第十七話『対峙』
やがて木々に囲まれた敷地の隅に古い大きな蔵が現れた。
白い壁は長い時間の経過からか所々茶褐色に変色しているが、屋根瓦は毎年葺き替えている為か艶やかな藍色が綺麗に並んでいた。
霧島は辺りに人の気配が無い事を確かめた後、慎重に重たい扉を開き中へ入った。
蔵の中は暗く、光を取り入れる為の丸い小さな窓が一つあるががその窓は割れていた。風穴だけになった丸い穴から仄かな灯りが射していたが尚暗い。だが、仄明るさだけでも軍で夜目を鍛えられてきた霧島には十分すぎる程の明るさだった。
……さて、早速仕事に掛かろうか……
霧島は身を屈め、だが決して辺りへの注意を怠る事なく何かを探り始めた。
「そこで何をしている」
霧島の背後で声がした。慌てる事なく背を向けた儘ゆっくり立ち上がった。声の主が聞き馴染んだ女執事であると分かったからだ。
霧島の首筋に冷たい銃口が宛てられ、それを払う事もせず静かに背後の女執事へ声を掛けた。
「これは執事さん。気配を消されているので気付きませんでしたよ」
「貴方程の方に気配を感じさせなかったのでしたら、私が執事学校で受けてきた訓練も無駄ではなかった、という事でしょうか」
割れた小さな窓から蝉が一匹入りこんだのだろうか。ミンミンとけたたましい声を上げると、再び夏の日差しへ飛び去って行った。飛び去り間際、蝉の小さな影が暗い床に落ちた。 冷たく湿った空気が辺りを包み込む。
「霧島様が幾度目かにいらした際、この蔵へ立ち寄られましたね?以来、貴方様がいらっしゃる度に玄関先のみでお断り申し上げ、尚且つ駐車場までお見送りをさせて頂いておりました。。そして車が屋敷の門を出るまではそこから離れる事はございませんでした。私も屋敷を護る義務がございます。一体ここで何を探ろうとしておられるのか。事と次第によってはただでは済まされませんよ?」
勿論本気で撃とうなどとはアスカも思ってはいない。尤も相手が応じてしまえば話は別になるだろう。が、今のところは…。
ひんやりとした空気が漂い、割れた窓から時折吹く夏の風は涼やかでより蔵内を冷たくした。霧島はゆっくり両手を挙げたまま、執事へと体を向けた。
「まずは、貴族としてあるまじき無礼どうぞお許しを。ですが、これはあくまで任務であり軍よりの命令によるものである、という事をご理解頂きたい」
霧島の表情が鋭い軍人のものに変わり銃を構える執事の手を柔らかく制した。
「軍の任務?ならば堂々と命令書なり調査協力を求める書状をご提示なされば宜しいでしょう?こんなこそこそと泥棒の様な真似をなさっておきながら『軍からの命』とは言い逃れにしか聞こえませんよ?」
手で制されるも銃口は向けたまま、感情籠もらぬ静かな声でアスカは返した。
「極秘で行われている調査ですから…と言っても、貴女に見つかってしまったならお話致しましょうか」
霧島は白い夏服用シャツの懐から茶封筒を一つ取り出すと中から書状を取り出して見せた。そこには『軍本営極秘任務通達書』と厳めしい文字が書かれてあった。
「これは今回私に通達された命令書です。。松平コンツェルン社長松平雅恵殿に嫌疑が掛かっているのです。詳しくは申し上げられないが此度は軍と警察による共同調査、という事になりました」
「嫌疑?どのようなものでしょうか?」」
「大規模な人体実験…それもあろう事かご令嬢美鈴様も含まれている、という事です」
「奥様はお嬢様のお母上でいらっしゃるのですよ?親が我が子に人体実験など…確かにお嬢様は先天的な心臓の疾患をお持ちですから、医薬品や医療機器を扱う会社であれば、快方へ向かわせる為に新薬などを与える事はあるかもしれません。ですがそれを人体実験だと仰有るのであれば、世間で密に行われている治験はどうなるのですか?それこそ公然たる人体実験ではありませんか」
「治験は厳しい決まりの許によって行われます。件の人体実験はサンプルを募っているものではなく特定の疾患を持つ患者に強引な取引きを迫り、サンプル数を増やしては実験を繰り返している。中にはまだ未開発な薬剤により重大な副作用を引き起こし廃人同様となった者や、最悪死に至らしめたという事例もいくつか報告されているのです。それが問題なのですよ執事さん。私はその事実を明らかにさせる為に資料をこうして集めている、という訳です。貴女にとっては大切な雇い主でしょうが、美鈴様の専属執事でもあるならば、彼女の身をお護りする事こそ大切な任務なのでは?」
霧島は、見せた事のない堅く厳しい表情を向け一歩執事へ距離を詰めた。
「お嬢様に近付いたのもその為ですか。彼女がこの事を知ればどんなお気持ちになるでしょうね。貴方を信頼し尊敬しているお嬢様は…」
霧島の表情が瞬間険しいものに変わった。
「違う。私は美鈴様をお慕いしている。彼女への気持ちが高まれば高まる程に今件から何としてもお護りし救い出したいと思ったのです」
その時一発の銃声が蔵内に響き渡った。勿論離れている為本宅にまでその音が届く事はない。
外で一斉に鳥が羽ばたく音が微かに聞こえた。
宙へ伸ばしたアスカの腕の先に握られた銃口が、割れた窓から射す陽光で妖しく銀色に光った。辺りに硝煙の匂いが立ち込める。
「言いたい事はそれだけですか?霧島様。何れにせよ我が邸に入り込み不審な動きをした件については許される事ではございません。仮にその目的が真実であったとしても松平の家に仕える私にとっては屋敷を護る義務がございます。それが松平様の機密事項に触れるものであれば尚更…。それでもお調べになる、と仰有るならば此処で貴方の屍を作らねばなりません。…今度は天井に穴を開ける程度では済まされませんよ?」
まっすぐ銃口を少佐に向けた刹那、素早い動きで霧島は自分の銃を抜こうとした。が、その指先を掠めるように執事の放つ銃弾が彼の動きを止めた。
「…っ!」
「貴方程の軍隊仕込みはございませんが…一応銃剣の基礎訓練程度は身に付けております。尤も、猫一匹も殺せぬ程度の腕前ではございますが」
「成る程。私も生憎山鳥一羽仕留める事の出来ぬ程度の腕でしてね」
霧島は両手を開き、アスカも銃を下ろした。互いに距離を詰め顔を付き合わせる。
「それならば互いに怪我をする可能性がございます。銃撃戦は見送りましょう」
「同意見ですね。互いに命あっての物種、でしょうから」
蔵に射す光がアスカと霧島の長い影を照らす。二人の間ではまだ視線で、全身でけん制し合っているのがわかった。だが銃を此の儘手に留めておく訳にもいかず、アスカは安全装置を落して懐へ収めた。
「それにしてもいい銃をお持ちですね。護身用とはいえそれほど重い銃を女性が扱うのは大変でしょう?」
「いえ。一応訓練にも使っておりましたから手に馴染んでおります。私が買ったものではなく、卒業時に配られたものですが」
「学校で配られるのですか?」
「はい。卒業試験で銃剣のライセンスを取得しなくてはならないのです。私の居た期で不合格者はおりませんでしたが、全員で卒業出来ない期も珍しくないそうです」
霧島は感心した様に溜息を吐くと何やら楽しげに笑った。割れた小さな窓から一筋の光が彼を貫き、その伸びた光の矢がアスカの肩から足元まで伸びた。
静寂の中、涼やかな風と共にひぐらしの音が夕暮れを告げ始めた。
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