第三部

第25話 忘れていた慣例

 今日も今日とて、バルトロメイはいつも通り書類仕事である。

 将軍というのは忙しく、まとまった時間があまり取れないのだ。今日は午後から珍しく予定がないために、部外秘で持ち帰ることができない書類を主に片付けていた。


「そういえば将軍は、新婚旅行とか行かないんですか?」


「……む?」


 そんな仕事中、少々難解な書類と向き合いながら眉根を寄せていると、唐突にそうアストレイが言ってきた。

 ちなみに、その右頬は少し腫れている。闘技場で拳闘士ロッテに完敗して青熊騎士団の名を貶め、かつロッテとの戦いを終えてから三日間ほど体調不良で休んだ罰である。本人曰く腹痛だったそうだが、どう考えてもロッテの一撃のせいだ。

 そんな理由で右頬を腫らした愉快な顔だが、しかしいきなり何を言ってくるのか。


「どういうことだ?」


「いえ、言葉通りですけど。新婚旅行とかって予定してないんですか?」


「ふむ……そういえば、そんな習慣もあったな」


 時折、出てくる休暇願いに書かれてある理由を思い出して、そう顎に手をやる。

 新婚旅行。

 それはその名の通り、新婚夫婦が一緒に旅行をすることだ。何故そのような習慣があるのかは知らないが、これから一緒に暮らしていく伴侶と一緒に、遠い旅行地で羽を伸ばすという形であるらしい。

 知っている。

 知っているが――残念ながら、全く頭になかった。


「あれ、もしかして覚えてなかったんですか?」


「うむ……まぁ、色々と忙しかったからな」


「うわぁ……それ、奥さん怒ってないですか?」


「いや……」


 今日、家を出るときフランソワは普通の態度だった。

 新婚旅行に行きたい、などと言ってくることもなかったし。アストレイからの言葉で、初めて気付いたくらいである。

 もしかすると、言わないだけで心の中では思っているのかもしれない。せっかく夫婦になったのだから、新婚旅行をしたいと。

 態度には出ていなかったと思うけれど、バルトロメイは自分のことを鈍いと分かっている。

 気付かなかっただけで、そんなサインが出ていたとすれば――。


「む、ぅ……!」


「あー、これ本当に覚えてなかったやつだ」


「……将軍、ダメ男」


「うるさい。いや……まぁ、俺が結婚をするなど、考えていなかったからな」


 そもそも、新婚旅行も何も結婚をする予定すらなかったのだ。そういった行事に疎いのは当然である。

 だが気付いてしまった以上は、何か考えなければならない。フランソワが知らなかったとしても、気付いた以上は尽力するべきである。

 それだけ、バルトロメイはフランソワのことを愛しているのだから。


「普通は……どういったところに行くものなのだ?」


「どうなんでしょう? 人によって様々ですけど」


「ふむ……」


 アストレイに聞いてみるが、彼は独身である。まだ若いのもあるが、身を固めるよりも遊びたいと思う人間なのだ。

 そして同様に、一緒にいるリヴィアも独身である。こちらはアストレイよりも更に若いし、軍人の女で二十代独身など珍しくもないのだ。

 妻帯者である部下に聞いてみるべきだろうか。


「例えば、リヴィアならどこに行きたい?」


「……私?」


「ああ。少しでも参考にしたい」


 ここにいる人間の中で、フランソワに最も近いのはリヴィアである。

 リヴィアの出自は貴族というわけではないが、フランソワも貴族令嬢だとは思えないくらいに質素を好むため、感性は似ているかもしれない。

 だがそんなバルトロメイの質問に、リヴィアは下唇を突き出して首を傾げた。


「……家で、ごろごろしたい」


「あー、それ僕もすっごい気持ち分かる」


「……ん」


「せめて質問に答えろ」


 確かに、まとまった休みがあれば休みたいと思うのが当然である。バルトロメイとて、これまで週に一度の休みは仕事をすませるか、屋敷でのんびり過ごすくらいだったし。

 だが旅行をしようと言い出して、場所が自宅だとはとても言えない。それを言える者がいるならば、どれほど厚顔無恥なのだろう。

 アストレイが、そんな風に悩むバルトロメイに肩をすくめて。


「まぁ、普通は外国とか行くんじゃないですか?」


「外国、か……」


「三国連合とかアルメダ、リファールなんかはまだ安定してないですけど、ガルランドとかフレアキスタなら安全だと思いますし。フレアキスタの王都南公園なんかは観光地として有名ですし、砂の国ダインスレフの砂丘なんかは一見の価値がありますよ」


「ふむ……しかし、そこまで行くとなれば長い休みを取らねばならんな」


 アストレイの提案した国は、それぞれガングレイヴ帝国と国境を繋いでいる隣国だ。

 だがガングレイヴ帝国は、帝国と名を冠するだけあって広大な版図を持っている。隣国まで旅行をするとなれば、それこそ一週間は休みを取らねばならないだろう。

 そして、将軍であるバルトロメイがそれだけ不在にしては、仕事が回らなくなる恐れもあるのだ。

 さすがに、全ての仕事を押し付けて長い休暇を取ろうとは思わない。


「将軍が長い休暇を取るなら、僕らでできる仕事はやっておきますよ。さすがに承認が必要なものは後で見てもらう形になりますけど、仕事のせいで新婚旅行ができないって奥さんが聞いたら怒りそうですし」


「ふむ……」


 アストレイがそのように気遣ってくれるが、しかし押し付けるのは申し訳がない。

 だが、同時に休暇を取れずに旅行の一つもできないとなれば、今度はフランソワに申し訳がないのだ。

 何かいい手はないだろうかと、悩みながら椅子の背もたれに体を預ける。ぎしぎしと軋む椅子に揺られながら、腕を組んだ。


「……いい手が、ある」


「む?」


「どういうこと? リヴィア」


「……ん。近場で、済ませれば、いい」


「近場か……」


 それはバルトロメイも考えた。

 二日か三日程度ならば、休みは取れるだろう。休みの後に山盛りの書類が控えているだろうけれど、無理をすれば問題はない。将軍の承認が必要なものも、代理としてヴィクトルにでも承認してもらえばいい。そして彼に仕事を押し付けるにあたって、酒瓶の一つでも贈っておけばいいし。

 だが、本当にそれでいいのだろうか。

 近いところで済ませれば、せっかくの新婚旅行が手抜きだと思われるのではなかろうか。


「まぁ……いい。ひとまず、今は仕事だ。旅行については、妻と相談をする」


「わぁお、妻ですってリヴィアさん」


「……わお」


「お前ら殴られたいか」


 ったく、と新しい書類の確認に入る。バルトロメイが少しでも妙なことを言えば、すぐに悪乗りをするのが二人の悪癖だ。

 もっとも、それだけ軍の幹部が仲良くしているという騎士団は、滅多にない。他の騎士団では、将軍がいれば全員が恐れて仕事が捗らないということさえありえるのだから。

 良い部下に恵まれたなと、本人たちには絶対に言わないけれど心の中だけで思っておく。


「しかし旅行ですかー。いいなー。僕とか、もう旅行とか何年もやってないですよ」


「……同じく」


「いや、俺もほとんどやったことはないぞ」


 軍の遠征ならば、国境を渡り歩いたこともある。

 ガングレイヴ帝国の中でも最大の観光地とされる巨峰テオロック山も、登ったことがある。もっとも、その理由がテオロック山の頂を根城にしている盗賊団を捕縛するためだったが。

 覚えている限り、そういった観光を目的として諸外国へ行ったことなどないのだ。


「こういう話聞いてると、結婚したくなっちゃいますよねー」


「すればいいではないか。お前、今も交際をしている女がいるのだろう」


「この前別れちゃったんですよね」


「何をした」


「いやー、ちょっと浮気がばれちゃって」


 たはは、と笑うアストレイ。

 あまりにも自業自得な結果に、溜息を禁じえない。浮気などすれば、相手がどれほど寛大であっても怒られて当然である。

 男たる者、生涯に一人の女性を愛してこそである。


「やっぱり将軍は、奥さん一筋ですよね?」


「それは……」


 だが、そこで思い出す。

 つい先日から、屋敷で料理人として働くことになった少女――シャルロッテ。あれからダンとも話し合いをして、ひとまず料理人として住込みで雇うことになった。何故かエステルという名の侍女も一緒に。

 日中、バルトロメイの不在のときには闘技場で稼ぐと言っていたが、休日や朝夕はきっちりと食事を用意してくれるのである。

 それだけならありがたいのだが、事あるごとにバルトロメイを誘惑してくるのが困り物なのだ。

 本人曰く、愛人いけるらしいし――。


「……」


「え……将軍、まさか浮気を!?」


「ち、違う! そういうわけでは……」


「……じー」


「違うと言っているだろう! 俺は妻のことだけを愛している! 他の女に向ける目などない!」


「どう思う? リヴィア」


「……あやしい」


「うるさい!」


 ああ、もう、と頭を掻き毟る。

 シャルロッテについては、基本的に考えないようにしているのだ。他の女のことを考えるというだけでも、妻であるフランソワのことを裏切っているような気がしてならないのだから。

 アストレイのように、割り切った付き合いなどできるはずがない。


「ふーん」


「……ふーん」


「よしアストレイ、逆の頬も腫らしたいならば止めんぞ」


「やだなぁ、冗談じゃないですか」


 冷たい汗を流しながら、アストレイが慌ててそう否定する。

 まったく、悪乗りが過ぎる。多少ならば眠気も飛んでくれるし楽しいのだが、ここまで疑われると鬱陶しいだけだ。

 こほん、とアストレイが咳払いをして、小さく息を吐く。


「まぁ、でも実際のところ旅行は羨ましいですよ。近場でも奥さんには喜んでもらえるんじゃないんですか?」


「……それは、どうだろうな」


「奥さん、将軍のこと大好きみたいですし、どこでも喜びますよ。きっと」


「ふむ……」


 確かに、そうかもしれない。

 特に考えていなかったが、ちゃんとフランソワの意見も聞いておけば、より良い旅行先を選ぶことができるだろう。

 ならば、どこか近場で良さそうなところを紹介している、ガイドブックでも買って帰るべきだろうか。


 するとそんなバルトロメイに向けて、うりうり、とアストレイが肘を突き出す。

 何をしているのかさっぱり分からない。


「将軍のすけべー」


「は?」


「だって、旅行ですよ? 二人きりで羽を伸ばすんですよ? そりゃ大胆になりますよ、奥さん」


「は?」


「いや、ですから……あれ、これって知らないピュアなやつ?」


「……かも、しれない」


「どういうことだ」


 意味の分からないアストレイの言葉に、そう眉間に皺を寄せると。

 アストレイが、やだなぁ、と言いながらバルトロメイの肩を叩いた。


「そりゃもう、甘い夜を過ごすってことですよぉ」


「――っ!」


 アストレイの右頬は、色々と重なった結果バルトロメイに殴られて腫れた。

 そして、その逆――左頬も。


 バルトロメイの照れた瞬間の一撃で、同じく腫れた。

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