第十五話『奪われた友人』
松平邸に今現在住む唯一の家人は令嬢美鈴のみである。
彼女は先天性の心臓疾患を持ち、幼い頃より身体が弱く、風邪をこじらせたり流行ウィルスに感染しやすい体質であった。
歩行は出来るが服用している薬剤により疲れやすく、また長く起きていると貧血を起こし易い体質でもある為に車椅子での生活を余儀なくされている。
これまで、十七年間生きてきた人生の殆どを使用人達に囲まれて一人で過ごしてきた。
彼女には友人と呼べる者も心を通わせるペットすら居ない。
幼少の頃より家庭教師が付き学校へは行った事がない上に、動物は特有の菌を持つ為に主治医から飼う事を止められているからだ。
ずっと一人で屋敷に籠る彼女の心を豊かにしてくれるもの…それは読書だった。物語の中に入りその世界を楽しんだ。
また、画集や美しい風景を収めた写真集などを開いては、その瞳の奥に焼き付けて、今自分がその場所を訪れ、触れ、耳の奥で音まで聞こえている様な想像の世界を楽しんでいた。
だが、どんなに胸躍らせる物語を読んでも、どんなに素晴らしい画集を見ても、またどんなに美しい風景や自然が描かれた写真集を開いても、表紙を閉じれば現実へ引き戻され、目の前の薄明るい部屋と鏡に映る痩せた自分の姿 に小さく溜息を吐いた。
そんな長く孤独と静寂の時間を過ごしてきた令嬢の前に現れたのは、まさに彼女が描く王子だった。霧島晃児との出逢いは彼女にとって此までにない幸福感と、高揚感を抱かせた。
「あの方はどんな色がお好きなのかしら。どんな小説を好まれるのかしら。どんな音楽に心を癒やされるのかしら。毎日どんな事を思いながら過ごしているのかしら」
彼女の唯一の『友達』に語りかける。
幼い頃、病床の苦しい中で父親が与えた『友達』はポアロと名付けられた。
ポアロは、ふわふわとした手触りの良い身体に、円らな瞳が愛らしい真っ白な熊のぬいぐるみで、父親が毎日の様にベッドで生活を送る娘の為に、仕事でイギリスへ赴いた際に買い求めたものだった。
「さあ、これは美鈴のお友達だ。名前はポアロ。今日から話しかけてごらん?寂しい気持ちもポアロが慰めてくれる。大切にするんだよ?」
ポアロは父親の願い通り愛娘の『友達』となり、令嬢は毎日のように語りかけていた。今もそれは続いている。
「ねえポアロ?よく物語の中だとヒロインが男性に恋をするじゃない?私ね、霧島様の事はとても素敵だと思うし好感は持っているの。でもね…それが恋愛と呼ぶのかどうかまだ分からないわ。あなたはどう思って?」
優しく愛らしい友達の瞳が相談を持ちかけた彼女の瞳に映る。物言わぬ友人に令嬢は嬉しそうににっこりと微笑んだ。
「そうね…あなたにも分からないわね。だって私もあなたもまだ恋愛なんてした事が無いのですもの。…ふふ。いいの。あなたが一緒に居てくれて、こうしてお話を聞いてくれる事が私には一番の慰めになっていてよ?あなたは私の親友…親友はずっと一緒なの。だから離れないで、ね?」
令嬢は柔らかなポアロの体を優しく抱きしめた。何処か懐かしい香りに目を細め黒く小さな鼻先へキスを落した。令嬢にとってポアロと過ごす時間が一日の内で最も幸せな時間なのだろう。誰にも見せた事のない少女らしい笑顔が自然に溢れた。
「お嬢様、アスカでございます」
ノックの音にそれまでの穏やかな微笑みは消え、親友をベッドへ乗せると丸い耳元へ唇を寄せ「後でね」とだけ呟き、無自覚に無表情を扉へ向けた。
「お嬢様、お話がございますが少し宜しいでしょうか?」
紺の燕尾に身を包むこの長身の女執事は何処か冷たく掴み所がない。
……同じ女性でも、この人は誰かを好きになる事はあるのかしら……
ふと令嬢は想いながら、少し緊張気味にベッドへ腰を下ろしたまま小さく頷いた。
「はい。何でしょうか?」
白いワンピースの裾を綺麗に整え座り直すと姿勢を伸ばした。
「先程、霧島様がお見えになられました」
「まあ。霧島様が?今日は…お急ぎでしたのかしら。いつもならお茶をご一緒に…」
「特にご用は無い、との事でしたのでお引き取り頂きました。勿論、お茶はお召し上がり頂きましたのでご無礼な事は致しておりません」
「え?引き取らせたって…追い返したという事?」
「いいえ。追い返したのではございません。本日は特にご用など無い、と仰有ったので早々にお引き取りを願ったのでございます」
「何という事を…きっと私に会いにいらしたのでしょう。もう一度お呼びして」
黒く大きな瞳を更に開き、慌てた様子で令嬢は執事と窓の外と交互に視線を向けたが、表情一つ変えず執事は話し続ける。
「お嬢様、僭越(せんえつ)ながら…霧島様は単にお嬢様とお遇いになっているようには見えません。彼も年頃の殿方でございます。ここ最近、ご様子を見ておりましたが、お嬢様へ向ける視線や仕草は、お茶を共にするだけのご友人という域を超えておられるように思えます。お嬢様は松平家の大切なご令嬢であらせられます。万が一間違いでも起こりましたら大事になります。それ故に、暫くは霧島様のご訪問、及びお嬢様との交流を控えて頂く事と致しました」
「貴女が…貴女がそれを霧島様に言ったのですか?それはこの屋敷で決まった事でしょうか」
「然様でございます」
「でも、メイド長からは何も…。屋敷で決められた事ならメイド長からお話がある筈ですが…」
焦りの表情を執事に向けながらも珍しく令嬢は苛立ちを見せた。
「その件でございますが、本日より屋敷を取り仕切るのは私、蓮アスカが一任されました。私の言葉は屋敷主様の言葉だと思し召し下さいます様…これは奥様からの命でもございます」
令嬢の瞳が驚愕の表情を浮かべた後、落胆と絶望にも似た色に変わり、瞳の奥がゆらりと揺れた。何か言葉にしたいのだろう。口許を幾度か動かしていたがそれが言葉になる事はなかった。
「そう…お母様が」
漸く出た言葉は呟く様な声。その小さな声は執事の燕尾に吸い込まれた。
「メイド長には引き続き屋敷で働いて頂きます。今後は、この屋敷の事は全て私の許可が必要となりました。勿論、ご主人様や奥様へご意向を伺う為でございます。私の一任のみで決まる事はございませんのでどうぞ誤解無き様。それから…」
紺色の細い袖口から伸びる清楚な手袋をした手。その手がベッドの上で行儀よく座っている白い熊のぬいぐるみへと向けられた。
「この様なものはご不要でございましょう?もう子供ではないのですから。これは暫く預からせて頂きます」
普段滅多に感情を露わにしない令嬢の表情がみるみる青ざめ、そして苛立ちと哀しみの表情を執事に向けた。
「返して!それは私の大切なものなの。お父様が買って下さった大切な…」
「これ程に汚れたものをお部屋へ置いておく事は不潔でございます。それに貴女はもう子供ではないのです。これは私が預かります。宜しいですね?」
有無を言わさぬ執事の言葉に令嬢はただ俯くのみ。肯定とも否定ともとれぬ程度に首をなんとなく動かして見せた。
「お話は以上でございます。では失礼を致します」
冷たい声が耳を通り過ぎてゆく。扉まで歩く革靴の音が絨毯越しに鈍く響いた。
と、執事の靴音がぴたりと止まり思わず令嬢が顔を上げた。紺燕尾の背が冷たい冷気を漂わせている様に見え、抱えられた白い友人の目が肩越しから見えた。執事は振り向きもせず扉の前で立ち止まったまま静かに言葉を付け加えた。
「そうそう…大切な事を忘れておりました。私は同じ事を二度以上言葉にする事は快く思えない性質でございます。どうぞ今後ご理解の程を…では」
令嬢が何か言おうとするよりも早く扉から長身の影が消えた。慌てて扉へ手を伸ばしてその影を追ったものの小さな身体は膝からゆっくりと崩れた。
……何もかも失ってしまった…もう何もかも…私は此処に居て、まるで鳥かごの中に居る怯えた小鳥の様……
両腕で細い肩を自ら抱きしめると、涙がぽたりと絨毯に落ちた。やがてそれは足下へ冷たい雨を降らせ、暫くは黒い暗雲が令嬢の部屋を支配していた。
丁度その時、窓の外にも夕立を知らせる黒雲が雷を引き連れて上空に広がり始めていた。
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