第十六話『逢瀬』
「困ります。どうかお引き取り下さいませ」
ある日の午後、玄関ホールでメイド長が何やら困惑した声を上げている。彼女の前に立つ霧島晃児少佐はかぶりを振りながら、なおも距離を縮めて問い質(ただ)した。
「何故ですか?ここ一ヶ月間ずっと門前払いを喰らっています。勿論、無理に押し入りは致しませんがせめて理由を教えて下さっても宜しいでしょう?」
霧島少佐もまた困惑した表情でメイド長へと視線を向けた。手には美しい薔薇の花束を携えて…。
「ですから、先程も申し上げました通り困るのです」
「貴女が困っておられるのですか?私は貴女に会いに来たのではない。美鈴様に会いに来たのですよ?」
「ですから!お嬢様が…」
「美鈴様が私の訪問をご迷惑である、と仰有ったのですか?」
「それは…とにかく!もうお越しにならないで下さいましな」
とうとうメイド長の口調は鋭いものとなり、はたと彼女は指先で口許を押さえると付け加えるように小さな声で、「とにかく困るんです」とだけ言った。
「分かりました。では美鈴様に直接会わせて下さい。彼女の口から何故私の訪問が迷惑であるのかお伺いしたい」
姿勢を正すと止めるメイド長を振り切りずんずんと令嬢の自室がある二階へと階段を昇り始めた。慌ててあきらが止めに入ったものの、平素軍隊で鍛えられている霧島の力に敵う筈もない。二人は顔を見合わせながらばつの悪そうな視線を無言で交わし、少佐の白い背を見送った。
「美鈴様、霧島です。お話があります。入っても宜しいでしょうか?」
扉へノックを落とすと同時に霧島はもどかしそうな声を掛けた。中から返事が返ると扉を勢いよく開け中へ入った。
「まあ!霧島様…お出で下さったのですね。ここ一ヶ月間ずっとお目に掛かれませんでしたけれど…お忙しいのですね」
歓待の声に霧島の緊張していた表情が緩む。間もなくメイド長が茶の準備を始めたがその手つきはどこかぎこちなくよそよそしい。
「どうぞお構いなく。お茶を飲みに来た訳ではございませんから」
霧島はメイド長へ言い放つと人払いを促し、車椅子に背を預ける令嬢の視線の高さとなるように膝を突き小さなその手を取った。
「長くご無沙汰しておりました。実は、幾度もお屋敷には脚を運んだのですがどういう訳かいつも玄関先で門前払いを受けていたのです。先程もメイド長殿から同じように扱われましたが…伺えば、美鈴様が私を迷惑がっておられる、との事。もしそうであれば正直に仰有って下さい。ご迷惑を掛けてしまっているならばどういういきさつでそうなったのか、私は理由を知りたいのです」
みるみる令嬢の顔色が蒼くなってゆく。小さく震え次第に俯くとゆっくり顔を上げた。瞳には今にも溢れそうな程に涙が浮かんでいる。霧島は思わず手を伸ばし優しく頬を撫でた。
「美鈴様…?」
「…知らない…知らないわ。私は貴方がお越しになるのを毎日心待ちにしていたのですもの。使用人達に聞いても貴方の訪問について何も教えてくれなかった。ですから私、てっきり貴方がお忙しいのだとばかり…。ずっとお目に掛かりたかった。…ごめんなさい霧島様。使用人達が大変ご無礼を致しました。私が知らずの事とはいえ…本当に申し訳ございません」
項垂れたまま細い体を折れそうな程に屈ませた。溢れそうになっていた涙はとうとうその白い頬を伝い、ぽたぽたと淡い緑色の薄いレースをあしらった夏らしい涼しげなワンピースの裾へと、まるで先日まで降り注いでいた初夏の雨のように何粒も落ちた。霧島は頬へ手を当てたまま指先で優しく涙を拭う。
「いいえ。いいえ美鈴様。どうぞその謝罪は取り消して下さい。貴女が私を待っていてくれていた…それを知れた事で私には十分です。私も…貴女にお会いしたかった。一日千秋の思いで毎日貴女を想い、案じて心に留めない日は一日もなかった」
「霧島様…。お願い…これからもこうして、時々私に遇いに来て頂けますか?」
令嬢の言葉と同時に、少佐の腕が小さな頭を包み込み幾度も綺麗な黒髪を撫でた。
「ええ…ええ!勿論です。いえ、私こそ貴女とこうした時間を毎日でも持ちたいと願っているのですから」
夏の陽光がレースカーテンから淡く降り注ぎ、二人を柔らかく包み込んだ。
「迷惑だと思われてなくて、本当に良かった…しかし、何故急に家の皆様は私を迷惑だとか、美鈴様の気分が優れないとか口実を付けては門前払いをしていたのでしょうね?何か悪い事でもしてしまったのかな」
少佐は指先を顎に当てながら思案顔を作った。
「そういえば、先日霧島様が訪問して下さった際、執事のアスカから早々にお引き取り頂いた事を伺いました。だから私、もう一度お呼びして下さいとお願いをしたのです。でも聞き届けてはもらえなかった…本当にごめんなさい」
「ええ。そんな事もありました。ですが美鈴様が謝る事ではございません。これは私の勝手な思い込みに過ぎないのかもしれませんが、あの方は元々私にあまり良い感情は持っておられないようにも思えますから」
少佐はこれまでにも執事が自分に時折向ける冷たい眼差しを感じていた。そして霧島の心に何時しか不穏な想いを抱かせていた。
……此処の使用人達も執事もどこか美鈴様に冷たい……
霧島と令嬢が執事の噂をしていた頃、屋敷の外門から黒い車が静かな音を立てて邸内の駐車場へ入って行った。車から降り立つ紺燕尾に包まれた長い影。その影が駐車場から屋敷へ向かう。丁度、前庭に差し掛かった時、ゆっくりと立ち止まり二階の窓へと視線を仰いだ。
……そういえば、初めて此処に来た時も、庭先の秋桜を愛でながら二階の窓を見上げたものだ……
視線を仰いたアーチ型の窓。揺れるレースカーテンの向こう側で白い背中が見えた。その隣には見慣れた車椅子の影。白い背から伸びる腕が座面に委ねられている小さな頭部へと幾度も落とされているように見えた。
「…やはり今日も来たのか」
音を立てぬ様に、そっと金属製の猫脚型の取っ手に手袋超しから指先を絡めて木製の扉を開いた。一瞬ドアベルが可愛い音を立てそうになったが手でで押さえて沈黙を保った。執事の気配に誰も気付く事はないだろう。メイド長が玄関のある一階ではなく令嬢の部屋に入っているなら尚更だ。
「あの…そろそろアスカさんが戻りますから」
メイド長が困惑した表情で霧島の退室を促した。少佐は立ち上がり小さく溜息を突くと、令嬢の頭を優しく包み込みそっと耳打ちをした。
「また伺います」
小さな頭から腕を外すと少佐はメイド長と共に部屋を出た。メイド長が霧島の後に付き恭しく礼をとろうとした。
「お見送りは結構。一人で帰りますから」
どうやら帰るところらしい。鉢合せをせぬ様に執事は外に出て木陰に身を潜めた。夏の熱気の中、木陰に入れば涼やかさに包まれた。
霧島は颯爽と玄関から庭に出た。 が、来賓用の駐車場にも、また門にも向かわずに反対側の細い道へと向かって行った。小道は屋敷の奥まで続いておりなだらかな下り坂になっていた。坂を下ると道なりに少し右に折れ、木々に鬱蒼と囲まれた古い蔵が見えた。霧島は坂道を下るまでは辺りを警戒していたが、下った後は足早に歩を進めた。どうやら蔵へ向かっているようだ。
……矢張り蔵へ向かったか……
前回霧島が訪問した時、見送ろうとする執事を柔らかく制して断った。その仕草は不自然さを感じさせていないつもりだったのだろう、だが、アスカは何か違和感を感じてそのまま後をつけた。辿り着いたのは蔵で、中に入れば手の一つでも掴み警察へ突き出そうかと思ったが、その時霧島は蔵の周りを幾度か歩いただけで中には入らなかった。中の様子を伺っている風にも見えた。
……今日こそ何か動きを見せる筈だ……!
木陰に身を潜め霧島へと向けられた紫の瞳の奥に鋭い光が走った。
……蔵で一体何を探ろうというのか?……
アスカは注意深く気配を消すと、裏道から先回りをして待ち構える事にした。
夏の風がひぐらしの音を運び、やがて訪れる夕刻を知らせる眩しい光が銀の髪に反射して一瞬純白に染まった。
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