第20話 若妻の友

「ふぅ……ただいま」


 今日も今日とて夕刻、ようやく執務から解放されたバルトロメイは屋敷の玄関をくぐった。

 いつも通りにフランソワの迎えが――なく、そこにいたのはダンだけである。

 む、と眉根を寄せる。何かあったのだろうか。


「お帰りなさいませ、バルトロメイ様」


「ああ……フランソワはどうした?」


「はい。ただいま、奥様のご友人の方々がいらっしゃっております。現在、応接室で歓談されております」


「なるほど」


 そういうことか、と納得する。

 フランソワにも交友関係はあるだろうし、そこにまで口を挟む必要はあるまい。むしろ、このように嫁入りをしてからも屋敷を訪ねてくれる友人というのは、貴重な存在なのだ。大事にさせなければならない。

 うん、とバルトロメイは頷き。


「と、いうことは風呂は沸いていないのだな」


「ええ……申し訳ありません」


「いや、別に構わん。たまには俺が沸かそう」


「そんな、バルトロメイ様に!」


「よいのだ。いつもフランソワにばかり苦労をかけている。たまには、俺がフランソワを労うのもいいだろう」


 元より、風呂の準備というのは重労働なのだ。

 まず水を汲んで浴槽に満たさなければならない。そのために井戸と浴室を何往復もする必要があるのだ。桶で運べる量など大したものではなく、そして屋敷の浴槽は広いため、かなりの回数が必要となるだろう。

 そして風呂に水を満たした次には、外の竈で火を熾し、温めなければならない。そのためには、常に竈から離れることなく風を送り続ける必要があるのだ。使用人にやらせる場合、風呂の準備担当、として一名必要であるほどの重労働である。

 それを、毎日嫌がりもせずにフランソワはやってくれているのだ。

 少しでもそれに報いるためには、バルトロメイ自らが沸かすべきだろう。


 そして何より。

 毎日ちゃんとフランソワが風呂を沸かしてくれるため、毎日入浴することが日課になってしまっているのだ。湯と布で体を拭くだけでは、きっともう満足のできない体になってしまっている。浴槽に浸かる快感というのは、何にも代え難いものなのだ。

 さて、裏庭に行くか――と、そう腕を捲って。


「バルトロメイ様っ! お帰りなさいませっ!」


 そう、聞き慣れた声が、背後から聞こえた。

 どうやらバルトロメイの帰宅を察したフランソワが、友人と共に後ろにいるようだ。ガングレイヴ帝国における武の頂点と言われるバルトロメイは決して伊達ではなく、背後に幾つの気配があるか、くらいはきっちり把握している。

 フランソワを含めて、三人。

 だがフランソワの友人であるならば、特に警戒をする必要などあるまい。


「ただいま、フランソワ」


「申し訳ありません! お出迎えもせず!」


「なに、構わない。友人が来ているとは聞いている。俺のことは気にせず、仲の良い友人と過ごしてくれていていいぞ」


「そんな!」


 だが夫として、一応友人には挨拶をしておくべきか――そう考えて、振り向く。

 フランソワと共にいたのは、女性が二人。当然だ。これが男ならばバルトロメイは殴っているかもしれない。

 片方は、随分と高そうな装飾品で飾った、黒髪の女性。着ているドレスも同じく高級品であり、その布の艶が遠目からでもよく分かる。フランソワよりも数歳は年上なのだろう、どことなく落ち着きの見える女性だ。不思議なのは、その首から下げている飾りの先についているのが、無骨なドッグタグだということだろうか。何故そのようなものをつけているのだろう。

 だが、そんな女性はバルトロメイが振り向き、その顔を見た瞬間に、「ひっ――!」と小さく悲鳴を上げた。

 直後に口元に手をやったが、しかし信じられない、とばかりに目を見開いている。

 いつも通りの反応だ。今更、何を気にするでもない。


「お邪魔しておりますの」


「む……あ、ああ」


 しかし、もう片方――左右で括った銀髪を、リボンで止めている少女に、驚きは全く見られなかった。

 バルトロメイの顔を直視しながらも全く焦った様子はなく、落ち着き払った様子でそう挨拶をしてくる。

 先の女性と異なり、それほど裕福ではないのか全体的に質素なものだ。しかし本人の気品がそうさせているのか、どことなく調和を感じさせている。そして、こちらも同じく首からドッグタグを下げている。貴族令嬢の間で、ドッグタグを装飾品にするのが流行しているのだろうか。

 だが、この少女は何より――美しい。

 バルトロメイとて様々な美姫を見てきたが、その中でも群を抜いて美しい、とそう称することしかできない。

 妻であるフランソワを前にして失礼極まりない話だが、見とれてしまったほどだ。


「あ! バルトロメイ様! ご紹介します!」


「あ、ああ……いや、別に構わないのだが……」


「こちらがマリエル・リヴィエールさんです!」


 バルトロメイの言葉など全く聞かず、まずフランソワはそう、黒髪の女性――マリエルを示した。

 なんとなく顔色が青い気がするが、それはきっとバルトロメイの姿を見たからであろう。

 だが――リヴィエール。

 その家名には、聞き覚えがある。ガングレイヴ帝国でも最大の規模を持つ商会である、アン・マロウ商会の創業者の家名だ。

 それならば、その高価そうな装飾品やドレスの数々も、理解できるというものである。


「ふむ……リヴィエールというと、アン・マロウ商会の方か?」


「はいっ! マリエルさんはアン・マロウ商会の一人娘なんです!」


「そうか。いつもフランソワが世話になっている。これからも仲良くしてやってほしい」


「そ、そそ、それは、当然ですわ! し、失礼いたしました! あ、あたくし、マリエル・リヴィエールですわ!」


「うむ……まぁ、よろしく頼む」


 随分と怯えている。

 自分の顔が女子供に好かれるものではない、ということは百も承知だが、これほど怯えられても困るものだ。

 フランソワの友人であるとのことだし、この顔に怯えて遊びに来ることができなくなった、ということがなければいいのだが。

 そして、次にフランソワが示すのは、逆側にいた銀髪の少女。


「ええと! こちらが!」


「シャルロッテですの。よろしくお願いしますの」


「ああ……バルトロメイ・ベルガルザードという」


「存じておりますの。後宮で何度も耳にした名前ですの」


 うふふ、とシャルロッテが、横目でフランソワを見る。

 そのように言われたフランソワが、かーっ、と耳まで真っ赤になっていた。


「あの頃から、フランは毎日のように『バルトロメイ様に相応しい妻になるために!』と言っておりましたの」


「ちょっ! ちょっと! シャルロッテさん! やめてくださいっ!」


「事実ですの。まぁ、わたくしも名前しか聞いたことがありませんでしたけど……」


「も、もうっ! ば、バルトロメイ様! どちらかにお出かけですか!?」


 思い切り、そう下手な話の変え方をして、フランソワがシャルロッテを黙らせようとする。

 既に皇女であるアンジェリカからそのあたりは聞いているが、まぁ、本人が知られたくないのならば聞かなかったことにしよう。

 バルトロメイは腕を捲り、肩をすくめる。


「ああ、少し、風呂を沸かしておこうと思ってな」


「はっ――! も、申し訳ありませんっ! お風呂はいつもわたしがっ!」


「構わん。たまには俺も沸かしてみよう。毎日やってくれている、フランソワよりは腕が落ちるかもしれんがな」


「そんな! バルトロメイ様にそのようなお仕事を!」


「今日は事務仕事ばかりだったのだ。少しは動いておかねばならん、と思っていたからな。鍛錬には丁度いい。ご友人方、今日はゆっくりしていってくれ」


「はい。では、もう少しお話させていただきますの」


 す、と手を出し、そのまま裏庭へ向かう。

 後ろでマリエルが「話だけは聞いていたけど、あれほど恐ろしいお顔でしたのね……」と失礼極まりない呟きをしているのが聞こえた。まぁ、マリエルもシャルロッテも後宮にいたのだろうし、女の園である後宮にいれば、このような顔に対する免疫などないだろう。

 仕方のないことだ、とバルトロメイは肩をすくめ、そのまま裏庭の井戸へ。

 そこに置いてある桶の中でも、最も多くの水を運べる特大の桶へと、水を汲み入れる。釣瓶を引いて水を汲み上げるこの作業も、何気に腕が疲れるものだ。

 そして、たっぷりと水を入れたその桶へと両手を回し、一気に持ち上げる。

 びきびきっ、と筋肉が悲鳴を上げているのが分かったが、それでこそ鍛錬になるのだ。とある皇后ほどに鍛錬馬鹿というわけではないが、それでも鈍っている体を鍛えなければならない、と思う程度にバルトロメイも鍛錬が好きなのである。

 浴室へ桶を運び、浴槽の中へと一気に水を入れる。

 それだけで、全体の一割ほどは水で埋まった。あと七、八回程度行えば、十分な量になってくれるだろう。


 バルトロメイはその後も続け、浴槽をようやく、人が入れる程度の水で満たす。

 今度は、これを沸かすために火を熾さなければならない。そして、そのためには薪を入れなければならないのだ。薪が足りなければ切らなければ、と思いつつ、浴室の裏手――竈へと出向いて。


「こんにちは」


「……む?」


 そこに。

 先程会ったばかりの、シャルロッテがいた。

 当然ながら、裏庭に来るなどとは一言も聞いていない。女性の話は長いものが多いし、現在も尚応接室で話をしているとばかり思っていたのだけれど。

 何故、こんなところにいるのだろう。


「ええと……シャルロッテ嬢、だったか?」


「ええ、そうですの」


「何故、ここに?」


 マリエルもシャルロッテも深窓の令嬢であるし、このような裏庭になど何の用事もないだろう。嬉しそうにいつも風呂を沸かしているフランソワがおかしいのである。

 そして、いくら妻帯者であるとはいえ、先程会ったばかりの男と二人きりになる、というその精神はどうなのだろう。

 勿論、バルトロメイには何をするつもりもない。だが、一般論としてだ。


「実はあなたとお話がしたくて、少し抜けて参りましたの」


「……一体、何を?」


「以前、わたくしと会ったこと……覚えておりませんの?」


「む……?」


 そんな記憶あっただろうか、と探る。これほどに美しい女性と出会っていれば、記憶に残ると思うのだけれど。

 少なくとも、目の前のシャルロッテの顔立ちに見覚えはない。

 そもそも、後宮にいた、ということはシャルロッテは貴族令嬢だ。そして貴族令嬢とバルトロメイに接点など全くなく、貴族の主催する夜会などにもほとんど参加をしない。参加すればするだけ、皆が恐怖して雰囲気を悪くするのだから。

 そんなこと分かりきっているというのに、時折誘いは来る。そしていつも断っていてもいけない、と稀に参加したりするのだけれど、その場で会ったのだろうか。

 もしも子供の頃に会っただけ、というなら忘れている可能性は高いが。


「夜会などで、会ったか?」


「違いますの」


「では……残念だが、覚えていない。すまない」


「まぁ、それは仕方ありませんの」


 うふふ、とシャルロッテが笑う。

 そのように邪気のない笑顔も、またその美しさを引き立てる。まるで神が誂えたかのような顔立ちは、美しいという言葉をもってしてまだ足りないほどだ。

 だけれど、やはり、見覚えはない。


「では、こうすれば分かりますの?」


「え……?」


 瞬間――シャルロッテの姿が消えるような、そんな感覚に襲われた。


 一瞬で地を蹴り、動きにくいドレスのはずだというのに俊敏にバルトロメイの懐に入り、その腹へと拳を伸ばす。

 だがその一瞬で力を抜き、バルトロメイの腹筋に当たったのは、ぽん、という軽い殴打だけだった。

 その、動きは。

 まるで天性のものであるかのような、格闘のために生まれてきたかのような、その動きは――。


「まさか……!?」


「ええ」


 だとすれば、どれほど世界とは狭いのか。

 あのときにフランソワの知り合いだったようだし、名前もよく似ている。というより、名前そのものが愛称だ。

 どうして気付かなかったのだろう――そう。鈍すぎる自分を呪いたくなる。


 この邂逅は、二度目。

 何故なら。


「わたくし、ロッテですの」


 あの闘技場で、最強と呼ばれていた女傑。

 それが、この目の前にいる美しい少女なのだから――。

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