第六話『社交界デビューの宵』

 社交界デビュー当日は綺麗に澄み切った快晴となった。催される晩餐会はその宵で、日中の空と同じく澄み、主催邸のバルコニーからは手に届きそうな程に見事な月彩が望めた。

 令嬢は今宵の為に先日仕立てたばかりのドレスに身を包んでいた。

 水色の地にレースをあしらった清楚なもので、決して華々しくはないものの令嬢の黒く真っ直ぐに伸びた髪と白い肌によく似合っていた。心なしか、いつもより顔の血色が良くみえる。 アスカは晩餐会用の執事服に身を包み、令嬢に付き添っていた。紺の燕尾は普段着用している執事服より光沢のある生地に金ボタンをあしらったもので、細い青色のリボンタイの中央に金色のの留め具を付けていた。

 会場では車椅子は使わずに柔らかなソファへ令嬢に着座を促すと、アスカはその傍らに控えた。

「どうぞ。シャンパーニュでございます」

 主催邸の給仕が恭しく、だが馴れた手つきでシャンパングラスを勧めた。

「有難うございます」

 磨かれた晩餐会用の銀のトレイから二つシャンパングラスを取ると、一つを令嬢へ手渡した。

「お酒なんて飲めないのに…どうすればいいのですか?」

 戸惑いの色を早速見せる令嬢に穏やかな笑みを向けながら、グラスを持つ細い指先を支えた。

「これは乾杯用でございます。グラスを受け取らぬという行為は失礼に当たります故…。お酒が苦手であれば乾杯の時、口元をグラスに付ける程度で構いません。勿論、出来れば一口でも喉に通した方が良いかもしれませんが、どうしても無理な場合は仕草だけで結構です」

「そう。判りました。では一口だけ頂いてみましょう」

「此方は、フランスのブルゴーニュで作られた王室でも愛飲されているシャンパーニュでございますから、口当たりもよく香りも心地良いのでお気に召されるかもしれません。お嬢様も社交界デビューを果たされたのですから、こういう物の善し悪しもそろそろ会得して頂かなくては」

 やがて主催者による乾杯の音頭に続き、会食が終わると再びホールにて談笑の時が持たれる。

 ダンスタイムに入ると場内は一気に華やぎ、着飾った貴婦人やご令嬢方が誘われるままに紳士の手を取り、優雅に中央へ集まり始めた。

 ……初めての社交界であればダンスのお相手をして、皆様に令嬢を知ってもらう方が良いだろう……

 アスカは、談笑していた他屋敷の執事達の群れから離れ令嬢の方へ歩を向けたその時、令嬢が座るソファの前で彼女の小さな手を半ば強引に取る男が現れた。白い軍服に身を包んだその男性はどうやら令嬢をダンスに誘っているらしい。  

「い、いえ…私は踊れません…ので」

「折角の宵ですよ?こんな所に一人で見ているなんて勿体ない。こういう宴席では楽しまなくては」

「ですが…私は今宵、初めてこういう華々しい場所へ来たものですから…」

「ほお。社交界デビューでしたか。おめでとうございます。では、その記念すべき宵、私と共に踊りましょう」

 白い軍服の男は一向にその手を掴んだまま放そうとせず、あまつさえ令嬢の細い肩にまで腕を回し始めた。

 つかつかと革靴を鳴らし少し早い速度でアスカが男に近付くと、彼の背後からその腕を掴み、素早く手首を後ろに回し軽く捻り上げた。あ、と声を上げる白い軍服の男が背後へ視線を向けた。

「ん?何ですか貴方は…」

 普通なら、この体勢で手首を少し捻られれば痛みに声を立てるだろう。どうやら服装だけのひ弱な軍閥貴族ではないらしい。

 突如現れた銀髪の影に驚く風もなく軍服の男は少し怪訝な表情を向けた。アスカはその腕を放し前へ回ると令嬢と男の間に立った。  

「失礼を。今拝見していれば女性に対して随分乱暴な事をなさるのですね。此方のご令嬢とお話がしたければ私を通してからにして頂きます様。私が彼女のご両親より一任を受けておりますれば。時に貴方の名は?そして身分を教えて頂こう」

「人に名を聞く前に自分から名乗るのが礼儀なのではありませんか?それに彼女と話したい時には貴方を通せとは…失礼ながら貴方は彼女のフィアンセなのですか?」

「フィアンセではございません。それに私は女です」

「え?お、女?あ、いや失礼を…。しかし女にしとくには勿体ない程美形ですね。その銀の長い髪も、切れ長の睫も。先程から愛しいお嬢様方の注目を集めていますよ?」

 悪びれる事もなく、屈託のない笑みを男は向け親指を背後のホールへと向けた。示された辺りを見れば此方を伺う視線。思わず小さな溜息を吐くと男へ視線を戻した。

「貴方がお嬢様に無礼を働いた故、その乱暴ぶりが目立ったのでございましょう。本来ならば貴方の仰る通り、人に名を尋ねる際には自身が先に名乗るべき…ではございますが、この様な選ばれた方々の集まる場所で相応しくない態度を示される方に、そう簡単に名乗れる筈などないでしょう」

「成る程。確かにごもっともです。私は霧島晃児(きりしま のぼる)と申します。階級は海軍少佐です。父は将軍で伯爵ですが、自分はまだ爵位は与えられてはおりません。以後お見知り置きを。お嬢様方…」

 大袈裟な礼をとる霧島少佐は双方へ視線を向けにやりと笑った。その笑い方が気に入らなかったが、アスカも名乗らない訳にもいかない。礼服用の燕尾の襟と姿勢を正すと、改めて頭を下げ礼をとった。

「私は松平邸に仕える執事、蓮アスカと申します。此方はご令嬢の美鈴様です」

「ああ、執事さんでしたか。道理でしっかりなさっておられると…いえ、これは失礼を。今宵は私も酒が過ぎたようです。今のですっかり覚めました。出直させて頂きましょう。それでは美鈴嬢、またご縁がございましたらお目に掛かりましょう。素敵な夜を。では」 

 少佐は再び礼をとると客の群れの中へ消えていった。

 間もなく彼の周りには他家のご令嬢方が取り囲み華やいだ雰囲気に包まれた。令嬢はその光景に楽しげな笑みを向けた。

「人気のある方のようですね。悪い方ではなさそうだけれど…」

「はい。海軍の少佐ですし、あの白い軍服が凜々しく見せるのでしょう。さて、そろそろお屋敷へ戻りましょう。初めての宴席ですからお疲れになってはいけません」

 そっと手を差し出すと令嬢の小さく白い手をとり扉までエスコートした。

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