第37話 エピローグ
「むぅ……」
屋敷の廊下を、バルトロメイは忙しなくうろうろと歩き回っていた。
一つの扉の前を、ただ歩いているだけだ。ただ全く落ち着くことなく、延々と動き回っていること以外は。
そわそわとした気持ちが、全く落ち着いてくれない。
そんなバルトロメイを見ながら、扉の前に設置された長椅子に座っているシャルロッテが、呆れの溜息を吐いた。
「バルトロメイ様、お座りになった方がいいですの」
「むぅ、だが……」
「バルトロメイ様がいくら心配なされたところで、頑張るのはフランですの」
「……」
シャルロッテの言葉に、黙り込む。
フランソワの妊娠が発覚してから、バルトロメイはフランソワの体を、何よりも心配するようになった。もう一人だけの体ではないのだ、と薪割りや水汲みなどの力仕事の全てを他の使用人に任せ、朝の鍛練も軽く汗を流す程度に留めるようになった。
もっとも、フランソワはそんなバルトロメイの心配を余所に、仕事に行っている間に薪割りをしていたらしいのだけれど。本人曰く、「運動していた方が元気な赤ちゃんが産まれるのです!」とのことだった。
「バルトロメイ様、お茶はいかがでしょうか?」
「……ダン」
「心配をされるお気持ちは分かります。ですが、奥様のお体のことを想って、わざわざ皇后陛下が宮医を派遣してくださったのです。それなのに、それほどご心配をされるのは失礼となります」
「だが……」
「まずは、バルトロメイ様が落ち着いてくださいませ。気分が落ち着くというお茶を淹れました」
「……うむ」
どうしても心配になってしまうけれど、ひとまずシャルロッテの隣に座ることにする。
そして同時にダンが、そんなバルトロメイの目の前に爽やかな香りのするお茶を置いた。少しでも落ち着かねば――そう考えながら、一口それを含む。
だが、それだけだ。
足は落ち着くことなく揺れ、すぐに立ち上がり、うろうろと扉の前を往復する作業に戻るのである。
「……はぁ。こういうとき、殿方は臆病ですの」
「シャルロッテ、だが……」
うろうろと往復する扉の向こう側では、フランソワの苦しそうな声が聞こえてくるのだ。宮医がそれを励ましているのであろう声も聞こえる。
フランソワが今日、痛みを訴え出したのは昼過ぎのことだ。そして、既に日もとっぷりと暮れているにも関わらず、未だに産まれてくれる気配がないのである。あまりにも時間がかかりすぎではないか――そう心配になってたまらず、何かあったのではないかと邪推してしまう。
シャルロッテからもダンからも、落ち着くように何度も言われているのに、だ。
「仕方ありませんよ、シャルロッテ殿」
「……わたくし、それほど心配になる理由が分かりませんの」
「バルトロメイ様にとっては、初めてのお子ですから。無事に産まれてくれることだけを祈っているのです。小生も初めての息子が産まれたときには、全く落ち着くことができませんでした」
「ふぅん……そんなものですのね」
「そういうことです。人生で一度しかない経験ですからね」
相変わらず扉の前を往復し続けるバルトロメイを見ながら、二人が小さく息を吐く。
そんな二人の言葉も聞こえず、バルトロメイはひたすらに扉の向こうを心配し続けるだけだ。戦場ですら全く焦ることのないバルトロメイだというのに、フランソワのことに関しては全く落ち着いてくれない。
産まれるまでは入るな――そう宮医から言われているために入ることもできず、ただただ徘徊を続けるだけだけである。
すると――そこで、玄関のノッカーがごんごんと激しい音を立てた。
「おや……」
「客か? こんなときに……」
「小生が出てまいります。用件次第では、バルトロメイ様はお忙しいので無理だと答えておきましょう」
「頼む」
さすがに、今の心境で客の相手をする気にはならない。
そもそもフランソワのことが心配で、ここ十日ほどずっと仕事を休んでいるのだ。仕事が滞るとか、もうそんなことは何も関係ないとばかりに投げ出した。本当ならば溜まりに溜まっている代休を全部消化したかったくらいだが、アストレイが「無理です!」と心から叫んできたために、産まれるまでという条件をつけて休んでいるのだ。
もっとも、そのせいで仕事の相談や書類の処理などのために、事務官やアストレイが屋敷へやってくることも多いのだが。
恐らく、今日もそういう輩が来たのだろう。だが、今日に限っては相手をしていられない。
フランソワは、扉の向こうで頑張っているのだから――。
「あ、あの……! ちょ、ちょっとそちらは……!」
「産まれたか!?」
すると。
随分と聞き覚えのある声が、玄関から響いた。
よく通る高い声。それは、戦場に赴けば数多の敵兵を震え上がらせた声音。
ドレスの裾を持ち上げて、階段を駆け上がる皇后――ヘレナの姿がそこにあった。
「あ、ヘレナ様」
「ヘレナ!? 何故ここに!?」
「まだだな! よし! いいところで来ることができた!」
そう、開いていない扉を見つつヘレナが笑う。
皇后がこんな屋敷にやってくるなど、どれだけフットワークが軽いのだろう。そう、あまりにもフリーダムすぎる皇后に溜息しか出てこない。
シャルロッテが、小さく嘆息。
「わたくしが言いましたの。今日あたり産まれそうだと」
「そう聞いては落ち着いていられないでしょう! バルトロメイ様とフランソワの子が産まれるとあっては、全ての予定を断って走ってきましたとも!」
「……おい」
ジト目でシャルロッテを睨みつけるが、しかし飄々と躱される。
そして、そんなヘレナを玄関で止めることのできなかったダンが、溜息を吐きながら戻ってきた。恐らくヘレナと一緒に来たのであろう、アレクシアと共に。
アグレッシブすぎるヘレナの行動ではあるけれど、親しい友人であるフランソワのことを想ってのことなのだろう。アレクシアやファルマスにしてみれば、迷惑極まりないことだろうけれど。
「フランソワ! 頑張れ! お前ならば元気な子を産める!」
そして、ヘレナはそう扉の向こうへと叫ぶ。
激励をしているつもりなのだろう。本人に聞こえているのかどうかは分からないけれど。
「はい! ヘレナ様!」
聞こえていた。
普段から大きな声だが、扉越しでも十分に聞き取れるほどだった。下手に声をかけて、子供を産む際の呼吸などに影響してはいけないと遠慮していたバルトロメイが、馬鹿らしくなってくるくらいに大きく。
可能ならば、バルトロメイだって声をかけたい。
声をかけて、ここでフランソワと子供の無事を祈っていると――。
「フランソワ!」
「はいっ! バルトロメイ様!」
我慢が、できなかった。
ただじっと待ち続ける――そんなことはできない。声をかけられるのならば、声が届くのならば、少しでもフランソワの近くに自分が感じられるように。
ここで待っていると、そう伝えるのだ。
「待っている! 元気な子を産んでくれ!」
「は、いっ! バルトロメイ様っ! うぐっ……!」
「どうか無事に産んでくれ! 信じている!」
「ふぎぃぃぃぃっ! は、はいっ!」
フランソワの苦しそうな声を、扉の向こうでただ聞き続けることしかできない――そんな自分を恨みたくなる。
出産とはこれ以上ないほどの痛みが伴うものだ。そのくらいのことは知っている。ゆえに、その痛みを全く分かってやれない自分が、苦しくてたまらない。
ただ、ただ、ここで無事を祈るだけ――。
「お前ならばできる! 気合を入れろ! 私の訓練を思い出せ!」
「はいっ!」
ヘレナもまた、激励の言葉をかけ続ける。
そして、それを皮切りに。
「フラン! わたくしも! あなたの子を抱くのを楽しみにしていますの!」
「頑張ります!」
「奥様! どうか! どうか! バルトロメイ様の子をお見せくださいませ!」
「はいっ! ダンさん!」
「フランソワ! 俺の子を、元気な俺の子を、見せてくれ!」
「はいっ! バルトロメイ様っ!」
ぎぃっ、と。
そう激励の言葉をかけるバルトロメイたちの前で、ゆっくりと扉が開く。
僅かに、顔だけを出すことのできるほどの隙間が開いて、そこから見えたのは宮医の連れてきた助手の女性だった。
そんな彼女が、ジト目でバルトロメイを見て。
「もう少し静かになさってください」
「あ……すみません」
怒られた。
同じことを繰り返さず、バルトロメイは無言で腕を組んで徘徊し。
ヘレナは待ち時間が退屈だとばかりに腕立て伏せを始め。
シャルロッテは折角だからとその隣で一緒に腕立て伏せをしつつ。
アレクシアとダンは、そんな二人を呆れながら見ながら。
その瞬間は――やって来た。
「――っ!」
バルトロメイの耳に、間違いなく聞こえた。
それは――その声は、これまでのフランソワの痛みの呻きではない、泣き声。
微かながら、しかし間違いない命の鼓動が感じられる声。
バルトロメイのみならず、ヘレナ、シャルロッテ、ダン、アレクシア全員が立ち上がる。
誰もが理解したのだ。
今この瞬間に――産まれたのだと。
ぎぃっ、と扉が開く。
その向こうにいたのは、笑顔を見せる宮医の男性だった。
「おめでとうございます」
「――っ!」
「元気な男の子が産まれました。中へどうぞ」
「フランソワっ!」
宮医の言葉を最後まで聞くことなく、部屋の中へと飛び入る。
そこにいたのは、寝台の上で横になっているフランソワと、その胸に抱かれた小さな体だった。
普段の快活さは欠片もなく、疲れ切った顔で。
しかし――フランソワは、笑顔を見せた。
「バルトロメイ、様……」
「ふ、フランソワ……! 大丈夫か!」
「はい……少し、疲れました……」
「ゆ、ゆっくり休め! た、大変だったな!」
既に、夜中が近い。これほど長い間、ずっと痛みに耐え続けていたのだ。フランソワの疲労はかなりのものだっただろう。
だというのに、全く気の利いたことを言ってくれない自分を呪いたくなる。もっと、こう、あるだろうに。
しかし、そんな気の利かない言葉しか言わないバルトロメイに対して、フランソワは弱々しく笑って。
「バルトロメイ様……わたしと、バルトロメイ様の、子供です……」
「む、む……!」
フランソワの胸で、眠る赤子を見る。
まだ肌が赤く、目も開いておらず、しかしフランソワの胸に触れながら寝息を立てている。無意識の中でも分かるのだろう。今触れているのが、母親の肌であると。
バルトロメイは、そんな赤子に手を伸ばす。
布を巻かれた体――その背中をそっとひと撫ですると、それだけでくすぐったそうに体を捩らせた。
「俺の……子……」
「はい……」
「フランソワ! よく頑張ったな! 無事か!」
「ヘレナ様……」
部屋へ入ってきたヘレナが、嬉しそうにフランソワの抱く赤子を見る。
そして嬉しそうに、そんな赤ん坊を撫でるバルトロメイの背中を叩いた。
「父親、ですね」
「……ああ」
「これから、しっかり頑張らないと」
「……ああ」
感動に震えて、ヘレナの言葉に対しても生返事しか返すことができない。
子供ができるということは、分かっていた。だが、実際にこのように目にすると、まるで夢のように思えてしまう。
フランソワと、自分の子供――守らなければならない相手が、二人に増えたのだ。
「バルトロメイ様……」
「う、うん? どうした、フランソワ! 痛むか!」
「いえ、申し訳ありません……」
「な、何故謝る!?」
突然、フランソワがそう謝罪してくることに困惑する。
一生懸命に頑張って、自分の子供を産んでくれたのだ。謝ることなど何一つない。むしろ誇るべきことだというのに。
だが、フランソワはそんなバルトロメイに対して。
「わたし、バルトロメイ様のことを、愛しています……」
「お、俺もだ! 当然だろう!」
「でも、ごめんなさい……」
苦笑しながら、胸ですやすやと眠る赤子の髪を撫でて。
にへっ、と頬を綻ばせながら。
「世界で、二番目になってしまいました……」
一瞬、意味が分からずに戸惑う。
だが同時に、バルトロメイも苦笑した。
バルトロメイとフランソワの、愛の結晶――我が子に対して、無条件の愛を注ぐのは当然だ。
世界で一番愛する我が子ができたのだ、と――。
「うむ……そうか」
「はい……バルトロメイ様……」
「だが、俺は少し違うな」
子供ができた。それは素直に嬉しいことだ。
そして、そんな我が子を産んでくれたフランソワが、心から愛しい。
ゆえに。
「俺はどちらも、世界で一番愛しているぞ」
フランソワを抱き寄せる。
バルトロメイの胸の中で、もう一度フランソワが笑った。
フランソワの胸に抱く赤子に、願いを込めてバルトロメイは祈る。
どうか、顔だけはフランソワに似てくれ――と。
青熊将と恋する若妻/筧千里 カドカワBOOKS公式 @kadokawabooks
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