第三十三話『捕われた令嬢』

 それは突然起きた。

 アスカが外へ出た僅かな間の事だった。屋敷に戻り、いつもの様に令嬢の部屋へ向かった。彼女が珍しくケーキを所望したので買ってきたのだ。

 だが、当の令嬢は居ない。屋敷内の何処を探しても居ない。辺りに不審者が居ないか慎重に探したが痕跡は何も残されていなかった。

 形跡は何もないが悪意の匂いがする。令嬢は気まぐれに出かける性質ではない。また悪戯をして脅かそうと屋敷内に潜んでいる気配もない…。

……プロの仕業か……!

 アスカは早速、霧島少佐へ連絡をとった。

 冬の午後は穏やかな日差しを照らしていた。街路樹は冷たい土に根を付け、冷たい空気の中で僅かな暖を得ようと葉の落ちた枝を真っ直ぐ光へ向けている様に見えた。幾つもの街路樹が車窓を飛ぶ様に過ぎてゆく。

 一般道にしては速度を上げていたせいだろうか。サイドミラーに映り込む冷たい表情は、その心中を伺える程に鋭くなっている事に気付かぬ程、アスカの胸中は紅蓮の炎に包まれ闇を焦がしていた。

 やがて辿り着いた場所は大きな廃倉庫。以前、アスカが霧島少佐を呼び出した倉庫群の一つ。

 ……悪企みをするにはこういう場所を人は選ぶものなのかもしれない……

 自分もまたその場所を選んだ事を思い出し苦笑を漏らした。

 倉庫の周りには、既に荷は引き上げられて古びた廃材が散らばっていた。器用にそれを踏みしめ、音を立てずに気配を消し鉄の門扉をゆっくり押した。外界の光が開いた扉から放射状へ庫内へと流れ込み、やがて扉が閉まると重たい音と共に、長い影は庫内の薄闇に掻き消された。

 割れたガラス窓から僅かに光は射しているものの、暖かさまでは届かない。割れた窓硝子から吹き込むのは冷たい風だけだった。革靴の音を静かに立て、細心の注意を払いながら燕尾の胸元に忍ばせている護身銃へと指先を伸ばした。銃口は、今や遅しと獲物を待つ獣の如く引き金が引かれ、捕らえるのを待ち構えている。そのまま歩を進めていく内に奥の方で人の気配がした。更に意識を集中させ、出来るだけ音を立てずその気配へと近付く。

 アスカの全身に伝わるのは弱い息遣い。壁際から視線だけを中へ向けた。

 背もたれの壊れた古い椅子が一脚。まるで捨てられた人形のように、瞼を半分閉じた令嬢が拘束されていた。足早に駆け寄ると彼女を驚かさない様に静かに跪(ひざまず)いた。

「お迎えに参りました。不安な思いをさせてしまいましたね。さあ、此処から出ましょう」

 言葉も出せず、令嬢はただ不安げにぼんやりとした瞳で執事を見上げた。

「今すぐ解いて差し上げます。少しご辛抱を…」

 アスカはナイフを取り出すと、令嬢の皮膚を傷付けぬ様に拘束していた縄を解いた。ナイフを懐へ素早く収めると細い背に腕を回した。小さな体は軽々と執事の腕に抱きかかえられ…。

「そう簡単には帰さないわよ。…ふふ。現れると思っていたわ。お久しぶりねアスカ」

 庫内の照明が一斉に点いた。眩い青白い光の中、現れたのは松平雅恵と彼女のボディーカードらしき数人の黒服をまとった三人の男達だった。彼らはプロなのだろう。アスカが素早く動く前に男の一人が背後から羽交い締めにし、もう一人の男が令嬢を引き離した。

「随分と手荒な歓迎ぶりでございますね奥様。私の留守の間に言伝のメモもなくお嬢様をお連れになるとは。まるで誘拐でもなさる様なやり方ではございませんか。お嬢様をお迎えにいらっしゃるのでしたら、予め私にご連絡下されば奥様の元へお連れ致しましたのに」

「よく此処が分かったわねアスカ。相変わらず貴女の勘の鋭さとその凜々しさには感服するわ」

 雅恵夫人は黒のファーが付いた細身のコートをまとい、長く警察で勾留されていたとは思えぬ程に艶を増して見えた。

「まずお嬢様を此方へ。お話はそれから伺います」

 背後で羽交い締めしていた男の手が懐の銃を捕らえ、冷たい床に投げつけた。乾いた音がやけに大きく響き渡る。が、アスカはそれに表情一つ変えず夫人と、廃材に拘束され怯えた表情を向ける令嬢と交互に見つめた。

「ほほほ。そうね」

 夫人のローズレッドに塗られた唇が艶めかしく笑った。女王然とした風格は事件前と全く変わらない。否、以前より貫禄と妖しさが増したようにも見える。

 夫人は真っ直ぐヒールの音を高く鳴らしアスカへと距離を詰めようと歩を…向けるように見せたかと思うと令嬢へくるりと体を向けた。

「――っ!」

 それは一瞬の事だった。

 鋭い銃声が庫内に響き渡り、アスカの眼前で夫人は令嬢に向けて発砲した。銃弾は命中し、彼女のお気入りだった水色のワンピースに紅い血が混ざり濃い色へと染め始めた。

 恐らくは心臓を狙ったのだろう。だが銃の訓練を受けている者でも心臓を打ち抜く事は難しい、銃弾は令嬢の心臓の少し下に着弾し心臓を逸れた。

「この子が生きていては困るのよ。研究に関する資料は出来る限り処分したわ。でも、この『資料』がまだ残っていたの。証拠は全て処分しなくてはね。ふふ…心臓は免れたけれど、どうせ薬の副作用でそう長くもないでしょう」

 怒りと憎悪でアスカは背後の男達を振り払い、床に投げられた銃を器用に足先だけで蹴り上げ手に取ると夫人へ銃口を向けた。真っ直ぐ伸びる引き金に掛かる指先とその眼光には微塵(みじん)の迷いもない。

「生憎、私は十分に訓練を受けている。お嬢様の様にはいきませんよ?奥様…」

 獲物を仕留めろと言わんばかりに、アスカの手の中で銃鉄が蒼銀に光った。

 アスカが引き金を引こうとした瞬間、重たい扉が大きな音を立てて開き、男の声と同時に軍靴の一斉に流れ込む音が庫内に響き渡る、よく通るその声は、それまでの空気を一変させた

「そこまでだ。松平雅恵夫人、今のお話しっかり記録した。勿論、貴女が義娘を殺害するところもだ」

 その声にアスカの意識が現実へ引き戻されたと同時、彼の部下の兵達が松平雅恵と男達を捕らえる慌ただしい怒声と靴音に包まれた。

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