第三十五話『愛しい時間』

 部屋には令嬢とアスカだけになった。

 ベッドに横たわり、まだ酸素のチューブが外れていない令嬢の顔を覗き込むと優しく頬を撫でた。その手には執事用の手袋はもう装着されていない。その時、令嬢の長い睫(まつげ)が上下に動き、ゆっくりとその瞳が開いた。

「お嬢様。御目覚めになられましたね」

「…アスカ」

「もう大丈夫です。安心してお休み下さいませ」

 令嬢は口元で何か呟いたがアスカには聞き取れなかった。小さな手だけをシーツからそっと出して燕尾の裾を力なく掴むと二、三度揺すった。

「ふふ…あれからずっと手袋を着けていないのね。もしかすると、海へ捨ててしまったのがいけなかったのかしら?」

 アスカは裾を掴む指先を取ると、そこへ掠める程度の口付を落して柔らかく握りしめた。

「いいえ。勿論幾つも替えはございましたが、全て処分致しました」

「一組も残さないで?」

「はい。貴女に…美鈴に触れるのにもう必要はない、と思いましたから」

「良かった。あの時、アスカにお願いしなかったらずっと着けたままだったのでしょう?」

「はい。恐らくは」

「貴女はとても出来る執事さんだけど、一つだけ駄目なところがあるわ」

 麻酔から覚めたばかりとは思えぬ程、令嬢の表情はくるくると動き、穏やかで静かな凪を見せていたかと思えば、今は少しむっつりとした少女らしい表情になっている。思わずその表情の変化に、アスカの口元から笑いがこみ上げた。

「もう。笑いごとじゃないのよ?貴女の駄目なところを小娘が指摘しようとしてるのだから、窘(たしな)めるのが執事でしょう?」

「窘(たしな)めないのが『駄目なところ』なのでございますか?」

「違うわ。貴女の駄目なところは、私の言う通りに従う事よ」

「……?は?」

「だからね、私の言いなりになってるところが駄目なの」

「お言葉ではございますが、執事というものは大抵、その様なものでございますよ?」

 再びアスカの口元から笑い声が小さく漏れた。

「そうね。…いいえ、そうねじゃないわ。だからね、アスカはとても立派な執事さんなの。でも立派過ぎて貴女の意思は見せないでしょう?海へも私がお誘いしないと連れて行っては下さらないし、手袋も私がお願いしないとずっと着けたままだったでしょうし、夜、眠る時にも『眠るまで傍に居て』とお願いしないと居てくれないし…なのにアスカは私に何かしてほしいなんて言ってくれた事は一度もないわ」

 令嬢は勢いよく言葉を続けた後、何処か切ない表情を執事へ向けた。

 ……なんと正直で純粋な心をお持ちなのか、そしてひたむきにぶつけてくるこの言葉は真っ直ぐ私の心に刻まれていく。なんと強い光だろうか。この弱い少女にこれ程までの強さが宿っていたとは…愛しい。だが、その愛しさ故に私の心に染み着いている闇が一層深く広がり、彼女の真っ直ぐな光すらも飲み込んでしまいそうになる。彼女を壊したいくらいの愛に変わってゆく……

「…アスカ?言いすぎたかしら?ご気分を悪くなさった?」

 沈黙しているアスカに令嬢が不安げに声を掛けた。その瞳は少女らしい無邪気なものと、彼女の持つ孤独な影が入り混じっているように見えた。

「いえ。とても良く私を見ておられたのだな、と感心致しました。それに、それだけの御言葉を麻酔が覚めた後で言えるのですから、その元気なお姿に安堵致しました。ですが、そろそろお休み下さいませ。私はずっとお傍に付いております」

 令嬢は少し頬を染め何かぼそりと呟いた。アスカが顔を近付けその言葉を再確認しようとしたその時、令嬢の唇がアスカの唇に触れた。頬を染め、大きな瞳を泳がせた後、「おやすみなさい」と呟いた令嬢の唇へ、お返し、とばかりに二つ目のキスはアスカから唇を重ねた。

「ずっと、これからも私の傍に居てくれる?何処へも行かないと約束をしてくれる?アスカ」

 令嬢の閉じかけていた瞼(まぶた)が再び開き、静かに問いかけた。

「ええ。私はずっと貴女のお傍におります。これからもずっと…お休みなさいませ。美鈴」

 部屋の灯りを全て落とすと、窓のレースカーテン越しから蒼く白い月の光が淡く室内を照らした。

 ベッドの周りで作動する心電図や酸素の微かな機械音と、小さな寝息が一定のリズムを刻む。アスカはもう一度、眠る令嬢の唇へ口付けを落した。

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