資料を送って頂き有り難うございました。しかし流石諜報部…これだけの情報をよく集められたものですね。改めて本営の情報網に感心致しました。これほどの短期間に調べるなど私一人の力では不可能ですから」

「いえ。執事さんから提供された情報を元に調査をしたものです。貴女の人脈の広さにも感心致しますよ。全く…貴女は謎の多い方だ。英国の執事学校を卒業するとどれほどの実力者達と繋がりを持てるものなのでしょうか」

「意図してそうなったのではありません。唯、私は一期一会の心持でその時、そのお相手様と大切な時間を共有させて頂いた、それだけでございますから」

「それにしてもどこの世界でも女性の力とは強いのですね。殊に重大な決定権を持つ妻や令嬢は、男性陣を巧みに操作出来るという術を持っておられる。その裏で貴女が人脈を繋げているのも矢張り女性の力、なのですから」

「貴方には適いません霧島少佐。本気を出されれば私などあの時串刺しにされていたでしょうから」

 あの蔵での出来事を忘れる事は出来ない。数日前、蔵での少佐とのやりとりがふとアスカの脳裏を過ぎった。

 

 ――銃撃戦を免れて暫く互いにけん制し合ったその後、霧島少佐は突然腰に挿した軍用の剣をアスカに差し出した。

 霧島は倉庫の中にたまたまあった剣術用の古いサーベルを丁寧に吟味しながら数本の中から一本を抜き取った。恐らく、昔家人が護身の訓練用にでも使用していたものだろう。その剣先の刃は欠けて少し錆びていた。

「貴女の腕をとくと拝見したい。執事学校では正式な剣術も学ばれていたとか。…そうですね。折角ですから何か賭けましょうか」

「私が貴方を不法侵入で差し出す事を、ですか?」

「もし私が負ければそれでも構いません。但し、私が勝てば美鈴様を頂きます」

「………っ」

「薄々感じていました。貴女の美鈴様に向ける眼差しは主従関係を超えているという事を」

「何を言っているのですか?私は女なのですよ?」

「恋愛に性差など必要でしょうか?惹かれる人間同士がたまたま同じ性であったとしても何の不自然な事ではない。そしてその恋敵が異性であっても不自然な事ではない」

「では、互いに負ければ諦めるという訳ですね」

「そういう事です。貴女が勝てばご令嬢から身を引きましょう。そして貴女が私を不法侵入として松平邸の主に差し出すならばどうぞご自由に」

「しかしながら、貴方は大変な失態を冒した事になります。私には刃のついた剣を渡され、ご自身は訓練用の刃のない剣…これでは貴方の方が不利になりますよ?それとも、余程剣術に長けておられるとか?」

「私は軍人ですし男ですから一応手心を加えたつもりです。ですが手加減は致しませんよ?貴女の剣はこの訓練用の玩具と違って人を刺す事が可能なのですから」

「…その『手心』とやら、後悔する事になりますよ?」

 互いに剣を構え相手を見据えた。冷たい湿った空気が辺りを包み込んだ。小さな窓から射す陽光が頼りの明かりだが、こういったやりとりは、視界のみならず空気の揺れや相手の息遣いを感じながら交わすものだ。

 その空気を最初に切ったのは霧島だった。霧島は軍隊仕込みの切り込み方で真上から刃を振り上げ勢いよく宙を斬りながら真っ直ぐ…ではなく斜めに落とした。アスカはその剣先に動じず、その勢いを利用して相手が剣先を落とすまでタイミングを見計らい、落ちた瞬間を狙って剣を重ねた。

 鋭い金属音が天井へ向けて高い音を立てたかと思うと、青白く小さな火花が双方の剣に散った。二つの剣先が捻る様に絡み合った。

 アスカはゆっくりと剣へ重心を掛けながら背後に回ろうと体を相手の利き腕と反対側へ素早く進めた。が、霧島もそれを予測していたのだろう。アスカが左横へ一歩引いたのを見過ごす筈もなく、少し体を傾け、まるで虫でも追う様に軽くその剣を振り払うと、低い位置からそのまま水平に刃を滑らせた。

 その時、アスカの右肩へ霧島の剣先が一瞬掠めた。暫くして燕尾の袖口から覗く白いシャツの袖口から細く、赤い糸状に伸びた血が執事用の手袋を染めていった。肩の傷口から流れてきたのだろう。だとしても軽いものだろうが…。

 ……刃の無い剣でこれほどの腕とは。もしもこれが刃の付いた剣であったなら腕を切り落とされていたかもしれない……

「……っ」

 が、振り払われた剣を落とす事なく、霧島の肩へ手を借りて低い塀でも超える様に屈強な少佐の体を身軽に飛び越え背後に回った。

 その儘すかさず剣先を霧島の首筋に宛てがいながらも。右の袖口からはまだ生温かな血が細く流れていた。

 霧島は、身長差のある頭一つ分高いところから振り返る事なく小さな溜息を吐いた。

「成る程… かなりな腕ですね。負けましたよ。しかし惜しい。それほどの剣を振るえるならば是非我が軍にお迎えしたいところです」

「此処を首になったら改めて頼る事に致しましょう少佐。その折には宜しくお願い致します」

 アスカは剣を収め、霧島の前に回ると丁寧に頭を下げそれを返した。

「…!怪我を。すぐに手当をしなくては」

 霧島は剣を受け取るよりも先に、血に染まる右手首を掴もうとした。が、アスカはそれを振り払い優しく制すと、血に染まる手袋を内ポケットに収めた。

「直接刃は当たっておりません。今見ましたら右肩の上着の生地が一文字に切られた跡がございました。恐らく刃を掠めたのでしょう。大した怪我ではございません。それよりも、そんなに古い錆びた剣で夏用の薄い生地とはいえこうも鮮やかに切り裂くとは…貴方はやはり腕の立つ軍師であらせられる。『手心』のお蔭で命拾いを致しました」

「では…ご令嬢は貴女にお任せ致しましょう。執事さん」

「いえ。お嬢様のお気持ちも考えず二人で勝手に決めてしまう事は快く思いません」

「では、何か利になるものがあれば…」

「有り難うございます。先程、霧島様から伺った当財閥の人体実験についてこのまま調査を続行頂き、その結果を私に提供して頂けますでしょうか。それが此方の望むものです。無論、貴方からの情報を密告したり、裏で逃げ工作を講じようなどという目的はございません。その件が真実か否か、もし真実であれば貴方と同じく、私もお嬢様をお護りしたい」

「どうやらご賛同頂けたという事のようですね。畏まりました。では早速本格的に調査を進めさせて頂きます。貴女の協力も必要となりますが宜しくお願い致します。当面、私はこの屋敷に脚を踏み入れない事に致しましょう。万が一誰かに勘ぐられないとも限りませんから。特に社長はよく邸に戻られる、との事ですし」――

 

 ……あの時、少佐が調べていた事は後日届けられた調査報告により真実だと分かった。嫌疑などてっきり唯の噂かデマだと軽く見ていたのだが。まさかこんな面倒な事が舞い込むとは計算外だった…… 

 電話の向こう側で霧島が幾度か名を呼ぶ。その声で現実に引き戻され少し慌てて返事を返した後電話は切れた。

 それからというもの、霧島少佐は電話でアスカに告げた通り、調査の間は暫く屋敷を訪ねる事はなかった。が、執事には随時彼の部下、或いは霧島本人から報告が届いていた。そんな折、アスカは決定的な瞬間を押さえようとある計画を企て霧島に協力を仰いだ。

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