第二十三話『取引』

 アスカが松平の屋敷へ入って一年が経過した。

 この一年で変わった事といえば屋敷主となった事だが、形としては全く以前と変わらない。雇い主が松平雅恵から蓮アスカへ変わっただけで使用人達はそのまま屋敷で働いている。彼らの生活も、令嬢の生活も全く変わりはないのだ。

 否、令嬢の生活については少しばかり変わったと言えるかもしれない。

 それまで雅恵夫人の命により、屋敷から逃げぬ様行われていた令嬢への虐待が無くなったという事だろうか。辛い虐待が無くなった事は令嬢にとって大きな幸いだといえるだろう。

 また虐待を与え続けてきた使用人達もアスカの計らいにより、一か月後には退職金を与えて屋敷を出す手筈を整えていた。松平雅恵が警察へ連行された今となっては、令嬢を監視していた使用人達の存在は彼女のストレスになるだろう、というアスカの配慮からだ。

 だが、屋敷主となってもアスカは未だ執事を続けていた。

 これはアスカ自身が望んでやっている事で、彼女自身、新たに執事を雇う気持ちなど無かった。それは令嬢への想いもあったが、余計な人間を屋敷に入れたくない、という考えからだった。アスカの真の目的はまだ果たされていないのだから…。

 中秋の名月とは満月が美しいと古(いにしえ)から人々に愛でられている。

 歌人達はその美しさに心を馳せ、幾多も歌を詠んだだろう。が、今宵は細い鎌形をした鋭い刃を思わせる月。

 闇の色が空を支配している様は『名月』ならぬ『冥月』と呼ぶに相応しいだろう。

 松平邸が建つ小高い丘から三十分程車を走らせた港に面した廃倉庫。夜のそれは仄暗い月夜に照らされ、倉庫内は割れたガラス窓から時折入り込む冷たい夜風は潮の湿った空気を含んでいた。

 やがて暗い地面に外からの月光が淡く明るい光に照らされて、それが扇状に広がった。と共に重たい扉を押し開ける錆びた鉄の音が室内に響き渡った。

 やがて扉が閉じられると地面に広がっていた光も消えて、再び闇に染まる冷たい床に戻った。

「遅かったのですね霧島様。本日は非番だと伺っておりましたが?」

 幾つも積まれた箱の上から長い影が静かに相手へ声を掛けた。

「申し訳ございません執事さん。先程まで美鈴様を寝かしつけておりました」

 アスカが外で諸用を済ませている間、彼は令嬢を訪問していたようだ。

 令嬢は、夫人の手から逃れた後、これまで行われてきた人体実験によって様々な薬品が使われた為に、副作用などの発症を考慮して霧島の勧めで検査を受けている最中たった。

 霧島少佐は一時期、屋敷を訪ねる事を避けていたが今はその件も警察側へ渡った為、折を見ては令嬢と会う時間を作っていた。令嬢も不安な毎日を過ごす中で、霧島の訪問はどれ程心の支えとなっている事だろうか。

「わざわざご足労頂き申し訳ございません。実は、軍より報酬の申し出がございました。その件についてお話がございましてこういう場所を選ばせて頂きました。どうぞご容赦の程を」

 積み上げられた箱から宙を切る音と共に黒い影が躍った。仄明るく照らす月光の下、淡い影がゆっくり地面に降り立つと、淡い月光が銀色の髪を蒼く照らした。

「改めましてご機嫌よう霧島様。高い場所から失礼を致しました」

「いえ。私の方こそ時間に遅れてしまい申し訳ございません。また、今度の件では並ならぬご協力とご尽力を頂き感謝しております。その働きに敬意を表して軍より協力料…という程にはいきませんが、とりあえず小切手と感謝の書簡をお持ち致しました。これは正式な軍からの命により、私が執事さんへ…蓮様へ手渡す様に通達されたものです。どうぞ、お納め下さい」

「いえ。そういう訳には。私と致しましても松平家の尊厳に関わる事でしたから真実を確認する必要がございました。もしそれが間違いであれば名誉棄損で訴える準備もしておりました。ですから、結果的にはどうあれ屋敷の為にやった事、とでも申しておきましょう。お気持ちだけ頂いておきます。どうぞお持ち帰り下さいませ」

 アスカは書簡だけ受け取ると小切手を霧島の手に返した。

「そうですか。了解致しました。軍にはその旨申し伝えておきます。ですが、私は今度の一件で改めて貴女に尊敬と信頼を抱きました。ですから美鈴様の事も含めて何か私に出来る事がございましたら何なりと仰って下さい」

「貴方の様な立派な方から尊敬をされるような事は何もございませんよ。ですが、そのお言葉は有り難く受け取らせて頂きます」

「本当に貴女は謙虚な方なのですね。貴女は屋敷主になられたのでしょう?それだのに未だ執事として美鈴様に接しておられる。どうでしょうか。もし宜しければ蓮様に仕えさせて頂けませんか?」

「仕える?」

「ええ。貴女の御屋敷で護衛として置いて頂きたい、と思ったのです。これは単に美鈴様だけの為ではなく、執事さん…いえ失礼。屋敷と蓮様にお仕えしたいという気持ちからです。如何でしょう?貴女にとっても悪い話ではないと思いますよ?勿論、貴女は執事学校で厳しい訓練を受けておられる。大抵の不審者から守る腕をお持ちでしょう。ですが松平雅恵は裏にも通じる力を持っています。恐らく彼女の差し金でこの先、良からぬ者が入り込む可能性は考えられます。戦力は多いに越した事はありません」

「お申し出感謝致します。しかしながら、霧島様にはそのまま軍隊にて任務を続けて頂きたく存じます。誤解の無き様、これは決して貴方様の力に不足を唱えているのではございません。霧島様は将来お父上の跡を継がれるお方。その様なお方を屋敷の護衛などさせられません。それに、もしかすると今後、仰られるように戦力を必要とする暴漢が現れるかもしれません。その際には是非、霧島様の御力をお借りしたいと思います」

「成程。私の立場を考慮なさった上での事ですね。分かりました。では何かございましたらすぐに参じましょう」

「ご理解頂き感謝致します霧島様。時に、早速で恐縮ではございますが、是非お願いしたい事があるのですが」

「お願いしたい事?何でしょうか」

「お願いといっても難しい事ではございません。お嬢様を一日外へ連れ出して頂きたいのです」

「美鈴様を?勿論構いませんが、あまり長時間はお疲れになりませんか?」

「屋敷の外であれば何処でも構いません。最近、私が多忙な為にお嬢様を外に出して差し上げる事が出来ませんでしたから。それにここ最近は色々な事が重なりお心も沈んでおられる事でしょう。それ故に気晴らしが必要なのです。もうじき検査も終わりますから、その後にでも霧島様に彼女をエスコートして頂こうと思った次第です。お願い出来ますでしょうか?」

「ええ、勿論是非にとお願いしたいところですが…でも宜しいのですか?」

 少し切れ長の瞳が伏せがちになり、霧島にはそれが切なく見えただろうか。ふ、とアスカが顔を上げ闇の中で穏やかな表情を向けた。

「構いません。今の私は屋敷主としての処理に手一杯で細かな部分まで手が回りませんから。それにお嬢様も貴方とならば楽しい時間を過ごされる事でしょう。」

「畏まりました。では一日美鈴様をエスコートさせて頂きます。その…決して邪(よこしま)な考えはございませんので…」

 霧島少佐は慌てて付け加えた後、「いえ、失礼を」と小さく咳払いをした。

「貴方を信じていますよ?霧島様」

 目の前で綺麗に敬礼をする霧島にアスカも小さく敬礼を返した。

「ところで…その日蓮様は何を?」

 ふいに冷たい冷気が勢いよく吹き込んできた。銀色の髪が一瞬闇の中で輝き波を打ち深い紫の瞳が霧島を捕らえた。

「とても大切な用があるのです」

 アスカは一瞬冷たい笑みを浮かべたが、それは闇に飲み込まれて冷気だけが二人の間を吹き抜けていった。

 やがて倉庫の扉を開くと紺の燕尾の背で輝く銀髪が細い月彩に蒼銀に輝き、やがてその長い影は闇に消えた。

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