第十八話『宿命の起動』
蔵での一件以来、暫く霧島の訪問は無くなった。
令嬢は毎日のように、夏の陽光を眩しく受けた噴水の飛沫を窓から眺めては溜め息を吐いていた。
そんな令嬢の気持ちを察して、アスカは出来るだけ頻繁に彼女の部屋へ脚を運び、話し相手になるよう努めていた。
夏の日差しが幾分か柔らかい光に変わる頃、初秋を迎えた屋敷の敷地にある果樹園では葡萄がたわわに実り収穫の時期を迎えた。
毎年この季節になると収穫した葡萄で自家製ワインを貯蔵する習慣がこの屋敷にはあった。今年も例年同様に桧(ひのき)の樽に詰められた葡萄の実は数年間熟成され良質なワインとなる事だろう。あきらは自信たっぷりにアスカに言った。
「どうです。今年も良い実が付きましたよ。きっと良質なワインが出来ますよ。勿論、ワインだけでは勿体ないのでデザートとしてもお出ししますが」
ワインの熟成に最低どれほど掛かるか知らないが、少なくとも一年後にあきらがこの実で作ったワインを口にする事はないだろう。
彼だけではない。この屋敷に仕える使用人達はワインの完成を祝う事はできないだろう。…執事以外は。
アスカはあきらの傍らで薄い笑みを向け、「楽しみですね」と短く答えた。
アスカが与えられている執務室にはここ最近、誰の入室も許していない。それ故に部屋には書物や書類が雑然と積み上げられていた。
中には埃を薄く被った古い書物もある。それらは一見雑に積まれているように見えるがアスカが分かる様に整理されていた。
一番上に積まれた書物を手に取ると数ページ指先で繰ってゆく。やがて目当てのページに辿り着くと、指先を止め、視線が紙面を素早くなぞる。その動作を幾度か繰り返し、時折パソコンのディスプレイへ視線を向けた。
どれほど経過したのか辺りは茜の色に染まり始めていた。
傍らに読み終えたと思われる書物が二冊ほど積まれ一つ溜め息を吐く。燕尾服に袖を通し懐の懐中時計を確認した後、切れ長の瞳が瞬間冷たい笑みを浮かべた。
「やっと…やっとこの時が来たか」
肩が震え口許が上がり、くぐもる黒い笑いが喉から溢れ出した。
夕餉の支度に追われているメイド長と、メイド見習いのスミレに労いの言葉を掛けるとアスカもダイニングに立ち彼女達を手伝った。
漸く作業が落ち着いた頃、使用人が揃い僅かな休息時間に入り茶を囲む。
タイミングを見てアスカが立ち上がると三人の顔が一斉に集中するだろう。そのまま穏やかさを保ちながら注目する一人一人の顔へ視線を向けた。
「明日からこの屋敷の主が変わる事になりました」
一瞬、何の事か理解を示せない様子の三人を眺めるとそのまま言葉を続けた。
「明日から私、蓮アスカがこの屋敷の主になるのです」
一瞬静まり返った後、騒然とする使用人達。メイド長が訝(いぶか)しげに問いかける。
「主とはどういう意味かしらアスカさん?今あなたはこの屋敷を取りまとめる立場にありますが、そういう意味なら…」
「取りまとめ役は今後もさせて頂きますよ。…この屋敷の主として」
「あなたはこの屋敷を…ご主人様を裏切るというのか!屋敷を乗っ取るおつもりか?」
あきらが勢いよく立ち上がり、それを柔らかな動きで制するとやはり穏やかに答えた。
「乗っ取りなど致しません。私は正当なやり方でこの屋敷を手に入れたのです。あきらさん、残念ですがあなたが楽しみにされていたワイン…どうやら私だけ完成を祝う事になりそうです」
水を打った静寂が包み暫く四人は茶に口を付けず動かなかった。
初秋の夕暮れは濃い茜色に染まり、燃え立つ炎の如くダイニングの片隅を照らした。
紅蓮の炎…そう、いつか皆様にお話した一条の屋敷が最期を迎えたあの日に染めた炎にも似て…。
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