第31話 遭難

 気付けば、日はとっぷりと暮れていた。

 夜の森というのは、考えている以上に暗い。鬱蒼と茂る木々が月光を遮り、僅かな光すらも届かせはしないのだ。そして温く触れるような空気はどことなく淀んでおり、また小さな羽虫が現れては顔に当たって鬱陶しいことこの上ない。

 シャルロッテ、フランソワに両手を塞がれながら、そんな暗い森の中を歩く。

 何をどう考えても、この状況の答えは一つ。


 遭難した。


「そうなんですの」


「……おい」


「しかし困りましたの。こっちだったとばかり思っていたのですけど」


 うーん、と可愛らしく首を傾げるシャルロッテ。しかし全ての元凶であるため、どう考えても好意的に受け取れない。

 そして、そんなバルトロメイの逆の手を握っているフランソワは、震えている。


「ば、バルトロメイ様! わ、わたしたち、帰れるのでしょうか!」


「いや、それは……」


「こ、怖いです! ど、どこかからヘレナ様が……!」


「ヘレナは現れんから大丈夫だ」


 これほど心から恐怖しているフランソワを見るのは初めてだ。それだけ、夜の森というのは恐ろしいものなのである。もっとも、その原因を与えた者は、今頃宮廷でくしゃみでもしているかもしれないが。

 しかし、実際に困ったのは事実だ。

 森の中での遭難というのは、一歩間違えれば命に関わるものである。

 夜の闇の中ということもあり、隣が崖になっていても気付かない場合があるのだ。そして、そんな崖から転落すれば、それこそ死の憂き目に遭ってしまうだろう。

 加えて、野生の獣も現れるかもしれない。多少ならばバルトロメイが素手で撃退する自信があるけれど、野犬などは群れをなして襲ってくるのである。そんな野生の獣に襲われては――。

 と、僅かにそう考えて。


 フランソワを見る。

 シャルロッテを見る。


 こう思うのも失礼かもしれないが、野犬が出てきたところで大丈夫そうだ。


「む……」


「あら、拓けていますの」


 草木を分けて出てきたところに、ぽっかりと拓けた空間があった。

 木々に囲まれているも、月光が届くだけ空が拓いている。見通しは良く、野営をするには適切だろうと思える場所だ。

 ひとまず闇雲に進むよりも、野営のできる拠点を作って夜を明かし、明るくなってから下山をする形の方が事故を防ぐことはできるだろう。


「フランソワ、今夜はここで休もう」


「こ、ここでですか!」


「ああ。この場所ならば見通しもいいし、火を焚けば野生の獣も襲ってくるまい」


「わかりました!」


 貴族令嬢であるフランソワとシャルロッテに野宿をさせるのは、少々気が引ける。

 だが、聞いた限り森の中で夜を明かすのは初めてでないらしいし、一晩くらいならば問題ないだろう。せめてシャルロッテの言っていた宿が近くにあるといいのだが、既に暗くなった今となっては探すことも難しい。

 ならば、せめてバルトロメイが寝ずの番を行って、二人の安全を確保すべきだ。そのためにも、場所はここが一番だろう。


「では、シャルロッテ」


「承知いたしましたの。野営の準備をいたしますの」


「俺は、周囲に何かないか探してこよう」


「あ、あの! バルトロメイ様!」


 恥ずかしそうに、そうフランソワが声を上げる。

 そんなフランソワの腹の虫が、くぅ、と可愛らしく鳴った。

 朝から今まで何も食べていないし、当然だろう。だというのに、あわあわと慌てながら腹を押さえるフランソワ。

 そんなフランソワに、思わずバルトロメイは笑みを浮かべる。


「分かった。何か食べられそうなものを探してこよう」


「うっ……! ご、ごめんなさい……!」


「構わんよ」


 さて、何を調達するべきか。

 火を焚くならば、直火焼きで食べられる肉を調達してくるべきだろうか。一応旅行とはいえ、自衛のために短剣は持ってきている。そちらを用いれば、簡単な獣の解体くらいはできるだろう。

 バルトロメイの知るとある伝説の将軍は素手で熊を解体したらしいが、バルトロメイにそれほどの技量はない。むしろ、その話自体が眉唾だと思っているくらいだ。さすがに人間、素手で獣を解体することなどできるまい。

 しかし、問題は用意する肉の種類である。

 肉にも良し悪しがあるのだ。

 脂の乗った猪や熊、さっぱりした鹿ならばまだ良いが、野犬や猿、肉食の獣といったものとなると肉が臭いのである。

 ちゃんとフランソワやシャルロッテの口にも合うものを――そう考えると、なかなか選択肢が限られそうだ。


 あとは、果物が自生しているのを見つければいいだろう。木苺や山葡萄、胡桃などがあれば助かるのだが。

 さすがに茸は毒の心配があるので、避ける必要がある。あとは食べられる野草をいくつか用意すればいいだろう。


「では、シャルロッテ、フランソワ、二人はここにいてくれ」


「バルトロメイ様、お一人で行かれますの?」


「そんな! 危険です!」


「問題ない。何度かテオロック山には登ったことがあるし、こういう森でのゲリラ戦を行った経験もある」


 事実である。今でこそ他国との関係は落ち着いているが、少し前までは戦争が途絶えることがなかったのだ。

 そんな中で青熊騎士団の一兵卒として戦に参加し、いつ終わるとも知れないゲリラ戦を行ったことも数多くある。自給自足を行わなければならないゲリラ戦は、時に野草をそのまま食んででも戦わなければならなかったのだ。

 比べれば、この程度。

 敵兵がいないだけ、ましというものだ。


「あまり遠くには行かない。もし、何かあったら大声で叫んでくれ。すぐに向かう」


「分かりました! バルトロメイ様!」


「では、わたくしも周囲の調査を行っておきますの」


「シャルロッテ、お前は動くな」


 迷う未来しか見えない。

 そんなバルトロメイの言葉に、シャルロッテは少しだけ唇を尖らせた。


「では、行ってくる」


「行ってらっしゃいませ! バルトロメイ様!」


 二人に背を向けて、暗い森の中へと入る。

 鬱蒼と茂る森の中で、野生の獣を探すのは難しいかもしれない。そして、果物は色とりどりのものがあるけれど、それもこのような闇の中では判別がつかないというのも事実だ。

 だが、バルトロメイにはゲリラ戦を数多くこなしてきた経験から、ある程度夜目が利くのである。

 それこそ、夜闇の中で離れた位置にいる敵兵を発見できる程度には。


 荷物として抱えていた袋の中から、布を取り出す。

 何かあったときのためにと、一応持ってきていた三角巾だ。一枚だけであらゆる場所の応急処置を行うことのできるこれは、広げればただの白い布でしかない。

 そんな布の四隅を握り、簡易な袋を作る。そしてその中へと、早速発見したものを入れた。


「ふむ……落ちんかもしれんな。また物品請求しなければ」


 そんなバルトロメイが発見したもの。

 それは、山葡萄である。


 通常の葡萄に比べて酸味が強く、あまり大きくないのが特徴だ。加えて皮も薄く潰れやすい。そのため、量を多めに持っていくと底のあたりは潰れてしまうだろう。

 だが、ひとまず見つけたことだし、軽く洗ってから二人に持っていくことにしよう。二人にはこれで当座の空腹を凌いでもらって、火を焚いてから何か野生の獣でも――そう、バルトロメイは顔を上げて。

 ふと、生温い風が頬に当たるのが、分かった。


「む……?」


 既に秋も深くなり、夜風は冷たく感じるほどだ。だというのに、流れてくる風が妙に生温い。

 何か熱源でもあるのだろうか――そう考えながら、生温い風の訪れてくる方向へと向かう。歩きにくい垂れた蔓や伸びきった雑草などを短剣で切りつつ、向かったその先に。

 朦々と、噴き上がる煙が見えた。


 煙であるが、焦げ臭くも何もない。そして湿気が高いそれは、恐らく湯気なのだろう。

 そして、こんな山中で湯気が上がっている――その帰結は、一つ。


「温泉か……?」


 岩場に囲まれたそこは、間違いなく湯が張られたものだった。

 まるで露天風呂として誂えたかのような場所だが、しかし周囲の鬱蒼とした茂みには、獣道以外の何もない。恐らく天然の温泉なのだろう。よく見れば、そんな温泉の端で猿が数匹入っているのが分かる。

 バルトロメイが近付いても、逃げる様子は見られない。それだけ気持ちいいということだろうか。

 そっと、その湯に触れると。


「おお……!」


 見事なまでの、適温である。この湯に浸かればさぞ気持ちいいだろうと、そう思えるほどだ。

 恐らく、野生の獣の憩いの場になっているのだろう。実際に、バルトロメイの視界には猿以外にも、鹿や兎の姿も見える。夜風の冷たい状況だからこそ、湯に入らずとも暖を求めて来ているのだろう。

 ならば一つ、バルトロメイもそれにあやかって良いかもしれない。


「よし、戻るか」


 そもそも、温泉に入ることが目的だったのだ。

 そんな温泉を発見したのだから、入ってもいいだろう。遭難した先で発見するとは思いもしなかったけれど。

 そして、ついでにフランソワとシャルロッテにも温泉を楽しんでもらおう。最初はバルトロメイが入らせてもらって、その後二人に入らせてから周囲の警戒を行えばいいだろう。妙な獣が寄ってきてもいけないし。

 やや急ぎ足で、先程の野営地――拓けた空間へと向かう。

 その途中で、流れる小川で山葡萄を洗っておくことも忘れずに。一つ一つを洗っていては時間もないので、一気に水の中に突っ込んで洗っておいた。


 あ、とそこでようやく思い立つ。

 そういえば、火を起こすようには伝えたものの、火を起こすための道具など何もないし、何より薪がない。これは食料よりも先に薪を拾っておくべきだっただろうか。

 ひとまず山葡萄だけ渡しておいて、それから薪を拾いに行けばいいだろうか――そう思いながら、拓けた空間へと到着し。

 その中央で、ちゃんと焚き火が燃えていた。


「え……?」


「あ! お帰りなさいませ! バルトロメイ様!」


「ほら、フラン。手が止まっていますの」


「はいっ!」


 かこーん、と良い音を響かせて。

 何故かフランソワはそこで、愛用の鉞と切り株の台座を用いて、薪割りをしていた。


「……フランソワ」


「はいっ!」


「……何故、薪割りを」


「はいっ! ちゃんと薪割りができるように荷物に入れておいたのです!」


 温泉旅行に持っていく荷物が、薪割りのための鉞と切り株の台座。

 しかし、それが現状どうしようもないくらいに役立つという事実が、そこにある。

 確かに、止めなかったけれど。持っていくなとは言わなかったけれど。


「……そうか」


「はいっ!」


 にこにこと微笑むフランソワを前に、バルトロメイはただ頭を抱えることしかできなかった。

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