第33話 野営
ぜーはー。
温泉へと乱入してきたフランソワとシャルロッテからどうにか逃げ出して、バルトロメイは適当な布で体を拭いてから服を着た。
温かく癒してくれるはずの温泉だというのに、逆に疲労感に溢れている。ろくに拭いておらず、まだ湿り気の残っている髪から冷たくなった水が落ち、僅かな寒さを感じさせた。
小さな手拭いくらいしか持ってきておらず、体を拭くためのものまでは持ってきていなかったのが残念だ。もっとも、本来は温泉宿に泊まる予定だったために、持ってきていないのも当然なのだけれど。フランソワたちはちゃんと持ってきているのだろうか。
目を瞑るとちらついてしまう二人の裸体を、どうにかかぶりを振ってかき消す。
「はぅぅ! バルトロメイ様に怒られてしまいました!」
「ちょっと調子に乗りすぎましたの」
「まだお怒りでしょうか!」
「ここから出たら謝罪をすればいいですの。今は温まりますの」
フランソワの心配そうな声と、シャルロッテの冷静な声が聞こえる。
怒ったというよりは、あまりにも居辛くて逃げ出しただけなのだが。そのあたりは、バルトロメイの心の弱さだ。
複数の女性と関係を持っているという、アストレイの気が知れない。ただの二人でもこれだけ苦労が絶えないというのに。
「わ、わたし、謝ってきます!」
「フラン、今は……」
「バルトロメイ様ぁーっ!」
「別に怒ってはおらんからこっちに来るなぁーっ!」
今にもこちらに飛び出してきそうなフランソワへ、そう叫ぶ。
ようやく落ち着いてきたというのに、ここでフランソワが再び現れては、今度こそバルトロメイは倒れてしまうかもしれない。女性に免疫のない身であるがゆえだが、さすがにそれはみっともない。
フランソワはまだ浴室で倒れたバルトロメイを知っているが、シャルロッテは知らないのだ。そして、バルトロメイも男である限り、女性に自分の弱いところを見せたくないというのが本音なのである。
「はっ! お、お怒りではないのですか!」
「お、怒ってはおらん! 少し、驚いただけだ! 風邪を引かないように、ちゃんと温まってくれ!」
「はいっ!」
岩場の影に隠れながら、フランソワの元気な返事を聞いてほっとする。
どうやら出てくるつもりはなくなったようだ。ちゃんと、仲の良い二人揃ってしっかり温まってくれると助かる。
その間に、ちゃんと落ち着かなければ。
大きく深呼吸をして、心を鎮める。
少々混乱はしていたが、しかしバルトロメイは一流の武人だ。己を律し、常に十全の状態でいることこそが戦士としての務めである。少々の色仕掛けを食らったからといって、そう簡単に心を乱してはならない。
その場に座し、呼吸を落ち着かせながら目を閉じる。
心が乱れているときに、最も効果的なのは瞑想だ。己の心と向かい合い、そして己の本質を問う。最終的には哲学的な思考にまで及んでしまうこともあるが、それでも別のことに思考を向けることができる。
それで、どうにか落ち着かねば――。
「シャルロッテさん!」
「どうしましたの?」
「どうやったらおっぱいが大きくなるのでしょうか!」
「わたくしに聞かれても困りますの」
「シャルロッテさんも小さいですもんね!」
「分かりましたの、フラン。殴りますの」
「わわっ!」
……。
集中だ、集中。
しっかりと瞑想をして、心を落ち着けるのだ。蝋燭の炎に囲まれているように考えて、その火を一つも消さずに。心に何の風も起こさないように、湖面の如く静かに。
しかし、そんなバルトロメイのことなど何も考えていない二人は、変わらず盛り上がる。
「ヘレナ様は大きいですの。どうすれば大きくなるのでしょう」
「ヘレナ様はばいんばいんですもんね!」
「マリエルも……あれで、意外と大きいですの……!」
「マリエルさんはたゆんたゆんですよね!」
「……巨乳なんて、滅べばいい」
「シャルロッテさん目が怖いです!」
集……中……!
必死にそう、己の心と向き合う。だが、どうしても何の物音もしない森の中では、大声で話している二人の声はばっちり聞こえてしまうのだ。
かといって、二人の声が届かない場所に行こうと思えば、仮に何か危険な者が現れたとしても対処できない。つまり、声が聞こえる位置にはいなければならないのである。
だが。
これは何の拷問なのだ。
「あ、あれですの」
「何ですか!」
「胸は揉むと大きくなると聞きますの」
「はい! それじゃわたし、揉みます!」
「きゃっ! フラン! ちょ、やめ……!」
「はうっ! 触ると案外あります!」
うぐぐ……!
仲睦まじく風呂の中で戯れる二人を想像してしまって、集中が途切れる。己をしっかりと律していなければならないというのに、不埒な想像に心が持っていかれてしまう。
ここでバルトロメイが聞いているのだと思わないのだろうか。からからに乾いた口の中に、僅かに出た生唾を飲み込んで、しかし必死に聞かないように努力する。
これはもう、完全に拷問だ――。
「お返しですの!」
「きゃはは! くすぐったいです!」
「ほらほら! ここが気持ちいいのでしょう!」
「きゃはははは!! そこだめです! 触っちゃだめですー!」
「あ、案外、ありますの……!」
「シャルロッテさん、どうかしたんですか!」
桃色の拷問は、そんな風に。
二人が温泉から上がるまで、続けられた。
「夜が明けたら山を降りる。今日はここで野営だ」
「はいっ!」
「分かりましたの」
焚き火を中央に置いてある、野営地――そこで二人にそう言いながら、バルトロメイは大きく溜息を吐く。
結局、目的の温泉宿がどこにあったのかは分からない。だが、バルトロメイの休日は今日、明日、明後日の三日間だけだ。明日には山を降りなければ、仕事に差し支えてしまう。
ひとまずバルトロメイのマントをフランソワに、荷物の中にあった替えのマントをシャルロッテに渡す。
マントというのは実に便利だ。普段はひらひらと邪魔なものでもあるけれど、こういった野営においては身を包む布が一つあるだけでも大きく違うのだ。
「バルトロメイ様は、どうなさるのですか!」
「俺は座ったままでいい。いざというとき、すぐに動けなければならんからな」
「そんな! バルトロメイ様も休んでください!」
「大丈夫だ、フランソワ。俺も軍人として、戦場で眠るためのコツは色々知っている。座ったままでも満足に眠ることができるのだ」
嘘である。
人間たる者、座っているのと横になるのでは眠りの質は異なるのだ。そして当然、横になって休んだ方が疲れが取れるのは当然である。
だが、そう嘘でも言わなければフランソワは納得してくれないだろう。どうせ普段から眠りは浅いのだから、少々寝付けなかったところで問題はない。明日の夜には屋敷にいるのだろうし、代わりにぐっすり眠ればいいのだから。
だが、そんな風に嘘だと知らないフランソワは、ほっと安堵の溜息を吐く。
「さすがはバルトロメイ様です!」
「うむ。フランソワは安心して眠ってくれ」
「はい! でもバルトロメイ様! もしも横になってお休みされるのでしたら、仰ってください! わたしが代わりに寝ずの番をします!」
「う、うむ……」
「わたくしは、普通に交代で眠りについた方がいいと思いますの」
そんなバルトロメイの意見に、そう口を挟んでくるのはシャルロッテだ。
恐らく、バルトロメイの嘘を見抜いているのだろう。猜疑的な視線をバルトロメイに向けながら、唇を突き出している。
そんなシャルロッテと目を合わせないように、バルトロメイは肩をすくめた。
「問題はない。お前たちはゆっくり眠ってくれ。俺は元々、あまり眠りが深い方ではないのだ」
「そうなのですか!」
「ああ。戦場にいると、どうしても僅かな物音などでも起きる体になってしまうものだ。夜襲などを行われた際に、すぐに動かなければならないからな」
これは本当のことだ。
現実、この面倒な体質のせいで夜中に何度も目が覚めてしまうのだし。主にフランソワのやたら大きい寝言で。
そのたびにフランソワの部屋に行っては安否を確認し、ほっとして再び寝台に戻るのがいつものことだ。そのときに、ちゃんとベッドから落ちているフランソワをベッドに乗せて。どうして毎日ベッドから転がり落ちることができるのだろう。
「まぁ……いいですの。では、わたくしは休ませていただきますの」
「ああ」
「わたしも休みます! お休みなさいませ! バルトロメイ様!」
「ああ、ゆっくり休め」
もぞもぞ、と火から離れた位置でマントを纏い、横になる二人を見る。
もう少しごねられると思ったけれど、想定以上に素直に頷いてくれた。恐らく、突然の山登りと遭難のせいで二人とも疲れていたのだろう。
程なくして、フランソワの眠っている方からは微かな寝息が聞こえてきた。
「……」
ふぅ、と小さく嘆息。
色々と間違ったことはあったけれど、これも一つの経験として良かったのかもしれない。少なくとも、森の中で天然の温泉に入ってそのまま野営をするような旅行など他にあるまい。
だが、新婚旅行が台無しになったのは間違いない。さすがのバルトロメイでも、これを新婚旅行だとは呼べないし。少なくともシャルロッテが一緒にいる以上、もう新婚旅行ではなくただの旅行だ。それもサバイバルの。
またいつかの機会で、ちゃんとした新婚旅行に連れていこう――そう、心に決めて。
「バルトロメイ様」
「……む?」
どうやらまだ眠っていなかったシャルロッテが、顔だけ出してそうバルトロメイの名を呼んだ。
フランソワの方は完全に眠りについているようで、どうやらシャルロッテはそれを待っていたようだ。フランソワに聞かせたくない話でもするのだろうか。
誘惑してくるのならば、全力で振り切るけれど。
だが、そんなシャルロッテは悲しげに目を伏せて。
「……申し訳ありませんの」
「どうした?」
「わたくしが道に迷わなければ……こんなことにはならなくて。折角の新婚旅行を、こんな野宿で」
「……」
今にも泣きそうな顔で、そう謝罪をしてくるシャルロッテ。
確かに全ての元凶ではあるけれど、そのように殊勝に謝られてくると、糾弾する気持ちも失せるというものだ。
シャルロッテは善かれと思って、近場の温泉であるここを紹介してくれたのだ。そしてシャルロッテにしてみても、幼い頃に一度行ったことがあるだけだったとのことだし、詳しく覚えていなかったのだろう。
もう過ぎたことであるし、それを今更問い詰め、叱るようなつもりはない。
何より、フランソワは楽しそうだし。
「気にするな」
「……ですが」
「そうそう、いないだろうよ。新婚旅行に出掛けてみれば、そのまま遭難したなどという者はな」
「……申し訳」
「だからこそ、良い思い出になった。見てみろ、フランソワのあの顔を」
くくっ、とバルトロメイは苦笑しながら、眠るフランソワを手で示す。
その顔は幸せそうな笑顔だ。悲しそうな素振りなど何一つない。遭難したという事実は怖がっていたけれど、それだけだ。
温泉自体は幸せそうに入っていたし、このように野宿をすることにも何の抵抗もなかった。貴族の令嬢だというのに、何の文句も言わずに地面で寝ることを承諾してくれたのだ。
それだけ、フランソワはこの旅行を楽しんでくれたのだろう。
ならば、成功だ。
「……幸せそう、ですのね」
「だろう? こちらが悩んでいることが馬鹿馬鹿しくなってくる。今日のことは、フランソワにとっても良い思い出になったはずだ。だから、それほど気に病む必要はない」
「ふふ……」
シャルロッテが、そう微笑む。
それは、眠るフランソワに対して、これ以上ないほどの慈愛の視線を向けるバルトロメイに対して。
「どうかしたか?」
「いいえ……本当に、罪作りなお方だと思っただけですの」
「む? どういうことだ」
「お気になさらず。では、わたくしは眠りますの」
シャルロッテがそう言って、マントの中へ顔を隠す。
やはり、シャルロッテも疲れていたのだろう。ようやく、これで二人とも眠ってくれたか。
疲労感に大きく溜息を吐いて、それから軽く薪を火の中に入れてから、バルトロメイも顔を伏せた。
少しでも休んでおかねば。
「バルトロメイ様っ!」
「む?」
むくり、とそのまま顔を上げる。
特に混乱はしない。どうせ、いつも通りのフランソワの寝言だ。いつも大抵、そうやってバルトロメイの名を呼ぶのだから。
恐らくフランソワの夢に登場しているのだろうけれど。
「愛しておりますーっ!」
「うむ。俺もだ」
「すぴー……」
向こうには聞こえていないだろうけれど、返事だけしておく。
そして、相変わらず幸せそうな顔で眠っているフランソワに、微笑んだ。
「バルトロメイ様」
「……む?」
そして、隣からそうバルトロメイを呼ぶ別の声。
当然ながら、シャルロッテだ。まだ眠っていなかったのか、フランソワの声で起きたのかは分からないが。
恥ずかしそうに、マントから目だけを出して。
「わたくしも愛しておりますの」
「ぶっ!?」
「では、お休みなさいませ」
ばっ、とそのままマントの中に入り込むシャルロッテ。
思わぬ言葉に、混乱しながら。
多分今夜は眠れない――そう、一晩中起きていることを、覚悟した。
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