第二話『令嬢』
秋桜の束を優しく抱え、ロビー正面から伸びる階段を上り、令嬢の私室である一番奥の部屋を目指した。
二階の廊下には窓が一定の間隔で配されており、どの窓もアーチ型のデザインで統一されて並んでいる。この屋敷の窓はどれも同じデザインで、一階の廊下にも同じ間隔で並んでいた。大きな窓からは明るい陽射しが刺し込み、幾つもの光が真っ直ぐ紅い絨毯の敷かれた廊下を照らしていた。だが、令嬢の部屋…一番奥の部屋…には光が届かず、そこだけがひんやりと冷気が漂っていた。
一見、物置きか空き部屋にも見える部屋の前で再度、襟元を整え、古びた木製のアーチ型の重厚な扉に指先一つで軽めのノックを落とし、「失礼致します」と一声掛けた後、静かに錆の入った金色ノブに指先を絡めて中へ入った。
……随分粗末な部屋だ。自分が与えられている部屋と比べればどちらが主か分からぬ程だ……
室内は更に薄暗く窓は一つしかない。冷たい空気と、薬のような匂いがぷん、と鼻腔を掠めた。人の気配も全く感じない。周囲へ視線を巡らせると、あちこち傷が入り、とても今使われているようには見えない。ましてやご令嬢が使っているとはとても思えない家具が一つ、二つと置いてある。扉正面の窓の辺りに視線を向けると、使い込まれて錆びの目立つ車椅子が此方に背を向ける形で雑然と置かれ、薄暗い部屋で異様な雰囲気を漂わせていた。
……矢張り物置きなのかもしれない。第一、人の気配など感じないではないか……
小さくため息を吐き、部屋を間違えたかと扉に向き直ったその時、微かに錆びた金属の軋む音が耳を掠めた。
……?
再び体を室内へ戻し目を凝らしてみれば、古い車椅子の背から黒い何かが揺れ動いた様に見えた。
淀んだ空気が漂う部屋に一瞬息を呑んだが、僅かに動いた影が令嬢だと分かると執事の顔に戻し、ワインレッドのタイを整えて気を引き締め直してから令嬢を驚かせない程度に車椅子へ近付いた。
「本日より美鈴お嬢様の専属執事を仰せ仕りました、蓮アスカと申します。今年の春、英国のブリック=フォード執事養成学校を卒業致しました。未熟者故、至らぬ点などございましょうが宜しくお願い致します」
一通りの口上を述べた後、車椅子の背面越しに見える細い小さな頭へ視線を向けた。令嬢の姿は車椅子の影に隠れて見えない。暫く静寂が二人を包み込んだ。
……?聞こえていらっしゃらないのだろうか……
アスカが車椅子の前へ回ろうとしたその時、
「そう…貴女が今度いらっしゃった執事さんね」
嘆息(たんそく)にも似た溜息交じりの声が返り、漸(ようや)くアスカへ車椅子が向けられた。
改めて見る令嬢の姿にアスカは一瞬目を疑った。
年は確か十七と聞いている。が、その年頃の少女にしては、黒い髪は美しいが艶はなく、白い肌は光線の加減なのか蒼白い。小さな顔は此方に向けられているもののその大きな瞳が示す先は何処か遠くを見ていた。
薄い水色のワンピースは決して上等な生地ではなく痩せた体をより細く見せる程に粗末なもので、首元に飾り程度の小さな桜色のリボンがあしらわれていた。令嬢と呼ぶには余りにも貧祖な身なりだ。
「初めまして。松平美鈴です。…両親には会いましたか?」
細い声は病弱の所為(せい)だろうか。どうも生気が感じられない。
「はい。先日面接をしていただいた際、旦那様の秀光様とお会いしました。奥様とはその夜、お電話にて少しお話を伺わせて頂きました。あと、これはご挨拶代わりにお持ち致しました。御庭で見事な秋桜が咲いておりましたので」
先程庭先で摘んだばかりの小さな花束を手向けると、車椅子の前に膝を突いた。
「庭先の…?」
「綺麗でございましょう?花瓶に活けてお部屋に飾らせて頂こうかと…」
「何も言われませんでしたか?」
言葉を遮(さえぎ)る様に細い声が重なった。暗く、抑揚のない無機質な声だ。
「何も、とは?」
「あの御庭は母のお気に入りなのです。お花も母の好きなものを植えているので」
「そうでしたか。ですがあきらさんは『お好きなだけ持って行って下さい』と言っていましたよ?」
令嬢は少し驚いた風に目を見開いた。一瞬、視線が重なったと思ったがすぐにまた焦点の合わぬ宙へと瞳が向けられた。
「…そう。でもお花はお部屋ではなく他の場所に飾って下さい。お気持ちだけ頂いておきます」
令嬢は小さく「ごめんなさい」と付け加えると頭を下げ、そのまま顔を上げずにずっと俯いていた。
……やはりお花が御嫌いなのだろうか。いや、それにしてはどうも様子がおかしい……
だが、問い質(ただ)しても今は無駄だろう。メイド長へ言ったように追々分かってくる事もある、というものだ。
「畏まりました。このお花は執務室に活けさせて頂きましょう。では、お茶のご用意を致しましょう」
お茶でも召し上がれば緊張を解す事も出来るだろうと、茶器が仕舞われていると思しき棚を開いた。だが書物ばかりでティーセットらしきものは見当たらない。英国では家人の私室には必ずティーセットを備えてあるものだが、帝国では貴族とはいえ、その様な習慣は定着していないのかもしれない。
「失礼を致しました。一度ダイニングへ戻り準備をして参ります」
アスカが扉まで歩を進めようとした時、背後で細い声が尋ねてきた。
「お茶…お茶の準備とは?」
令嬢へ体を向けると彼女の瞳はやはり何処か遠い目をしている。
「はい。そろそろ午後のお茶の時間ですので、準備をさせて頂こうと思うのですが…」
「お茶ならそこにあります。毎日水分補給をしなくてはならないと医者から言われておりますから」
示された先を見れば、大きなピッチャーに常温で冷まされた若草色の緑茶が入っていた。
「そちらは水分補給用のものでございましょう?お茶の時間ですから紅茶を準備させて頂きます」
令嬢は困った様な顔をした後小さく頷いてみせた。
……お茶一つで何故あの様な顔をなさるのか。妙な反応に此方が戸惑いそうだ。英国の様に必ずお茶の時間を取る習慣は確かに無いのかもしれないが、それでもお三時を頂く習慣が昔からあるだろう。それにあの年頃の少女ならばお茶の時間は食事の時間より楽しみである筈だ……
アスカがダイニングへ降りると、メイド長が優雅にお茶を楽しんでいる最中だった。
「あらアスカさん。ご苦労様です。お茶でも如何?今朝貴女が来られると奥様より伺ってクッキーを焼いたのですよ。どうぞ」
先程部屋へ案内した時とは違い、愛想よく着座を勧めようとする彼女を柔らかく制した。
「いえ、私は後ほど頂きます。先にお嬢様のお茶の準備を…」
メイド長の顔色が一変して曇った。
「あの…もしかするとお嬢様にはアレルギーや食べ物の制限がお有りなのでしょうか?甘い物が食べられないご体質とか…」
「いいえ。アレルギーも医者から止められている食物も、甘い物を受け付けないご体質もございません」
メイド長は質問だけに答えると、少し慌てたように紅茶のカップに口を付けた。その隣には令嬢ほどの年頃だろうか。年の頃なら十七、八の若いメイドが首をすくめながら遠慮がちに紅茶カップに口を付け、執事をちらりと見ただけで後は視線を合わせない。
「スミレさん、お茶が終わったら買い出しへ参りましょう」
「はい。さちえさん」
若い方のメイドはスミレという名らしい。その後、メイド長もスミレという若いメイドも此方に目を合わさなくなった。
……妙だ。此処の使用人も令嬢も……
無言で茶の支度をし、銀のトレイに乗せてダイニングを後にした。
令嬢の部屋へ向かう階段を昇り始めた頃、ロビーの古い柱時計が午後三時を知らせた。のんびりとした、この屋敷の歴史を物語るような重みのある音に聞こえた。
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