第三十八話『約束』
翌日、空は晴れたがこの冬一番の冷え込みとなった。窓の向こう側をぼんやり眺めながら小さく溜息をつき、扉と窓を交互に見つめた。
「お早うございますお嬢様、今朝のお加減は如何でございますか?」
令嬢の病室へいつもの様に執事が訪ねた。令嬢の表情が自然に明るいものへと変わる。
「お早うアスカ。今朝も良いお天気ね。窓から見るだけだととても暖かそうだけれど、きっと気温は低いのでしょうね」
「ええ。今朝などは霜柱が立っておりました。明日はホワイトクリスマスになるかもしれません」
「そうね。クリスマスなのね。今年は無理だけれど来年のクリスマスには二人でお祝いしましょうね、アスカ」
令嬢の心は早くも来年のクリスマスへと馳せていた。カップに茶を淹れながらアスカは楽しげに微笑かける。
「クリスマスが終われば厳しい冬を超えて、そして春を迎えるのです」
「春…ねえアスカ、私、春までに帰られるかしら?」
「勿論でございます。暖かくなる頃には退院となりましょう」
「…退院しても、貴女とあのお屋敷に住んでも…いい?」
令嬢の声が少し不安げに、か細くなった。
「良いも何も、あのお屋敷はお嬢様のものでございます。本日、あのお屋敷をお嬢様の名義に変更する手続きをとろうと思っております。構いませんでしょうか?」
「…!で、でも、あのお屋敷は貴女が…」
「ええ。一度は私が買い取らせて戴きました。ですが矢張りお嬢様に戻した方が良いと判断を致しました。私には不要になりましたから」
「不要に…?でも貴女は私のお傍にずっと居て下さるのでしょう?…もし、お屋敷が戻っても貴女が居ないのなら、そんなお屋敷はいらないわ。お屋敷じゃなくても貴女の傍に居たいもの」
令嬢の瞳が涙で潤み大きな黒い目が震えている。その涙を見たくない為にアスカは暫く背を向けていたが涙にむせぶ細い声に居たたまれなくなった。瞬間、アスカの腕が令嬢の細い背を抱きしめた。
「私は…私はずっと貴女のお傍におります。この魂ごと貴女のお傍に…美鈴」
愛の言葉など幾つ連ねても足りぬ程に令嬢への想いが溢れる…アスカの心中と同様に令嬢の心も執事への愛情に溢れていた。
「そろそろ朝の診察でございますね。私は暫く出掛けなければなりません。当面、此方へ伺う事は出来ませんが、霧島様が任務の後などにお越しになられます。私が居ない間も先生や看護師さんの言い付けを守られます様…宜しいですね?お嬢様」
「もう、私は子供ではないのよ?いつ戻って来るの?」
「いつ、という事は今はお答え致し兼ねます。ですが必ず貴女の許へ戻って参ります」
令嬢の穏やかな表情が不安なものに変わった。燕尾の袖を小さな手が強く引っ張った。
「いつ…戻ってくるの?」
もう一度同じ質問を繰り返した。その瞳と口調は一度目の問いより不安に満ちていた。
アスカはその頬へ指先をあて、黒い髪を優しく撫で愛しそうに目を細めた。
「必ず戻って参ります。それまでのご辛抱でございます。私が貴女に嘘を言った事がありましたか?美鈴」
「いいえ…でもなんだか戻って来ない様な気がしたのです。貴女が何処か遠いところへ行ってしまいそうで怖いの…ねえ、キスしてくれる?」
優しく黒髪をなでる指先。穏やかな眼差しはいつも令嬢へ向けるそれと同じ色。深い紫水晶にも似た美しい瞳の色。どこか寂しげで、でもとても強い光を宿して…。
令嬢の細い背に再びアスカの腕が回されると、そのぬくもりに甘える様に小さな頬を埋めた。埋められた令嬢の耳に掛かる美しい黒髪を指先で優しく幾度も撫でた後、アスカはそっと触れる程度に唇を重ねた。
「必ず、貴女の許へ戻って参ります美鈴。そして貴女がいつも笑っていられる様にいつもお傍に…だから怖い事などございませんよ?」
ゆっくりと腕を外すと柔らかな頬へ手を添えて、ゆっくりと唇を重ね、再びアスカの唇が耳元へ戻り、そっと囁いた。
「お大事に…そして貴女を愛しています。美鈴…」
目を細め小さく頷く令嬢の手を軽く握ると、扉の前に立ち再度首だけを令嬢へ向けた後、執事の銀色の髪がゆるく背で跳ね、やがて部屋には淡く甘い香りだけが残った。
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