第36話 幸せのかたち
波乱の新婚旅行から、四ヶ月が過ぎた。
なんだかんだで仕事も忙しく、あれ以来旅行の類には行けていない。周辺諸国との関係が悪化したわけではないが、それでも騎士団にはやることが多いのだ。特にガングレイヴ帝国は、今から三十年ほど前に一気に版図を拡大したという歴史がある。急激に成長したために国全体の治安は悪化し、一時は各地に盗賊団が蔓延ったこともあったのだ。
加えて、一年以上続いた各国との戦乱で疲弊した地も多く、そのあたりに出没した賊の討伐も多い。幸いにして遠征をすることこそなかったが、近くの盗賊団は記憶に残っている限り、この三ヶ月で五つは討伐した。
「ふぅ……」
そして、盗賊団の討伐に赴いたら、当然ながら仕事は滞る。そのあたりの調整も含めて、忙しなく働いているのだ。
今日も出仕すれば、山のような書類が積まれているだろう。それを考えるだけで、絶望的だった。
「お待たせいたしました! バルトロメイ様!」
「うむ」
既にフランソワ、シャルロッテとの朝の鍛練を終えて、朝食である。
今日もいつも通り、軽く体を拭いてきたフランソワは食堂へやってくるといつもの指定席である、バルトロメイの前へと座った。そして、同じく体を拭いてきたシャルロッテも、そのまま厨房へと入ってゆく。
いつもながら、シャルロッテはぎりぎりまで厨房に入らないのに、何故きっちりと料理を用意できているのだろう。
ダンとシャルロッテが一皿ずつ、朝食を運んでくる。
ああ、腹が減った――そう思いながら、一口食べると。
「うっ!」
「む……?」
「え……え? ば、バルトロメイ様……えぷっ! し、失礼します!」
「へ……?」
何故か。
フランソワは一口食べただけで口元を押さえて、そのまま走って食堂から出ていった。
「ど、どうした……?」
突然にそのように吐き気を催すとは、何か病気ではないのだろうか――そう、思わず心配になってしまう。
狼狽しながら立ち上がるが、しかし既にフランソワは食堂の外まで走っていってしまった。
「おや……奥様は、どうされたのですか?」
「あら。フラン……?」
すると、二皿目を運んできたダンが、一口だけ食べているだけの空席を見てそう問いを投げる。
同じくシャルロッテもそれに続いて料理を運びながら、疑問に首を傾げていた。
「分からん。何故か、一口だけ食べて慌てて出て行った」
「……ご気分でも、優れないのでしょうか?」
「かもしれん……」
ううむ、とバルトロメイは腕を組む。
フランソワに何かあっては困る。もしも体調不良ならば、今日にでも医者に連れていった方がいいかもしれない。
特に鍛練中は妙な様子などなかったのだけれど、もしかすると無理をしていたのかもしれない。もしもフランソワが病気であるならば、ダンに付き添わせて医者に連れていく方がいいだろう。残念ながらバルトロメイは仕事だ。非番であれば、付き添って医者へ行くのに――。
すると、青い顔をしたフランソワが食堂へと戻ってきた。
「うぷっ……も、申し訳ありません……!」
「フランソワ、一体……?」
「い、いえ! す、少しだけ、吐き気がしまして……!」
「むむ……」
ハンカチで口元を押さえているけれど、恐らく吐いてきたのだろう。
それほどまでに吐き気が生じるとなれば、それは恐らく病気だ。
そして、妻であるフランソワがそのように病気に罹っているとなれば、心配するのは夫として当然だ。そして、医者にかかるのも薬を処方してもらうのも高価ではあるけれど、それがフランソワのためならば全く惜しくなどない。
「ダンよ」
「は、バルトロメイ様」
「今日は、フランソワを医者に連れていってやれ。馬車を手配しろ」
「承知いたしました」
「ば、バルトロメイ様! そのような……!」
「よいのだ。フランソワ、お前には元気でいてもらわねば困る。せめて何の病気か分かれば安心だ」
「あ、ありがとうございます……!」
しかし、鍛練中は本当に何の奇妙な動きもなかったのだ。
いつも通りの弓の冴えはあったし、走っている姿にも無理をした様子はなかった。一体、本当に何があったのだろう。
ううむ、と疑問を抱きながら、バルトロメイは朝食を終える。
しかし――目の前のフランソワは、一口も食べようとはしなかった。
「フランソワ……食事は」
「あ、あの……! も、申し訳、ありません! 食欲が……なくて……!」
「ふむ……」
吐き気に食欲減衰ということは、消化器系の病だろうか。
そのあたりも、バルトロメイの素人判断で行うわけにはいかないだろう。ちゃんと医者にかかり、その上で診断してもらわなければ。
「フランソワ、ちゃんと昼間に、医者に行くようにしてくれ」
「わ、わかりました……!」
「ダン、何があったかを、後ほど報告しろ」
「承知いたしました」
「では……すまんがフランソワ、俺は仕事に行ってくる」
「は、はいっ!」
フランソワの体調が悪いのに、仕事に行くのも申し訳がない。だが、現在のところ命に関わるようなものではなさそうだし、ダンに医者へと連れて行かせて、その後に報告を聞いたので大丈夫だろう。
フランソワ、シャルロッテ、ダンに見送られ、そのままバルトロメイは仕事に向かう。当然、フランソワが愛情込めて盛り付けた弁当を抱えて。
だが。
仕事中、フランソワのことばかり気になって、全く集中できなかった。
「ああ、もう……」
定時ですぐに仕事を終え、できる仕事は家で行うと持ち帰り、とにかく早く帰ることができるようにとバルトロメイは家路を急いでいた。
いつも通りに乗合馬車に揺られながらも、しかし心は全く落ち着かない。普段ならば何も思わないところを、これほどまでに乗合馬車とは遅かっただろうかと不機嫌ばかりが走る。
そして、ただでさえ人を寄せ付けない凶相に加えて不機嫌なバルトロメイの顔は、直視すれば泣く子がショックで死ぬレベルである。決して機嫌を損ねてはいけない――そう誰もが考えているようで、普段ならばそれなりに騒がしいはずの乗合馬車の中は沈黙に溢れていた。
バルトロメイの募る苛立ちとは裏腹に、乗合馬車は普段と変わらない時間に停留所へ到着する。
乗客を押しのけて急いで出て、そのままバルトロメイは走った。
「フランソワ……!」
全く仕事に集中できなかった。
嫌な想像ばかりが渦巻き、フランソワの身に何があったのかと心配で心配でたまらなかった。
とにかく今は、フランソワの顔を見たい。医者に行った結果、何があったのかをすぐにでも聞きたい。
そして、そのために普段は歩く帰り道を、ひたすらに走る。
当然ながら、泣く子もギャン泣きする顔の大男が真剣な眼差しで疾走していると、それだけで女子が悲鳴を上げ子供が泣き喚き、老人が腰を抜かして店の主人が騎士団に通報する。
だが、そんな周囲の風景すらも全く気にしないほどにバルトロメイは必死だった。
「フランソワっ!」
屋敷に到着して、扉を開いてすぐにバルトロメイは叫ぶ。
すると、玄関にいたのはシャルロッテだけだった。フランソワの姿も、ダンの姿も見当たらない。
どこにいる――そう、焦っていると。
「お帰りなさいませ、バルトロメイ様」
「う、うむ……フランソワはどこだ!」
「恐らく、裏庭でお風呂を沸かしていると思いますの。普段より早いお帰りですし」
「そ、そうか……」
ほっと、安堵する。
まだ医者から帰ってきていないと言われると、どうしようかと思っていた。
すると、そんなバルトロメイを見ながら、シャルロッテがぽっ、と頬を染める。
「バルトロメイ様、わたくし、いつでも大丈夫ですのよ」
「は?」
「次はわたくしの番だと思っておりますの。ご遠慮なさることありませんの」
「……いや、何を言っている?」
「まぁ、ちゃんと誘惑させていただきますの。バルトロメイ様も殿方ですものね」
うふふ、とやはり妖艶な笑みを浮かべるシャルロッテ。
一体何が言いたいのだろう――そう疑問には思うけれど、それ以上聞かない。
とりあえず今は、フランソワだ。
バルトロメイは急ぎ足で、裏庭へと向かう。
「やぁっ!」
「奥様、あまりご無理はなさらぬように」
「大丈夫です! 薪割りはわたしの仕事ですから!」
そこで――いつもと変わらない様子で、フランソワが薪割りをしていた。
その近くでダンが備えているのは、一応万が一に備えてだろうか。やはり刃物を扱うわけだから、心配になるのも当然である。
本当に、普段と変わらない。
体調が悪いのではないかと、そう心配していたのだけれど――。
「フランソワ」
「はうっ!? えぇっ! バルトロメイ様!? い、いつもより早いです!」
「うむ……急いで戻ってきた。フランソワ、ちゃんと医者へは行ったか?」
「は、はいっ! 行きました!」
かぁーっ、とフランソワの頬が紅潮する。
先程の会話のどこに、赤面する要素があったのだろう。
「あ、あの、バルトロメイ様!」
「どうした?」
「お、驚かずに、聞いていただきたいのですけどっ!」
「何……?」
フランソワの言葉に、目を見開く。
やはり、懸念していた通りに悪い病気だったのだろうか。もしも近くの医者で無理だと言うならば、宮医を呼んでもいい。確か隣国のフレアキスタが、医療に関しては進んでいるはずだ。そちらから医者を招聘して――。
バルトロメイの考えが、そのように向かっている先で。
だが、フランソワは、これ以上ないほどの笑顔を浮かべた。
「赤ちゃんができたのです!」
……。
…………。
………………。
フランソワが、一瞬何を言っているのか分からなかった。
「わたしとバルトロメイ様の赤ちゃんです! もう三ヶ月だと言われました!」
「へ……へ?」
「わたしのこのおなかに、新しい命が宿っているのです! ああっ! わたし、幸せです! 元気な子を産みます!」
「ど、どういう……」
意味が分からず、言葉が出ない。
バルトロメイとフランソワの赤ちゃん――それが今、フランソワの腹の中にいる。
それと共に思い出すのは――たった一夜だけ、交わったあの夜。
「俺の……子供……」
「はいっ! わたしたちの子供です!」
実感が湧かない。
だが、フランソワがそう言ってくるのならば、間違いなく真実なのだろう。
よくよく考えれば分かることだったのだ。
吐き気の食欲減衰――それは、妊娠初期の症状だ。そんな可能性も考えることなく、何の病気かと心配していた。
「そう、か……」
思わず、バルトロメイにも笑みが浮かんでくる。
自分が父親になるのだと、そう考えると感無量だ。涙すら浮かんできそうになる。
愛するフランソワの腹の中に、子供がいると考えると――それだけで、嬉しくてたまらない。
結婚そのものが、バルトロメイにとっては縁遠いものだと思っていた。
自分の子供など、想像もしたことがなかった。
それが今――この小さな腹の中にいるのだ。
「フランソワ」
「はいっ!」
「ありがとう……」
バルトロメイはそのまま、フランソワを抱きしめる。
愛と、感謝を込めて。
「わたし、元気な子供を産みます!」
「うむ。頼む」
「名前はバルトロメイ様が決めてくださいね!」
「ああ……」
さて、どんな名前をつけてやろう。
フランソワに似てくれるのならば、きっと可愛らしい女の子に違いあるまい。バルトロメイの凶相は僅かにすら引き継がなくとも構わない。少しでも引き継げば、それだけできっと恐ろしい顔になってしまうだろうから。
そして、そんな新しい命に、ぴったりの名前。
それはきっと――自分たちを導き、引き合わせてくれた恩人。
「良い名前を考えておこう。楽しみにしていてくれ」
「はいっ!」
裏庭で、フランソワと抱きしめ合う。
名前を決めるその瞬間には、是非とも立ち会ってほしいものだ。
どうか、その性格だけは似ないで欲しいなと思いつつ。
遥か遠くの宮廷にいる、バルトロメイとフランソワを引き合わせてくれた皇后の名を、つけてやろう――。
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