第四話『松平夫人』

 奥方の話を聞いてから数週間ほど経過したある日、その日は朝から慌ただしい雰囲気に包まれていた。

 前日からの清掃は一層磨きが掛かり、至る所に花が飾られ、普段はシンプルな屋敷内が一気に華やいだ。

 アスカは朝早くからダイニングに一人で立ち、得意のブイヤベースの鍋を時折確認しながら包丁で野菜を刻む。オーブンではローストビーフを焼く香ばしい香りを漂わせていた。

「アスカさん悪いわね。朝早くからお料理をお任せしてしまって。貴女が料理もお得意だと伺っていたので…」

 メイド長が半分気の毒そうに言った。執事の業務に料理は含まれていないからだろう。

「いえ。本日は特別ですから。それに料理は好きですからお役に立てるのでしたらば幸いです」

 オーブンが完成の合図を示した時、庭師のあきらがダイニングの窓越しからきびきびとした声を掛けた。

「そろそろご到着になられます。皆様ご準備を」

 いつも作業着を着馴れているあきらがライトグレイのスーツに身を包み、少しばかり緊張して見えた。

 玄関の前に黒い車が静かに停車すると運転手が後部座席の扉を開く。

「お帰りなさいませ、奥様。お待ち致しておりました」

 一斉に声を掛ける使用人達。といってもメイド長始め、執事を含めて四人だが。

「初めまして奥様。先月より屋敷で仕えております執事の蓮アスカと申します。お荷物をお預かり致しましょう」

 長い栗色の巻き毛をなびかせ、手の甲でそれを流しながら夫人はアスカへ視線を向けた。

「貴女がアスカさんね?荷物お願いするわ。そんなに多くはないのだけど」

 にこやかに挨拶を返し颯爽と屋敷の中へ入ってゆく。 アスカは一歩控えて夫人の後に続いた。

 奥方の部屋は二階の日当たりの良い一室で、階段を昇りすぐ左手にあった。この日の為に前日から調度品や花など飾られた部屋は、屋敷内でも広い部屋だ。

 部屋へ入って正面の大きな窓にはバルコニーが配されており、いつもあきらが手入れをしている美しい中庭が一望できた。

 アスカは荷物を部屋へ運ぶと茶の支度を始めた。夫人の私室にはティーセットが備えられてあった。優雅な香りが部屋を包み、窓から射し込む陽光は時の流れをも緩やかに感じさせた。

「どうぞ奥様。ダージリンでございます。あと、今朝メイド長が作りましたマカロンもご一緒にお楽しみ下さいませ」

 ティーセットの中には今朝焼いたマカロンが丁寧に配置されていた。令嬢の部屋には一度も茶のセットを置いた事などないというのに。それ故に令嬢のティーセットはいつもアスカが用意していた。

 てっきりメイド長にその習慣が無いのだとばかり思っていたが、夫人に関してはその習慣も例外となるのだろう。

 ソファにもたれ、指先で優雅にカップを持ち上げながら夫人はアスカへ視線を向けた。

「お電話では一度お話をさせてもらったけれど、貴女の声、とても素敵だと思っていたわ。でも実際にお目に掛かるともっと素敵。銀の髪も、端正な顔立ちや高い背丈も、お声も。まるで西洋の物語に登場する美しい貴公子の様ね。そういえば貴女はハーフでいらっしゃった?」

「はい。母はイギリス人、父は帝国の人間でございます」

「そう。それにしても見事な銀色の髪。ねえ、此方にいらして下さるかしら?貴女の事をもっと伺いたいわ」

 ソファの座面を手のひらで軽く叩き着座を促す所作を見せる夫人に、一つ返事で答え遠慮気味に「失礼致します」と断りを入れた後、少し距離を置いて隣に座った。

「よくお似合いね。その執事服。でももう少し上等な生地であつらえた方がいいわね。貴女には粗末な物など似合わないわ。そうでしょう?」

 夫人の指先が燕尾越しに肩から腕へとなぞった。その手をゆるく掴み座面へ戻すと執事らしい穏やかな笑みを向けた。

「お気遣い頂き有り難うございます。ですが、あまり上等な生地ですと動きに制限が出てしまいます故、どうぞこのままで。それにこの生地とて決して粗末な素材ではございません。適度な光沢があり動き易い、私にとりましてはこれ以上のものはございません。一介の執事が此ほど上等なものを与えられているのは恐らく私くらいでございましょう。時に…もし上等なお洋服をご用意頂けるのでしたらば、是非お嬢様へお願い出来ますでしょうか?」

 瞬間、夫人の口許が険しく歪んだように見えた。が、それは一瞬で再び品のいい笑みが返る。

「あら。あの子にはそんな粗末なお洋服を与えていたかしら?」

「いえ。決してその様な事ではございません。唯、お嬢様も今年で十七歳を迎えられました。そろそろ社交界デビューをなさるお年頃でございますから、ドレスを二着ほどと同等の生地でなくともそれなりの生地であつらえたお洋服を何着かお願いしたいと。常より生地に馴れておけば所作や振る舞いなどをお教えする助けにもなる、と思いましたので」

「そうね。あの子もそんな年頃になるのね。ふふ…母親なのにちっとも気付きませんでしたわ。お恥ずかしい事…」

 夫人は照れ笑いにも似た笑みを零しながらも、何処か冷たい印象を与えた。アスカはふと、気分を害してしまっただろうか、と思い夫人へ小さく頭を下げた。

「いえ。奥様は旦那様同様にお忙しい体でございます。それに奥様が誰よりもお嬢様をお心に留めておられる事は、私のみならずこの屋敷の誰もが熟知致しております。」

「いいのよ。本当の事ですもの。いえ、決して貴女のお言葉を悪く捉えたのではないの。誤解なさらないで?ではそうね…数日後に腕利きの洋裁職人に来させましょう。きっと素晴らしいドレスやお洋服を仕立てて下さるわ」

「有り難うございます奥様。きっとお嬢様もお喜びになられる事でございましょう」  

 アスカは静かに立ち上がると深く腰を屈め一礼した。空になったティーカップを後片付け銀のトレイに乗せようとした時、夫人の手が柔らかく制した。

「何か…?」

「今夜はお時間あるかしら?」

「ええ。特に予定はございませんが」

「それなら今宵、もう一度お部屋へいらして下さる?寝酒が無いと眠れないの。そうね…貴女の見立てでいいわ。素敵な夢を見られるお酒をご用意して下さるかしら?」

 紅い口紅を塗った唇が妙に妖艶な物に見え一瞬背筋が熱くなった。

「畏まりました。では適当なものを見つくろいお持ち致しましょう」

 最後のカップを銀トレイに乗せると一礼落とし部屋を後にする。午後の陽光が穏やかに廊下を照らし長い影がやがて小さくなった。

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