第三十二話『初めてのデート』

 親友が手許に戻ってから数日、令嬢は漸(ようや)く落ち着きをとり戻した。

 霧島少佐の話題はアスカも、そして令嬢も出す事はなかった。

 ……このまま穏やかに日々が過ぎればいい、そうすれば宿命という鎖もいつか溶けてなくなるだろう……

 いつしかアスカはそれを願う様になっていた。

 ある晴れた朝、令嬢は朝食の給仕をするアスカに提案した。

「ねえ、海へ連れて行って下さらない?」

 突然の誘いにアスカは戸惑ったが、令嬢の方から何処かへ行きたい、と言われたのは初めての事だ。早速準備を整えると車を走らせた。

 初冬の海は鉛色の空と白く高い飛沫が岩を打ち砕く。風は冷たく海の水も夏の陽気に照らされたあの熱はなく、これから深まる冬を想わせる氷の様な冷たさが一層寒々とした色に染め上げてゆく。

 砂浜は何処までも白く広がり空に続いているように見えた。それをひとすくいすれば貝殻の欠片が混ざっているのだろう。白い手袋の中でさらさらと白い色に薄い桜色が散りばめられていた。

「アスカ、こちらへいらして。ほら、空があんなに高いわ」

 少し離れたところから令嬢の弾む声が聞こえる。掌の砂を海へ還すとゆっくり立ち上がる背に黒のシルクで結われた銀色の髪が海風に流れた。髪が背で風に揺れる度、いつも身に付けている香水の香り…冷たさと甘さを思わせる…が海風に乗り鼻腔を掠め紺燕尾の襟に流れていく。令嬢の許にも間もなくその香りは届くだろうか。

「お嬢様、まだ冬の初めとはいえ海風はお体に障ります。適度になさいませ」

 彼女のコートのフードを小さな頭に被せながら髪を梳き形の良い耳元で呟いた。 背を向けていた令嬢は背後の執事へ向き直る。その顔色は少し前に比べると随分と良くなっていた。

「あら。海を見たいと言ったら貴女が連れて来て下さったのよ?私、一度でいいから広い海と風を感じてみたかったの。勿論、海が全く初めて、という訳ではないの。随分幼い頃…まだお母様が生きておられた頃に一度だけ家族で海へ出掛けた事があるの。そうね…私が三つか四つくらいだったかしら。暑い夏の日に、大好きな婆やに貝殻を沢山集めてお土産に持って帰ったの。でも海はあまり覚えてなくて…」

 アスカは、遠い目をする令嬢の横顔を眺めながら貝殻を一つ拾い上げ、それをそっと彼女の小さな掌へ手渡した。すると令嬢の手が素早く貝殻と共に、その手に着けていた執事用の手袋までも奪い取って行った。片方だけ素手になったアスカは慌てたが、令嬢はまるで風に舞うように駆けてゆく。すぐにその影を追い細い手首を柔らかく掴むと、そのまま背後から抱きしめた。腕の中で小さな体から鼓動が聞こえてきた。

「捕まえましたよ。さあ、手袋をお返し下さいませ」

「貴女はいつも手袋をして本心を見せないのね。私とこうして二人で過ごしている時でさえも。私を抱きしめてくれる時ですら手袋をして…」

「それは執事服の一部でございますよ?」

「私を愛している、と告げたのも『執事』の貴女だったの?」

「…っ!」

「私は鷹宮美鈴として貴女を…蓮アスカの言葉を嬉しく受け取ったのです。あの言葉は『執事』としての言葉だったのでしょうか」

「いいえ…執事としてではなく、蓮アスカという一人の人間の心から出た言葉でございます」

「では何故名前で呼んで下さらないの?私は『お嬢様』という名前ではないわ」

「お嬢…いえ、美鈴様…」

 ふいに小さな体が腕の中で反転した。腕の中で令嬢は少し背伸びをしてそのまま唇を重ねた。

「美鈴様…美鈴…愛しい貴女の名を幾度貴女に呼びかけたかった事か。貴女が私の不躾な告白で戸惑われていると思い、貴女のお気持ちを大切にしたかったのです。もっと早くお呼びすればよかった…」

 アスカの腕がしっかりと令嬢を抱きしめ、片方だけになった手袋を外すとそ砂浜へ落とし、その手を令嬢の頬へ宛がうと今度はアスカからから唇を重ねた。潮騒が手袋を飲み込み、二人の息遣いさえも掻き消していった。

「ああ、やっと名前を呼んで頂けた。なんて美しい響きなの。私は私の名を呼ぶ貴女のその声が天上で奏でられる旋律にも聴こえてよ。お願い…もっと呼んで。この潮騒が貴女の声を掻き消してしまわない内に…アスカ」

 令嬢が執事の名を呼ぶその声は、常の執事を呼ぶ声とは全く違う響きを持っているように思えた。優しく、そして愛しさを募らせるような声。潮騒にも負けないその響きはいつまでも胸に刻まれリフレインする事だろう。

「大丈夫です。私の声も貴女のお声も潮騒になど持って行かれる事はございません。ほら…こんなに近くで互いの息遣いまで感じられるではありませんか。それでも…まだ欲しいなら幾らも呼びましょう…愛しい美鈴…」

 海風が二人の耳元でごおっと音を鳴らし執事の言葉を包み込んでも、令嬢の心には届いている事だろう。彼女の手から片方の手袋を抜き取るとそれも海へ投げた。

「もう貴女に触れるのに手袋はいらない。私のこの手で貴女を御守り致します。…美鈴、風が出てきました。そろそろ戻りましょう」

 令嬢の白いコートの上から膝裏と背に腕を回すとそのまま抱きかかえ車までゆっくり歩いた。腕の中で嬉しそうに目を細め、少し遠慮気味にその微笑みを向けた後、高い空を見上げた。

「あの高い空…あれは貴女なのよアスカ。『飛鳥』という鳥は何処までも羽ばたいて広い空を自由に飛び回るの。どんなに強い風が吹いても、冷たい雨に打たれても決して飛ぶ事を止めないの。それが『飛鳥』なのよ。ねえ、貴女はきっとその鳥の生まれ変わりなのかもしれないわ」

 幾度目かの潮騒を耳にしながらふと胸に暗雲が広がった。

 

 ――「お嬢様のお体は、様々な新薬の研究により大分体力も落ちておられます。意識障害も、今後もしかすると発作的に起こる可能性がある。お命を落とされる事も可能性としてゼロとは言えない。どうぞお嬢様の日々を充実したものにして差し上げて下さい。」――

 

 霧島少佐からアスカへ突然の申し出があったあの後、令嬢が意識を失っている間に主治医から聞かされた言葉が、海を覆う鉛色の空と同化して心にも広がっていった。何処までも、どこまでも…。その不安を掻き消す様に抱き抱えた小さな体を支える腕に力を込めそっと囁いた。

「私が自由に飛ぶ事の出来る鳥ならば、貴女を背に乗せて何処へでも参りましょう。雨の時には翼で貴女を覆い、風の時には翼で貴女を抱きながら何処までも飛んでいきましょう。あの高い空へ、何処までも」

 白い砂浜に二つの影。やがてその影も消えて静かな海は凪ぎ、空は何処までも高く夜の月が穏やかに包み込む事だろう。

 二人で出掛けたこの日が、まさか最初で最後になろうとは知る由もない。

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