第二十四話『復讐の刻』

 その日は朝から、令嬢は何度も窓から外を見てはそわそわと視線を室内へ巡らせた。

「まだかしら。ああ…外にお出掛けなんて久し振りだわ。ねえアスカ、お洋服はこれで大丈夫かしら。霧島様はこの色を気に入って下さるかしら」

「ええ、とてもよくお似合いでございます。その緑のワンピースはお嬢様をより可憐に見せますよ」

その時、玄関ロビーにチャイムが鳴り響いた。程なくメイド長が令嬢の部屋に現れた。

「お嬢様、霧島様がお迎えにいらっしゃいました」

 丁寧に頭を下げる彼女の表情は少し堅い。アスカを意識しているのか、小さい体をより小さくさせて深々と頭を下げた。

「有難うございますメイド長。ではお嬢様、玄関までお見送り致しましょう。どうぞお手を…」

 アスカは優雅に腰を折り、王子さながらに小さな手を取るとゆっくり歩を進めながら部屋を出た。エスコートをしながらアスカは、意外にもしっかりとした足取りで玄関に向かう令嬢に安堵した。

 霧島少佐が再び屋敷に出入りする様になり、令嬢は車椅子を離れる事が多くなっていた。

 まだ長い時間歩く事は出来ないが、検査も無事に終わり、今は治療薬が与えられ体調も随分と回復し、以前より顔色もすっかり健康的になった。

 アスカが二人を乗せた車を見送ったその時、入れ違いに黒い車が敷地内の駐車場へ滑り込んだ。アスカは黒い車の扉を丁寧に開けた。

「お帰りなさいませご主人様。お待ち申し上げておりました」

 車から出て来たのは、松平秀光…美鈴の父親だった。ずんぐりとした体をグレイのスーツで包み、少しばかり白髪の混ざる短い髪を幾度か手で撫でながら少し遠慮がちに長身の女執事を眺めた。

「ただいま、と言う言葉が相応しいか分からんが、とにかく戻ってきた。君とは面接以来だねアスカ。ああ、トランクは後ろに。済まないが手伝ってくれないか。屋敷主となった君に荷物運びを手伝ってもらうのは恐縮なのだが、何分、重たい荷物は散々運んできたのでね。イタリア、フランス、ドイツ…荷物に囲まれない場所はなかったよ」

「私も丁度ご主人様がご到着なさる頃かと思いお待ちしておりましたから。荷物は私がお運び致します」

 荷物を受け取り邸内へ主をエスコートし、居間へ通すと早速紅茶を淹れ、品の良い所作で主の長旅を労った。秀光はソファに腰を下ろし暫く沈黙の後、漸く重い口を開いた。

「…今度の事は何と言っていいのか…この様な騒ぎになり君達使用人達にも多大な迷惑を…。いや。君はもう此処の主。使用人ではないな。失敬」

「いえ。まだ正式に片付いてはおりません。書面だけの主です故。それに、私にとりましては今でも秀光様はご主人様なのでございます」

 連日の取り調べで少しやつれた主の顔。少し心が痛む気がしたがアスカは常と変わらず丁寧な所作で茶を差し出した。アールグレイの香りが暖かな湯気と共に包み込む。

「どうぞ。アールグレイをご用意致しました」

「ああ有難う。頂こう。君も一緒にどうかな」

 秀光は向かい側のソファへと視線を促した。アスカは丁寧に頭を下げ「有難うございます。ご相伴に預かります」と応えると、もう一つのカップにもアールグレイを淹れた。

 秀光の向かい側のソファへ腰を下ろし主が一口紅茶を飲み込むタイミングで形式的に一口、喉へと流し込んだ。

 秀光は執事の優雅な仕草に感嘆にも似た小さな溜息を吐いた。昔、彼が仕事で訪れていたイギリスで、とある貴族の茶会へ招かれた際、慣れぬ仕草で茶をすすっていた若い頃の自分をふと思い出したからだ。

 ……あの頃の自分と今の彼女は然程歳は変わらないだろう。あの頃私は二十五だった。紅茶の作法一つ知らずに、味わうゆとりも招かれた主と話す余裕もなく雰囲気に飲み込まれて難儀していたが、彼女はイギリスの執事学校で学んだ事が幸いしているのだろうか。所作ひとつ隙なく、それでいて優雅だ。その顔立ちもまた女性でありながら中性的で美しくまるで貴公子そのものだ。社交界でも決して見劣りしないだろう……

 秀光は思わずアスカの銀の髪や。品よく着こなされた執事服の燕尾に見入った。 ふと秀光は何かを思い出したのか宙へ視線を巡らせ、頭を整理させる為に二口程立て続けに紅茶を飲んだ後、カップをソーサーへ戻し膝で掌を組み、少し体を前へと突きだした。

「使用人達は解雇にしなかったようだな」

「ええ。さちえメイド長とあきらさんは奥様からの命令によりお嬢様への虐待に加担していただけでございます。ただ、お嬢様の精神的な痛みを考慮し、一か月後には退職をお願いする事になりますが」

 アスカは窓の向こうに広がる中庭へ視線を向けた。窓に掛かったレースのカーテンはリビングの内側から外を望めても、外からは内側が見えないようになっている。財界の屋敷では、賓客などがプライベートで来訪した時の為にそういった配慮が施されている事が多く、、松平の屋敷にも居間を始め客を通す部屋の殆どは外から内部が見えないようになっていた。

 ふと居間の窓から微かに使用人達が何か楽しげに話す声が秋風に乗ってアスカの耳を掠めた。今頃は果樹園や畑で収穫の時期を迎えて忙しくしている庭師をメイド長とメイド見習いのスミレが手伝っているのだろう。

 一年前、まだ屋敷に入ったばかりだった頃に野菜や果物の収穫を手伝った事をふとアスカは懐かしく思い出していた。

「そうか。だが君は?君はもう執事ではないだろう?」

 秀光の言葉に、アスカは窓から主へ視線を戻し静かに紅茶のカップを皿に置いた。

「いいえ。私は立場がどう変わろうとお嬢様の執事でございます」

「しかし…」

「此度の件では私も軍に協力を要請されていたとはいえ、ご主人様を裏切る行為に至った事に変わりはございません。私も責任を感じております。ですが…以前からお嬢様に対する使用人達の言動は気に掛かっておりました。ご主人様や奥様にお嬢様を委ねられた身として、お嬢様が不自由な思いや不安な日々を送っている要因があるならば取り払い、徹底して御護りしたいと思った次第でございます。それは今後も続く事でしょう」

「ああ…分かっていた。君は私が見込んだ執事だ。此までの執事とは違う」

 勢いよくカップの半分まで紅茶を飲むと秀光は一つ溜息を吐き、暫く沈黙を続けた後、重々しい口調で話し始めた。

「娘は私に何も言わなかった。だが私は知っていた。雅恵が不正な人体実験を行っていた事や、使用人に娘を虐待させていた事も。…私の家は、松平の力を借りなくてはならない程に切迫した状態だった。長く続いた貴族の家柄でありながら、時代と共に衰退し、私の代で多額の負債を抱える程になっていた」

 秋の上空をとんびの群れが高く弧を描きながら羽ばたいていく。窓から注ぐ光が一瞬その影に遮られ、影は薄く室内を、そして二人の間を通り過ぎていった。

「お嬢様はそのご心痛を思い、ご主人様にもお話にならなかったのでしょう」

「ああ、そうだろう。私の抱えてしまった負債の完済の見返りに、外務関係に勤める利を生かして、松平コンツェルンを発展させる為に海外進出の手助けをする条件を呑んで再婚したのだから」

 窓から再び陽光に照らされたアスカの瞳の奥で鋭い光が走った。

「何故お嬢様をお見捨てになられたのです?お嬢様は唯一住まわれる家人でありながら使用人達に気を遣い、狭く暗い部屋で毎日を過ごしていたのです。私が此処に入った時、私の部屋よりも粗末な暗い部屋で一人、錆びだらけの車椅子に座り佇んでおられたお嬢様のお姿を私はずっと忘れる事は出来ないでしょう。貴方にお分かりですか?お嬢様がどんな思いで日々お過ごしになられていたか。どんな思いで使用人達に接しておられたか…どんな思いで痛みと恐怖に耐えていたか!」

 感情が高ぶり拳が震えた。が、声には然程感情がこもらず静かな口調に聞こえただろうか。秀光はかぶりを振りながら両手で頭を抱え、白髪交じりの髪を掻き乱した。

「娘には済まない事をしたと思っている。だからこそこの機会に妻と別れ、娘と穏やかに暮らそうと思ったのだ。今のような贅沢はさせてやれないが、二人で食べて行くにはなんとかなるだろう。幸い、少しばかりの蓄えもある」

 決心にも似た言葉を聞くやアスカの口角が上がった。瞳には相変わらず鋭い光を宿らせたまま、静かな笑みをたたえている。 アスカは膝で掌を組むと秀光へ顔を少し近付けた。

「その必要はございません」

「うむ?」

「その必要は無い、と申し上げたのです」

「どういう意味かね?」

「お嬢様は私がこのままお預かりいたします」

「養女にでも迎えると言うのか?」

「いいえ。執事としてお嬢様にこれからもお仕えいたします」

 真っ直ぐ視線を秀光へ向けたままアスカは言葉を続けた。

「このお屋敷の権限は全て私に委ねられました。後はそちらの処理を進めて頂ければ完結いたします」

「そうか。だが、こんな事件のあった屋敷など気味が悪いだろう。妻と別れたら私がこの屋敷を引き受けよう。勿論君には屋敷を買い取った分の金は…」

「いえ。折角ですがそのお話はお承け出来ません。それに、私がこの屋敷を幾らで買い取ったかご存じなのですか?失礼ながら貴方の家財、財産全て投げ打っても及ばぬ金額になりますよ?今の貴方にそれだけの財力は望めないと思われますが」

「そうだな。ではどうすればいい。此処に娘が住むという事は私も此処で住む事になるのかね?」

「いいえ。此処に住まわれるのはお嬢様のみでございます。それが条件です」

 秀光の顔色が少し曇った表情へと変わっていった。せわしなく宙を見つめた後、アスカへ懇願する様な視線を向けた。

「私の…鷹宮の屋敷は既に松平の抵当に入っている。あの屋敷の権利は雅恵にある。もうあの屋敷へは戻れない。だから新しく小さなマンションでも買って娘と二人で暮らそうと思ったのだ。物件は何軒かめぼしい場所も見つけた。娘の病院にも近いし環境も整った閑静な場所だ。これから穏やかに親子水入らずで過ごそうとしている私に一人で住め、と言うのかね?」

「その鷹宮のお屋敷も手に入れましたとも。勿論…正当な方法で」

 秀光の顔色が一気に驚愕の色に変わった。主が何か言葉を探るよりも早く先回りするようにアスカの言葉がそれを遮った。

「奥様は私に何でもお話になられました。そして私が欲しいものを何でも与えると仰有られたのです。鷹宮の屋敷は奥様から戴いたのです。勿論無償でね」

「無償で…だと?」

「奥様も余程ストレスが募っておられたのでしょう。私が奥様の戯れに一夜お付き合いをさせて戴いてからというもの頻繁にご帰宅される様になり、その度、彼女の好きなシェリー酒の甘い香りとローズの香りに包まれたベッドの中で、幾度ご主人様の愚痴や中傷めいた内容を聞かされた事か…。全く夜伽のお相手は日中の執務以上に疲れるものでございました」

 その時、激昂した秀光が勢いよく立ち上がり、向かいに座るアスカを睨みつけた。

「き…君!君は女だろう!何故その様な…女だから間違いなど無いと信じていたのだぞ!」

「女が女を抱くのがそんなに不思議ですか?奥様は、始めからそれを求めておられましたよ?」

「――な」

「とにかく、そういった訳であの屋敷を…元鷹宮の屋敷を手に入れたのです。ですから、物件をお探しになる必要はございません。私としては、元鷹宮のお屋敷は貴方へお返しするべきだと考えておりましたから」

 暫く重たい沈黙が続いた。が、突如鳴り響く電話の音にその静寂は破られた。アスカが丁寧に応対すると一つ、二つ相槌を打ち電話口を掌で押さえながら、主の部下からである事を告げると受話器を主に手渡した。

 受話器を持つ秀光の顔がみるみる青ざめ受話器が手から落ちた。がくがくと震えながら床に腰を落とすと首をうなだれ、暫く死人の様に目をぽっかり開けたまま微塵も動かず漸く口を開いた。

「燃えた…全部…無くなってしまった…鷹宮の屋敷が全焼したと部下が…」

 アスカは表情を変える事なく、未だ床に腰を落としたままの秀光へ静かな眼差しを向けた。穏やかな表情と物腰はそのままに細い指先で肩に掛かった銀の髪をそっと背に流した。

 丁度その時、ロビーの柱時計の刻を告げる音が屋敷内に響き渡った。屋敷の歴史と共に生きてきた古時計は、新たな屋敷主を迎え新しい歴史を刻む事を喜んでいるのか、或いは哀しみに暮れているのか。少し間延びした音は変わらぬものの、何処か錆び付いた音に聞こえた。

 アスカは腰を落として主に視線を重ねるとすぐに立ち上がり、見下ろす姿勢で静かに口を開いた。

「全焼とはまた運命の悪戯のようでございますね。まるで…一条家が大火に見舞われた末路を見るようだ」

 その言葉を聞くなり、消沈し項垂れていた光秀の頭が勢いよく上がり唇を震わせた。

「――っ!君…は一体…何故その事を知っている。まさか一条に生き残りが…いや、そんな筈はない!祖父は全滅したと言っていた。それに姓が違う。一体君は」

 驚愕の表情を向ける主に、アスカはまるで昔話でも語るように穏やかな声で話し始めた。

「当時、出入り商人をしていた男と、一条に仕えていた女中の二人により大火が放たれた。家人は勿論、使用人達も彼ら以外は全滅したと言われていた。また、その事件を報じた当時の新聞からもそう記録されてある。 …が、実は一人だけ生き残った一条の家人がいたのです」

「……!」

「一条家三人息子の三男、…一条邦靖(くにやす)。当時僅か3つか4つだったか。彼は屋敷で乳母として仕えていた女性と偶然近くへ散歩に出かけていた。生き残ったのはこの二人で、事件後、乳母は邦靖を養子として迎える事にした。その後、邦靖は乳母により育てられた。学校では文武両道で人徳もあった。彼が十六の頃、ある貴族の目に留まり高等課程を学びながら住み込みで秘書として雇われた。その仕事ぶりは大層主に気に入られ、邦靖が学校を卒業した後、海外への留学を勧められ資金援助を受けた。邦靖は英国の執事を養成する学校で学び三年後に帰国した。帰国後、本来ならば一般階級の人間が貴族との結婚など許される時代では無かったが、邦靖の生い立ちを知った主は一条に恩義があった事と、彼を大層気に入ったので娘との結婚を認めた。そこで邦靖は代々執事の家系を目指す事となった」

「まさか…君は…」

「そう…その乳母の名は蓮花子。以後、蓮の名は優秀な執事を出す家系となった…。いつか鷹宮への復讐を果たす為に。蓮家は代々忌まわしい宿命を背負ってきたのです」

「蓮…アスカ…一条の末裔だというの…か!」

 膝を崩したまま、絶望の声とも落胆の声とも付かぬ叫びが秀光の口から漏れた。その身体は震え、漸く上げた視線は銀髪の女神へ救いを求めるようにすがっていた。

「それで…君は私にどうしろというのだ。最早この屋敷も、また元鷹宮邸も君の手に入った。尤も鷹宮の屋敷は焼失したようだが…。私は何もかも失った。これが一条の復讐というのならば十分だろう。私は娘を連れて此処を出て行く。これからは二人で毎年一条の墓にも参ろう。これまで封印していた償いだ」

「その必要はございません。償うと仰有るならばご主人様お一人で果たして下さります様」

 アスカの手が秀光の肩へ柔らかく宛てがわれ、慰める様に立ち上がらせた。

「申し上げた筈です。お嬢様は私が預かる、と」

「わ、分かった。では娘の事は君に任せよう。娘もその方が辛い思いをせずに済むだろう。…色々とあったが、こんな形になり申し訳ない。どうか娘を宜しく頼む。新たな土地で落ち着いたら迎えに来よう」

 ふらつく足で扉まで向かおうとする秀光の腕をアスカはきつく掴んだ。

「その必要はございません。…償いは『ご主人様お一人』と申し上げた筈です」

突然、乱暴に秀光の背を部屋の奥へ押しやり懐から護身用の小銃を抜いた。小さな悲鳴を上げ女執事を呆然と見つめる秀光へ銃口を向けたまま穏やかに微笑んだ。

「一条邦靖は祖父の祖父でしたが、以来、父の代までその思いを果たす事が叶いませんでした。ですが…今、漸く私の代で家の宿命を終わらせられるのです」

「や、やめてくれ。助けてくれ!」

秀光は後退りながら必死に目の前に迫る女執事へ懇願した。が、その銃口は自身のこめかみへ移された。咄嗟に秀光がそれを止めに入った。

「君は何をするのかね。私の目の前で死ぬというのかね!そんな事をして君の先祖達が報われると言うのか。やめなさい!」

「お離し下さいご主人様。怪我をなさいますよ?」

 秀光は引かずに、アスカの手から銃を取り上げようとグリップを掴んだ。その時、銃声が部屋に響き渡り、小さな呻き声と共に重たい荷物を落とす様な鈍い音が絨毯に沈んだ。その傍らへ腰を下ろし、ゆっくり手から銃を外す長い影が伸びる。

「ですから、怪我をなさいますよ、とご忠告致しましたのに。…これが鷹宮へ対する報いなのです」

 穏やかな午秋の陽光が射す部屋の中で一人、長い影は屍となった影と重なった

 やがて、ゆっくり流れる時間が血潮と共に絨毯へ飲み込まれ、窓から差し込む秋の夕暮れが、紅色の絨毯をより深く染め上げた

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