第三話『朝の執務』

 アスカが松平邸へ入ってから早や一か月が経過しようとしていた。

「まだ召し上がっておられるのですか!もう下げますよ?」

 アスカが与えられた執務の中で、一番厄介だと思う事のひとつは令嬢の食事の世話だった。

 特に朝食は、朝の慌ただしい時間に長く時間を掛ける事は出来ない。一日の執務は夜まで詰まっている上に、家人の朝食が終わらない限り、執務に取り掛かる事も許されないからだ。

 食が細く、食事に時間が掛かってしまう事は理解している。理解はしているがつい急かす様な言葉を口に出してしまう。今朝もまた口にしてしまった。

「ごめんなさい。ご馳走様でした…」

 令嬢は小さく項垂れ、膝へ両手を乗せると何かを堪える様に水色のワンピースの裾を小さく握りしめた。

 その言葉に小さく溜息を吐き、終わった皿から順に割らぬ様に注意を払いながら、まだ朝食が残っている食器をワゴンへ手際よく乗せていった。いつもの事ながらこの時ばかりはつい尖った言葉を令嬢へ向けてしまう。

「全く…毎朝毎朝同じ事ばかり。いい加減早く召し上がる事を取得なさいませ。私共はお嬢様のご朝食だけのお世話の為に仕事をしているのではないのですよ?どうぞご理解頂きます様…」

 切れ長の瞳が鋭い光を放ち車椅子に座る令嬢を一瞥した。令嬢は視線を合わせる事なく、俯いたまま小さく首を縦に振った。

 松平邸。この屋敷に住む家人は令嬢のみで、彼女の両親、つまり屋敷主夫妻は海外滞在中であり、屋敷主である秀光氏は面接の為に一度帰国したものの用事を済ませるとその日の内に海外へ飛び発った。  

 令嬢は脚が不自由という訳ではないが、先天的な心臓疾患がある為に車椅子を使っているらしい。部屋は令嬢に似つかわしくない程に粗末なもので、執事に与えられた執務室や私室の方が豪華なくらいだった。

「お疲れ様ですアスカさん。執事のお仕事は慣れましたか?」

 声を掛けてきたのはこの屋敷を取り仕切るメイド長。ワゴンの皿を片付ける執事から皿を受け取り、シンクの泡に放り投げながら彼女はにこやかな笑みを向けた。

「ええ…」

「始めの内は慣れぬ事が多々おありだと思いますが、慣れれば上手くやっていけるでしょう。何せここは他の邸宅に比べれば高給で、その割には仕事内容も他のお屋敷と同じですし。まあ少し変わってはいますがね。それも慣れればどうという事もありませんよ」

「一つ伺っても?」

「はい。何でしょう?」

「私が此方に来た時、執事がすぐに辞めては新たに執事を迎えていたと伺いましたが…」

「ああ、その事ですか。それならば簡単な事ですよ。お嬢様のお世話について奥様からクレームがつくのです。それで耐えきれず辞めてしまうのです」

「これまで何人も辞められているのですか?」

「ええ。どの執事も御給金目当てなのか、ちょっと奥様のクレームがつくとすぐにやめてしまいます。その都度、ご主人様が新しい執事を募っては入れているのですが、またやめてしまい…そんな事を繰り返しています。そうですね…最長で三か月といったところかしら。最初にここでの決まりやお嬢様のお世話についてはお話してあるのですがね」

「奥様は使用人の仕事ぶりを時折見にいらっしゃるのですか?」

「ええ。ご主人様と違いきちんとした方ですから。それに元のお屋敷主は奥様でしたからね。十年程前に再婚なさってから名義だけ変えられたのです。ですから実質的には奥様が屋敷主のようなものです」

「そうでしたか。ご主人様の秀光様には面接の時にお会いしましたが…」

「ご主人様は滅多にお戻りになる事はありません。ですから肩書きだけの主のほうが相応しいと奥様も判断なさったのでしょう。奥様は使用人の仕事ぶりや屋敷内の事をこまめにお戻りになられますもの。貴女も近々お会いする事になりますよ?アスカさん」

 メイド長は少し胸を張りながら奥方について語る。奥方は余程この屋敷について気に留めて下さっているようだ。メイド長としても心強い存在なのだろう。

 だがアスカはまだ奥方と会った事はなく、面接は屋敷主とこのメイド長のみ。それも書類にも殆ど目を通す事なく仕事内容だけ告げるという簡素なものだった。

「ほら、もうじきお嬢様のお勉強の時間です。急いで下さい」

 メイド長に急(せ)かされ壁の時計へ目を向けると上げていた袖をおろし、メイド長へ丁寧に一礼した後ダイニングを後にした。一度執務室に立ち寄り数冊の本などを手に取ると令嬢の部屋へ向かう。

 朝の日差しは少し雲隠れしているのか、淡く廊下を照らし薄く長い影が扉に伸びた。

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