第32話 温泉にて
「まぁ、温泉が!」
「別のところにも湧いておりましたのね」
「ああ。周囲に危険そうなものもなさそうだし、少し入ってみようかと思ってな」
二人に経緯を説明する。
本来の目的は温泉旅行だったのだ。遭難という謎の状態には陥ったものの、温泉を発見できたのだ。折角だし入りたいというのが本音である。
もっとも、ちゃんと入っても大丈夫だという許諾を得ているものと異なり、天然のそれだ。有害な物質があるという可能性は否めないが、猿が入っても問題ない湯であるならば、それほど心配するようなものではないだろう。生き物が近付かないならばまだしも、猿が数匹気持ちよさそうに入っていたのだから。
「危険ではありませんの?」
「だが、本来の目的は温泉旅行だ。折角温泉を見つけたのだから、入ってみたいだろう」
「そうですね! わたしも入りたいです!」
「ああ。俺が先に入る。お前たちは後から入ってくれ」
まずはバルトロメイが人柱として先に入り、安全を確認すべきだろう。
もしかすると、猿が縄張りを侵害されたと襲いかかってくる可能性もある。そうでなくとも、肉食の獣も寄ってくるかもしれないのだ。そして、バルトロメイならば風呂の中でもその程度の獣は撃退する自信がある。
そしてその間、二人には火の近くにいてもらおう。野生の獣は火を恐れるものだし。
「は、はいっ!」
「承知いたしましたの」
「うむ。では、少し入ってくる」
素直にそう頷いてくれた二人に満足して、バルトロメイは山葡萄の入った布を置いてから温泉へ向かうことにした。
一応、貴重品と短剣くらいは布で巻いて、体に括り付けて入るべきか。
先程来た獣道を、弾む気持ちを抑えながら再び歩く。なんだかんだでバルトロメイも風呂は好きであり、それが天然の温泉だというならば尚更だ。どのような効能があるのかは分からないが、少しは疲労回復に繋がってくれると助かる。
「よし」
そして、湯気の沸き立つ温泉――その近くの岩場に、服を脱いで畳んで置く。
金と身分証、それに短剣を布で包み、とりあえず鉢巻のように頭に巻いておく。いざというときに、すぐに戦うことができるように。
もっとも、ただの獣ならば素手でも十分撃退できる自信はあるけれど。
そして最後に、脱いだ服をマントで包み、一まとめにしてから見える位置へと置いて。
ゆっくりと、足から温泉に入った。
「お、おお……!」
手で触れただけでも思ったけれど、体を浸けると尚更その素晴らしさが分かる。
普段の風呂よりもやや熱めのそれは、まるで体の疲れを洗い流すかのように身体中に浸透してゆくのが分かる。そして深さも問題ないようで、ひとまずバルトロメイが腰掛けて肩まで浸かれる程度だ。
「あー……」
思わず、気持ちよさにそう声が漏れる。
普通の温泉宿ならば、しっかり頭と体を洗って入らなければならないところだが、ここは山奥の天然温泉だ。夜風にやや冷えた体に温泉が心地よく、そして首から上は寒風に晒されながら、体はしっかりと温まるというどことなく贅沢な感覚を味わう。
山登りのせいでやや疲れた体を、まるで包み込むような心地よい温もり――下手をすれば、そのまま眠ってしまいそうになるくらいに気持ちがいい。
これはちゃんと、フランソワとシャルロッテにも入らせなければならないだろう。これほどの気持ちよさをバルトロメイ一人で独占するわけにはいかない。
「ふぅ……」
しかし、災い転じて福となすとはまさにこのことか。
シャルロッテが迷わなければ、この温泉を発見することはできなかった。そう考えれば、この遭難も悪くなかったかもしれない。
もっとも、これから野宿をしなければならないという残念な点はあるけれど。バルトロメイのマントはフランソワに使ってもらって寝てもらい、バルトロメイは今夜一晩、座して眠る覚悟を決める。少なくとも座っていれば、何かが寄ってきたその瞬間に覚醒をすることができるだろう。戦場で磨いてきた勘は伊達ではないのだから。
だからこそ、今はゆっくりと休んで――。
「わぁ! 本当に温泉です!」
「素晴らしいですの」
「何故来たぁーっ!?」
突然訪れたそんな二つの声に、バルトロメイは思わずそう叫ぶ。
当然ながらそれはフランソワとシャルロッテであり、バルトロメイから見える位置に二人ともいた。ちゃんと火から離れないように言ったはずなのに。言ったはずなのに!
すると、そんなバルトロメイの叫びに、きゃー、とフランソワが頬を染める。
「はいっ! 後から入るように仰せられたので!」
「そういう意味ではないのだが!?」
「少々お待ちください! バルトロメイ様!」
「おい!?」
似たようなやり取りをした覚えがある。あのとき確か、突然風呂に乱入してきたフランソワに翻弄されたのだ。
フランソワはどうやら岩場の影に隠れたらしく、その姿が見えない。そして岩場の影で何をしているのか考えたくもない。
「あら、フラン。ちょっと成長しましたの?」
「はいっ! わたしは成長期ですから! ちゃんとバルトロメイ様に相応しい体になるのです!」
「むむ……まぁ、まだわたくしの勝ちですの」
「これからわたしはどんどん成長しますから!」
岩場の影で何をしているのか――考えたくなくても、何をしているのかがよく分かる。どう考えても、風呂に入るつもりだ。
ただでさえ、一度同じことがあって、バルトロメイは倒れているというのに。
このままでは――。
「お待たせしました!」
「お待たせいたしましたの」
「何故お前まで来る!?」
そこにいたのは、フランソワとシャルロッテ。
そして、当然。
二人とも、一糸まとわぬ姿で――。
見てはいけない、見てはいけない、と必死に視線を泳がせる。フランソワの意外と服の上からだと分からない膨らみとか、シャルロッテの鍛えているが細く白い肌とか、視界にちらつくそれが全く心を落ち着かせてくれないけれど。
どうしてこうなった。
そう思いながらも、しかし若妻と愛人志望の二人は止まることなくそのまま温泉へと浸かる。
やや濁っているために、肩まで浸かった二人の体は、それ以上見えない。そこに僅かに安堵した。
「わぁ! 気持ちいいです! これが温泉なんですね!」
「露天風呂は気持ちがいいですの。わたくしも子供の頃に入って以来ですの」
「バルトロメイ様! 気持ちがいいですね!」
「バルトロメイ様、何を恥ずかしがっておりますの?」
だが最大の問題は。
何故バルトロメイの右側にフランソワがいて、左側にシャルロッテがいるのか。
それも、少しでも動けば肌が触れそうな位置に。
「う、ぐ、ぐ……!」
必死に、両隣を見ないように見ないように心を鎮める。
バルトロメイの目の前にいるのは、猿だ。それも五匹ほどである。どの猿も気持ちよさそうに、バルトロメイたちのことなど視界にすらないといった様子で浸かっている。
そのように、他者のことなど気にすることなくのんびりと浸かることができることこそ、温泉の何よりの醍醐味だ。猿はまさに、そんな温泉の楽しみ方を最大限に生かしていると言っていいだろう。
「わわ! あれが猿ですか!」
「あら。フランは猿を見たことありませんの?」
「はい! 初めてです! お顔が真っ赤ですね! のぼせているのでしょうか!」
「普通、猿は顔が赤いものですの」
「もふもふですね!」
「意外と毛は固いですの」
バルトロメイを挟んで、そのように二人が盛り上がっている。
そしてバルトロメイはというと、延々とこの拷問のような時間に耐えるのみだ。僅かにでも動けば肌が触れるならば、微動だにしない。動かない。それが紳士としての礼儀だ。
しかし、本当にどうしてこうなったのだ。
フランソワはまだ分かる。既に一度共に風呂に入ったことがあるし、名実共にバルトロメイの妻なのだ。
だが、問題はシャルロッテだ。いくら愛人志望だからといって、そのようにバルトロメイにあっさりと肌を晒してもいいものだというのか。いつだったかマリエルを含めて三人で入浴をしていたようだし、貴族の間では当たり前なのだろうか。いや、かといって男の前で肌を晒すのとはまた違う気が――そんな風に思考が逡巡して、爆発しそうになる。
「さ、バルトロメイ様」
「――っ!?」
むにゅん。
何とは言わないが、柔らかいものがバルトロメイの左腕に当たる。
それは風呂という一糸まとわぬ姿でありながら、まるでしなだれ掛かるかのようにバルトロメイの腕に手を回した、シャルロッテの体。
「わわっ! シャルロッテさん! ずるいです!」
「――っ!?」
もにゅん。
何とは言わないが、柔らかいものがバルトロメイの右腕に当たる。
それはシャルロッテに対抗するかのように、バルトロメイの右腕に抱きついて引き寄せてくる、フランソワの体。
両方から与えられる天国のような感触に、崩壊しそうな理性を必死に抑えることしかできない。
温泉に入っているがゆえの、体に走る熱――それとはまた違う、血が昇るような顔の熱さ。
ただ固まることしかできず、抵抗できない。これまで女性に縁のなかったバルトロメイにとって、この状況は全く耐性のないものなのだから。
「バルトロメイ様はわたしの旦那様ですからね!」
「ええ。わたくしは愛人で大丈夫ですのよ」
「わたしはまだ認めていませんから!」
「あら。それを決めるのはバルトロメイ様ですの。ね、バルトロメイ様」
「お、お……!」
むにゅん。
もにゅん。
両方から延々と与えられる、そんな柔らかな拷問に。
「お前たちいい加減にしろ――――――っ!!!」
バルトロメイはそう叫んで、風呂から飛び出すことで自分を律した。
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