第二十二話『闇に映る影』
残されたのはアスカと雅恵夫人の二人のみ。
静寂の中、照明に照らされた二つの影が絨毯に落ちていた。夫人の手は拳を握りしめ僅かに震えている。
「貴女…始めから魂胆があっての事だったのね。この松平に入ったのも全て松平財閥を陥れようという…」
「陥れる?随分なお言葉でございますね奥様。私の狙いはそんな事ではございません。今度の事は私にとりまして思いもよらぬアクシデント、といったところでしょうか」
「何が目的なの?お金なら…」
「金?この邸ごと買い取る金があるというのに、それで私が揺らぐとでも?」
アスカは妖艶な瞳を雅恵夫人に向け、切れ長の睫に冷たい光を宿した。後退り怯む夫人にまるで獲物を追うように一歩ずつ、ゆっくりと距離を詰めていく…。
「…奥様のご所望で、夜伽のお世話するのはある意味とても有意義なものとなりました。私が貴女を抱く度、貴女は私に心を許してゆく…屋敷の事も、財産の事も全て貴女の口から仕入れた情報なのですよ?それに奥様はある宵に、こう私に仰有ったではありませんか…」
夫人の細い背を壁に押しつけると、そのまま逃げ場を与えぬ様に片手を壁へ軽く突き、そっと顔を近付けた。
「…『貴女には全てを差し上げたいわ』と」
甘く低いアルトボイスを夫人の耳元で囁くと、その形良い耳朶を唇で甘く食んだ。 雅恵夫人の体がびくり、と電気に触れた様に震え、瞳が泳いだ。
「…っ!それは…!」
「あの夜、奥様が私に仰有ったお言葉は本物なのでございましょう?私の腕に抱かれて、微塵(みじん)もご主人様に悪びれるご様子もなくご乱心遊ばされ、遂にはご自身から強請(ねだ)られるまでになられた。ですが誤解なきように。例え目的の為とはいえ、私はその時、目の前の相手を真剣に愛しておりますから…」
夫人は長い影に覆われ怯みながらも努めて主の顔を保つ。
「それなら、貴女が邸主になったなら私を主として迎えなさい。私を愛しているのならば」
瞬間、壁に突いていた執事の掌が拳を作り、凄まじい勢いで叩き付けるとそのまま夫人の髪を掴み壁へ押しつけた。
「『愛している』?何を寝ぼけた事を。私は『その時』と申し上げた筈です。ひと時、夜伽のお相手をするのに心が余所を向いていては楽しくはないでしょう?…尤も、もう二度と貴女と睦みの時を持つ事も無いでしょうが。正直、とても面倒でした。夫のある身でありながら数々の殿方と浮世を流されてきた貴女が、女が初めてという事はさておいても生娘を装うその大根芝居に付き合わされる身にもなって頂きたい。…ふふ。これで私も夜伽ごっことはおさらばできる」
す、とアスカは夫人から体を離すと彼女を一瞥し、そのまま背を向け扉へ向かおうとした。
だが、その背にすがる様に尚も雅恵夫人の細い指先が燕尾の裾を握りしめた。
「お願い…私を捨てるなんて言わないわよね?私は貴女の主よ?私を捨てるなど許される事ではないわ!」
アスカは背を向けたままその手を乱暴に払うと顔だけをゆっくり夫人へ向けた。その瞳には冷たさを通り越して憎悪にも似た熱が込められていた。
「今から三つ数える間にご退室戴けない場合、女であれ撃ちますよ?」
扉を開き、再び夫人へ体を向けると懐から銃鉄をちらりと相手へ見せる様に抜いた。無論、本気で撃つつもりなどないが初めて銃を見せつけられたのだろう。夫人は「ひい」と声にならぬ悲鳴を上げ慌てて扉から出て行った。
残ったのは令嬢が鞭打たれた拍子に破れたと思しきパジャマの白い生地と、その時に付けられたであろう傷から落ちた僅かな血痕。腰を屈めそこへ指先をなぞらせると、まだ乾ききれない血がうっすらと執事用の手袋を紅に染めた。
蒼白い月彩は血の色をも蒼銀色に染め、長い影を冷たく部屋の壁に映し、やがてそれは扉から伸びて、それが閉じられると再び静寂と闇が部屋を包み込んだ。
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