第19話 帰路
「お前はフランソワの知り合いだったのか。ならば、挨拶でも……」
「――っ!」
バルトロメイがそう言い出したが、しかしロッテはそこで首を振った。
そして、ようやく足に力が入るようになったのか、立ち上がる。
仮面越しの眼差しが、バルトロメイを見て。
「……わたくしのことは、フランには言わないでほしいですの」
「え……?」
「お願いしますの。フランには、秘密にしていてください」
「そう、なのか……?」
知り合いならば、挨拶の一つくらいはしてもいいのではないか、と思うが。
だが、わざわざ仮面で顔を隠し、『ロッテ』という名前しか明かしていない彼女だ。このように、闘技場に出ているのは隠しているのかもしれない。
フランソワは後宮にいたわけだから、その頃からの知り合いなのだろうか。もしも後宮出身であるならば、何故これほどの武が身についたのか激しく謎である。多分ヘレナのせいだろうけど。十中八九間違いあるまい。
と、いうことは、ロッテも貴族令嬢だということか。
確かに、貴族令嬢が闘技場に出ている、などという噂が回れば、評判を落とす可能性もある。
そして、そのように他者の不利益になることを、喜んで人に言うほどバルトロメイは性根の腐った人間ではない。
「分かった。フランソワには、何も言わないでおこう」
「ありがとうございます。では、わたくしはこれで」
「良い勝負だった。また機会があれば」
「そのときは、今度こそ負けませんの」
ロッテと握手を交わし、それと共にロッテが退場してゆく。
それを勝者としてリングの上で見守ってから、バルトロメイもまたリングから降りた。
「さぁ、次のカードだ! ロッテがまさか負けるなんて思わなかったぜ! ちょっと巻きでやるからついてこいよーっ!」
司会者が必死に盛り上げよう、とそのように言っているのを尻目に、フランソワの元へ。
そして、どうやらバルトロメイが一喝したせいで、どうにも観衆は盛り上がりに欠けているようだ。そんなにもロッテの素顔を見たかったのだろうか。
変な空気になってしまったな、と頬を掻きながら、席で待ってくれていたフランソワの隣に座る。
「お疲れ様でしたっ! バルトロメイ様!」
「ああ。どうにか勝てて良かった」
「わたしはっ! バルトロメイ様の勝利を信じておりましたっ!」
「そうか。その気持ちが嬉しい」
「戦いの最中もっ! 声を出さないように気をつけましたっ! 前は、わたしのせいでっ……!」
「決してフランソワのせいではない。俺が弱かっただけだ」
ヴィクトルとの模擬戦で敗北したのは、ひとえにバルトロメイの心が弱かったからだ。
フランソワの声援で動揺してしまうような、弱い心を持っていたから敗北したに過ぎない。だが、フランソワにしてみれば、自分が声援を送ったから負けたのだ、と思ってしまったのだろう。
まぁ、結果的には声援がなかったために、集中して戦うことができた。
「では、そろそろ出るか。どうやら、あのロッテという女が一番強かったようだ」
「はいっ!」
引き続き始まった戦いを見るが、ロッテの鋭い動きに比べればどう見て劣る代物だ。見る価値も特にない。
フランソワと共に観衆の隙間を抜けて、出ることにする。
バルトロメイも久々に本気の戦いができて満足していたし、フランソワもまたバルトロメイの戦いを見ることができて満足そうだった。
闘技場を出てすぐのところにある喫茶店に入り、フランソワと向かい合って座る。
店員には少し驚かれたが、それでも問題なく注文を行い、暫ししてから茶とココアが運ばれてきた。
甘いココアはフランソワの注文である。
「バルトロメイ様はやはりお強いですね! 格好良かったです!」
「そ、そうか……まぁ、八大将軍として負けるわけにはいかんからな」
「わたしも出たいと思いました!」
「うむ、やめておけ」
即答で、そう返す。
フランソワの徒手格闘は、一般兵のレベルにも達していない。弓を用いた弓格闘術で、どうにか一般兵レベルだといったところだ。弓を用いれば神業を披露する腕前を持つが、武器なしの戦いでは厳しいだろう。闘技場では武器を使うことを禁じられているし。
ああ、そういえば知り合いだということは言わないにしても、フランソワの方が気づいたのではなかろうか。
一応聞いてみるとしよう。
「フランソワは、どう思った? あのロッテという女についてだが……」
「あの女性、ですか!」
「ああ。俺も軍に入って長いが、あれほど徒手格闘に優れた女というのも珍しい」
「そうなのですか!」
「うむ」
軍とは基本的に男社会だ。
そもそも女性騎士団と呼ばれている銀狼騎士団に、ほとんどの女性騎士が所属している。そして、残る騎士団に所属する女性など僅かなものなのだ。
青熊騎士団にもリヴィアという例外はいるが、女性の身で所属している者は少ない。
それだけ、男性と女性では身体面での差があるのだ。少なくとも、単純な膂力の面で男に匹敵する女、というのはそういない。
そして、青熊騎士団で補佐官をしているほど若くして出世しているリヴィアだが、彼女の場合は個人戦闘能力よりも作戦立案や事務処理能力などを評価されたのだ。恐らく、一対一でロッテに勝利することは厳しいだろう。
あと、バルトロメイの知り合いで、ロッテに勝てそうな女性など現在の皇后ヘレナくらいのものだ。
もう一人、心当たりはあるが――彼女は既に故人である。
「鋭い動きをしていた。まさに、後の先を極めた典型だな。俺も先にアストレイが敗北しているところを見ていなければ、危なかったかもしれん。フランソワはどう思う?」
「も、申し訳ありませんっ!」
「……む?」
「戦うバルトロメイ様のご勇姿しか見ておりませんでしたっ!」
ずるっ、と椅子から滑り落ちそうになる。
どうやら戦っている間、ずっとバルトロメイのことを見ていたらしい。そのために、ロッテの動きを見ていないのだろう。
それほど見ていて面白いだろうか、と思ってしまうが、口には出さない。
フランソワが暖かいココアをふーふー、と冷ましながら一口飲み、それでもまだ熱かったらしく舌を出していた。
「それほど、その人は強かったのですか!」
「ああ……強かったな。並の戦士では勝てるまいよ」
「そんなにもですか! ですが、フランはバルトロメイ様の勝利を信じておりました!」
「ありがとう」
そのように信じてくれる、というのは素直に嬉しいものだ。
フランソワとの、弓を避ける鍛錬も役立った。あれのおかげで、バルトロメイの反射神経はかなり鍛えられたのだから。
「バルトロメイ様はっ! 大陸最強ですからっ!」
「む……」
「バルトロメイ様の負ける姿など想像できない、とアレクシアさんも言っておりました!」
「ああ……そういえばアレクシアとも面識があったのだな」
バルトロメイが二十歳の頃に生まれた、腹違いの妹――アレクシア。
現在は皇后ヘレナに仕える侍女だ。元は後宮の女官だったのが、随分と出世したものだ、と思う。
そして当日後宮の女官をしていたために、アレクシアとも面識があるのだろう。
そのように持ち上げてくれる妹というのは、素直に嬉しいが。
「……俺は、決して最強などではない」
「えっ!?」
「俺は生まれてこの方、とある人に一度も勝てていないのだからな」
大陸最強と名高い英雄、バルトロメイ・ベルガルザード。
そんなバルトロメイが敗北したことは、少なからずある。前回のヴィクトルとの戦いもそうであるし、決して無敗というわけではないのだ。
だが、こと一対一の戦いにおいては、現在の大陸全ての人間の中で、バルトロメイに勝利することができる者はいないだろう。
だからこそ――これから語るのは、故人の話。
「ば、バルトロメイ様が、勝てないお人、ですかっ!?」
「ああ。ガングレイヴ帝国の歴史に残る、最強の将軍だ。当時……俺は二十五くらいだったか。何度挑んでも、一度も勝利することはできなかった」
「そんな人がいたのですか!?」
「強い、強くないの概念ではくくれないほどの人物だった。桁が違う、とさえ言っていいだろうな」
「そ、それは……どなたなのですか!?」
「かつて『銀狼将』の地位にあった、レイラ・カーリー将軍だ」
「女性なのですか!?」
フランソワが一際、そう強く驚く。
それも当然か。バルトロメイが生涯に一度も勝てなかった人物なのだから、バルトロメイを超える巨漢を想像して当然である。
だがバルトロメイは、鷹揚に頷いた。
「存在自体が、最早次元が違う人だった。今の俺でも、最盛期のレイラ将軍の前では、数秒も持たんだろうよ」
「それほどまでに!」
「少なくとも、レイラ将軍と一騎討ちで殺し合いをすることよりも、百万の敵兵に一人で挑む方が生き残れるだろうな」
「どれほど強いのですか!?」
だからこそ、存在の桁が違うのだが。
何せ、小国だったガングレイヴ帝国を、ほんの数年で大陸でも有数の大国に成長させたのは、ひとえにレイラ将軍の最前線での働きあってのことだったのだ。レイラ将軍が出陣をするだけで、十万の敵兵が逃げ出した、という話さえ聞いたことがある。
一閃で山を砕き、駆ける速度は馬より速く、レイラ将軍の駆け抜けた場所には焦土が広がる、とさえ言われていたほどだ。
彼女が最前線にいたのは、ほんの数年だ。
だというのに、ガングレイヴ帝国は百年経っても得られないだろう、と思えるほどの広大な版図を得ることができたのだ。
まさに伝説である。
「一度だけ勝利したことはあるが……その時点で、レイラ将軍は病に冒されていた。あれを勝利と呼ぶことはできん」
「そ、そんな方が、病で……!」
「もしも今でも生きていれば、ガングレイヴ帝国は大陸全土を支配しているだろうな」
ふぅ、と懐かしい思い出に浸る。
慢心していたバルトロメイを、何度となく地に伏せたレイラ。あの日々があったからこそ、現在でもバルトロメイは慢心することなく実直な軍人としてあれるのだ。
大陸最強、と呼ばれながらも決して増長しない最大の理由。
己よりも遥かに強い者を、知っているから。
だが。
そこで少しだけ――フランソワが不安そうに、顔を伏せた。
「バルトロメイ様はっ!」
「……ん?」
「あ、あの、ええとっ! そのっ! お、女は、強い方が、お好きでしょうかっ!」
「いや……」
そもそもこれまで女性に縁のなかったバルトロメイは、自分の妻に求める条件など考えたことがない。
そして、昔気質な考えであることは否めないが、バルトロメイにとって女性とは守るべき存在だ。特にそれが自分の妻だというならば、その身命を賭して守るべきだと考えている。
だからこそ、別に強さは求めない。むしろ、強い女がいい、という考えもあまり聞いたことはない。
だが、そんなバルトロメイの答えに、不安そうな表情を浮かべるフランソワ。
はっ、とそこでようやく、バルトロメイも気付く。
「こほん……」
フランソワは、思い込みが激しい。それは間違いない。そして、そんな思い込みが斜め上を突き抜けることも多々ある。
そのあたりの機微も、最近は分かるようになってきた。
つまり今、バルトロメイは失敗したのだ。
せっかくの妻であるフランソワと二人で出かけているというのに、話題に出したのは別の女――ロッテやレイラのことだったのだ。
もしかすると、ロッテに対してバルトロメイが特別な感情を抱いている、とでも考えているのではなかろうか。もしくは、故人であるレイラのことをバルトロメイが慕っている、と思っているかもしれない。
だからこそ、バルトロメイにできることは、フランソワを不安にしないことだけだ。
「フランソワ」
「は、はい……!」
「一度しか言わない。よく聞け」
「はいっ! 何でしょうかっ!」
ちらりと周囲を窺うが、ひとまず店員は近くにいない。他の客も、声が聞こえるほど近くはない。フランソワはいつも声を張っているので、フランソワの声は聞こえているだろうけれど。
それを確認して、それからフランソワの目を見て。
覚悟を決め、それから――言葉に出す。
「俺が愛しているのはフランソワだけだ」
「……!?」
バルトロメイの言葉と共に、ぼんっ、とでも音がするかのように、一気に真っ赤に染まるフランソワ。
目を見開き、固まり、そしてじっとバルトロメイを見ている。
その体を、僅かに震わせながら。
ずずっ、と一口、バルトロメイは茶を啜った。大分温くなってしまったようだ。
「ば、ばばば、バルトロメイ、様っ!? 何とっ!? 今、何とっ!?」
「言っただろう。一度しか言わない、と」
「そんなっ! 聞き逃しましたっ!」
「嘘つけ」
聞き逃していれば、そのように顔を真っ赤にするものか。
そして、そのように歯の浮くような台詞は、バルトロメイには似合わない。一度言って分かった。もう二度と言うまい。
「ば、バルトロメイ様ぁっ!」
「さて……そろそろ帰るとするか」
「うぅっ! バルトロメイ様ぁ……!」
フランソワが残念そうにそう言うが、二度と言うつもりはない。
きっとバルトロメイの顔は、今真っ赤になっているだろう。フランソワほどではなかろうが。照れ隠しに、一気に茶をあおってから立ち上がる。
会計を済ませ、店の外へ。既に夕暮れが近付いており、日は沈みかけていた。
デートはこれで終わり。
青熊将と若妻の手を繋いだ影が、傾いた日差しに長く伸びた――。
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