第二十八話『愛情と憎悪の告解』
霧島から突然の別れを告げられてから令嬢は自室に籠もり塞ぎ込んでしまった。毎日彼女が楽しみにしていた茶の時間も執事が用意する菓子類へ手を伸ばす事もなくなり、一日中窓の外を眺めては時折深い溜息を吐くのだった。
そんな令嬢に、アスカは外の空気を吸わせようと声をかけ続けてきた。そして今日も…。
「お嬢様、本日はよく晴れた小春日和でございます。中庭など少し歩きませんか?紅葉もそろそろ見頃にございましょう。中庭から望む山々の錦をご覧下さいませ」
アスカは努めて明るく振る舞った。
相変わらず目の前の菓子類には目もくれず、紅茶だけをすすっていた令嬢は暗い表情のまま小さく頷いて見せた。
……彼女が首を縦に振る事は最近では珍しい。数日前、霧島少佐との逢瀬以来、午後のお茶もまともに喉を通さぬ日々だった。漸く少し落ち付き始めたか……
アスカは早速令嬢の服を整えさせると、小さな手を取り中庭へエスコートした。背で束ねられた銀髪が執事の背で緩く跳ね、令嬢の黒髪が肩から背へ秋風に流れた。
銀杏は色付き、その落葉が金色の小径を作っていた。時折、秋風に乗って金木犀の香りが落ち葉を踏みしめながらそぞろ歩く二人の間を吹き抜けていく…。
「アスカ、どうして私の事を何も詮索しないの?私は本来、こんな我が侭が出来る立場ではないのよ?」
令嬢の寂しげな声に、アスカは紺燕尾の襟を正しながら平素と変わらぬ穏やかな表情を向けた。
「人は誰しも一人で考えたくなる時がございます。苦難を受け入れなければならない状況であれば、そう簡単に口に出せるものでもございませんでしょう。言葉にしたくなった時、そしてそれを誰かに打ち明けたくなれば、私は改めてお嬢様のお話を伺おうと思っております」
「貴女は本当に優しい方なのね…。霧島様もとてもお優しい方でした。だから私、あの方を嫌いにはなりたくなかったの」
「お嬢様が霧島様を大切に思っておられる事は存じ上げております」
「貴女にも一度お話をした事があるでしょう?霧島様から正式に結婚を前提としたお付き合いを申し込まれた事を…。あのお話ね、白紙に戻されてしまいました」
アスカは、令嬢の言葉を聞きながら表情を崩す事なく一つ頷いて見せた。燕尾服に隠されたその胸中にあの夜の出来事が蘇る。
数日前、霧島少佐から執事に電話があった。令嬢が少彼の部下に送られて戻ってきた日の夜の事だった。
――「蓮様、私は美鈴様を傷付けてしまいました。あの方とのお付き合いを以前、申し出ていたのですが…本日、お断りしたのです」
電話口の向こうで霧島の声が震えているのが分かった。
「何故ですか。貴方はお嬢様を…」
「分かっています。私もあの方を…ですが仕方が無かったのです。とにかく…あの方を、美鈴様をお慰めして差し上げて下さい」
それだけ告げると、規律正しい霧島少佐にしては珍しく最後の挨拶もそこそこに電話は一方的に切られた。――
令嬢が塞ぎ込んでいる間なんとか霧島に詳しく話を聞こうとしたが、小さなこぜり合いの中で出た言葉だったのだろう、とあまり深く考えずアスカは何も手を下さなかった。
霧島少佐が令嬢を諦めるというなら今度こそ自分の手に彼女は戻る事だろう。アスカにとっては願ってもない展開ではあるものの素直には喜べなかった。
ぽつりと話を始めた令嬢へ穏やかな表情を向けながらも、複雑な気持ちで視線を向けた。
……やっと話せるまでに落ち着いたか。あの夜、霧島少佐から謝罪の電話が来た時には驚いたが。知っていたとはいえ寂しい表情をされるのは矢張り辛いものだ……
ふと歩みを止め、一歩前を歩いている令嬢の正面へ回ると、アスカは細い肩を柔らかく掴んだ。
「霧島様が前回の申し出を撤回された、と?」
令嬢は涙を浮かべ小さく頷いた。居たたまれなくなったのだろう。そのままアスカの胸元へ頭を埋め、静かな嗚咽が柔らかく支えた腕の中から聞こえた。幾度もアスカの手が彼女の髪を優しく撫でた。
「私には貴女を納得させられる程の力も言葉もございません。ですが…」
言葉の続きは胸の中で葛藤を繰り返して出て来ない。
……彼女を愛している、とでも言うのか?違う!これは愛ではない。憎しみだ。鷹宮の末裔への憎悪だ!…
――なら何故、彼女の父親と同じ事をしない?何故、彼女を手許に置く?さっさと追い出してしまえばいい。何処かでのたれ死ぬのを見ていればいい――
また黒い影が心の中で問いかけてきた。
……彼女は私のものだ。憎悪でも愛情でもどちらでもいい。この屋敷に置いて、私から離れぬ様に縛り付けて自由を奪うのだ……
これまで収めていた胸の内で、朱く燃えたぎる業火と冷たい氷のような黒い闇が渦巻きどす黒い紅蓮と漆黒がせめぎ合う。
……霧島が離れたのであれば彼女が私から離れる事はない。否、離さない。彼女は私のものだ…永遠に……!
「…どうすればいいの?私。ずっとこうして貴女の傍に居てもいいの?お願い、どうか私をお見捨てにならないで下さい。とても惨めでみっともない事は重々承知しています。今から貴女のメイドにでも何でも使って下さい。貴女ほどに満足なお仕事は出来ないかもしれません。世間知らずで物知らずですし、家事など一切やった事がありません。全て一から貴女に教わらなくてはなりません。でも一生懸命励みますから…どうか此処に置いて下さい」
「…いいえ。貴女にそんな事はさせられません。いえ、させたくありません。貴女はこの屋敷に居なくてはいけない。これは私が望んだ事なのです。貴女のお父上…ご主人様がもしお亡くなりになっていなくてもお願いしていたでしょう」
「アスカ…貴女はどうしてそんなに私に優しいのですか?私は貴女に何もして差し上げられないのに。貴女は私にして下さるばかりで…」
令嬢の寂しげな表情。その表情は鋭い刃物となり闇と炎が渦巻く心を突き刺す。
瞬間、胸の奥深くでガラスの割れる様な高い音がアスカの耳奥に響いた。その瞳の中は漆黒の闇が何処までも広がり、鋭い紅蓮の矢の様な光が宿っていた。その表情は、常に穏やかな執事のものとはまるで別人のように冷たく、そして燕尾をまとう体は熱い業火に包まれている様に見えるだろうか。
「…アスカ?」
不安げに令嬢が執事の名を呼びかける。
「そんな目で私を見るな!」
執事の手が令嬢の細い首筋へ伸びた。白い手袋越しの指先が、まるで白蛇の如くしなやかにその首へ絡みつき、柔らかく締め付けた。
「――っ!」
黒く大きな瞳を見開き、令嬢は身動きする事も出来ずに唯執事の鋭い瞳を見つめた。瞳には涙を浮かべている。今にも溢れそうなその涙の奥に黒い影が映し出している。彼女の瞳に映っている黒い影は一体誰だろうか…。
――お前は蓮アスカだ――
……そうだ。私は……
再び心の闇が問いかけてくる。細い首へ手を掛けたまま令嬢の耳元で囁いた。
「…これで終わる」
「何を…言ってるの?どうして…」
片手で絡められている細い首筋にもう片方の手が重ねられた。令嬢が恐怖に震え堅く目を閉じたその時、令嬢の頭上にぽつり、と小さな水滴が幾つか落ちる冷たさにゆっくり瞼を開いた。
「…スカ…?」
消え入る様な声で令嬢が名を呼ぶ。最早顔を上げる事は叶わないが首を絞めながら涙をこぼす執事に令嬢は胸を締め付けられた。
……なぜ泣いているの?なんて冷たい涙なの?私が居ると殺したい程に辛いの?……
言葉に出来ない執事への疑問を心の中で呟いた。アスカはそんな令嬢の胸中など知る由もなく、最後の闇の問い掛けに凍てつく氷の刃と灼熱の炎に翻弄させられていた。
……私は蓮アスカだ。そして彼女は私が初めて愛した人だ。殺してしまいたい程に……!
最後に答えを出した瞬間、心に広がる暗雲は消え細い首へ絡めていた掌がゆっくり離れた。首筋の血流と呼吸が戻り令嬢は小さく咳込んだ。
細い首筋に絡めていた掌は令嬢の背を強く抱きしめていた。
「申し訳ございません。私は…何という事を!貴女を…」
嗚咽でむせびながら声を殺し更に強く抱きしめる腕の中で、令嬢は抵抗する事もなく、唯ずっと執事の背へ細い腕を回しその背を優しく撫でた。
暫くして、令嬢は背に回されている執事の片手をとり、そっとその甲へ口付けを落とした後、その手を先ほどまで執事が絡めていた細い首筋へと導いた。
「私の父がした事は全て償う事は出来ないけれど、私の命で貴女が救われるなら。恐らく、私は義母の治験で多くの薬を投与されていますから、どのみち生きていても長くはないでしょう。同じ死ぬのならば、誰かの救いになりたいと思います」
令嬢の表情はまるで全てを悟りきった聖女の表情に見えた。アスカは導かれた手を外し令嬢の頬を伝う涙の粒を指先で拭い、そこへ優しく口付を落した。
「貴女を憎めたらどんなに幸せだったでしょう。ですが、私は貴女を愛してしまった」
「…っ!」
執事の腕が伸び再び小さな体を抱きしめた。きつく、強く…。
「アスカ…苦しい。もっと優しく抱きしめて下さい。骨が折れて…」
骨が折れてしまいそう、と言葉を続けようとしたが更にアスカの腕に力が入った。腕の中で幾度かもがき逃れようと体を動かしたが、令嬢の僅かな力では敵わない。
「動かないで。動かずに暫くこのまま…お願いですから」
腕の中で小さな頭が微かに動いた。漸く腕の力を緩めると、アスカは静かに秋空へと視線を上げた。
蒼い空が広がり、時折舞う小金色の葉が燕尾の袖や背を掠めて落ちてゆく。心の闇と業火も落ち葉と共に冷たい土へと落ちていく。まるで時が止まったかのように暫く二つのシルエットが重なった。やがてアスカは令嬢から離れると一歩引き頭を下げた。
「もう…もう二度とこの様な事は致しません。ですからどうか…どうかこのまま此処に居て下さいますか?…貴女の命を一度は奪おうとした私の傍に…」
「…アスカ」
執事の名を呟きその瞳から涙が溢れ、今度は令嬢から柔らかく執事の背へ腕を回した。染まる頬に幾筋も涙が伝い執事の腕の中へ落ちてゆく。それに応える様に執事の指先が令嬢の涙粒を拭うと、「愛している」と小さな声で囁き、抱きしめた腕に力を込めた。
二つの影は小径に刻まれ、いつか化石となっても永遠に残るだろう。
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