第35話 新婚旅行の終わり

 テオロック山を下り、乗合馬車に揺られてようやく屋敷まで到着した頃には、とっぷりと日が暮れていた。

 そもそも五合目まででさえ、登るのにはかなりの時間が必要なのだ。朝一番からだったとはいえ、それを往復してから帝都まで戻れば、日が暮れるのも当然である。

 そして、当然ながら身体中が疲労感に溢れている。五合目で少し眠ったとはいえ、それでも疲れは取れていないのだ。


「お帰りなさいませ、皆様」


「……ああ、今帰った」


「ダンさん! ただいまです!」


「お疲れ様でございました。お風呂を沸かしておりますので、どうぞ」


「ありがとう、ダン」


 そのように疲れ切った体に、労いの言葉をかけてくれるダン。

 ありがたいけれど、風呂に入るよりも先に寝てしまいたいというのが本音だ。あと、結局フランソワの焼いた蛇肉を少しばかり食べただけであるため、割と腹が減っている。

 バルトロメイは、少しだけ考えて。


「先に食事の用意をしてくれるか? 腹が減ってな」


「おや……ご宿泊なされたところで、食事は出なかったのですか?」


「……」


 悩む。本当のことを言ってよいものか。

 道に迷って遭難した結果、野宿をする羽目になったと伝えて笑われまいか。

 しかし、そんなダンの言葉にフランソワが笑顔を見せる。


「お昼はわたしが作りました!」


「え……」


「バルトロメイ様もシャルロッテさんも寝てしまったので、わたしが自分で捕まえて自分で焼いたのです!」


「……あの、バルトロメイ様」


「……何も聞かないでくれ。また、おいおい話す」


「はぁ……」


 確かにダンからすれば、意味の分からない言葉だろう。新婚旅行で妻が獲物を捕まえてきて、焼いて夫へ提供するなどという話、他に聞いたこともないのだから。

 バルトロメイは微かに嘆息して、そのまま食堂へ向かう。


「では、すぐに夕食をご用意いたします」


「ああ、頼む」


「それから、シャルロッテ殿」


「……はい?」


「後ほど、お話がありますので少々お時間をいただきます」


「わたくし、眠いですの」


「使用人の身でありながら新婚旅行の邪魔をし、使用人頭である小生に何の言葉もなく仕事を休んだこと、反省していただかねばなりませんので」


「……」


 シャルロッテが少しだけ唇を突き出してむくれる。

 まぁ、ダンの言い分が絶対的に正しいから、反論は出来ないみたいだけれど。

 フランソワと共に食堂へ向かい、相変わらず対面して座る。そして、シャルロッテを引っ張って厨房の方へと引っ込んでいったダンが、そのまま一皿ずつ食卓へと並べていった。


「いただきます!」


「うむ」


「はぐはぐはぐ!」


 そして、健啖なフランソワの食べっぷりを見ながら、つい笑みが零れる。

 ようやく日常に帰ってきた感じだ。ただの一泊だったけれど、濃厚すぎる旅行だった。最早これを旅行と呼んでいいのだろうか。

 のんびりと食事をしながら、フランソワと言葉を交わす。


「バルトロメイ様! 旅行楽しかったですね!」


「う、うむ……そうだな」


「久しぶりに蛇も捕まえました! 美味しかったです!」


「……うむ」


「バルトロメイ様の摘んできてくださった山葡萄も美味しかったです! でも、やっぱり夕ごはんはお肉を食べたいですよね!」


「……うむ」


「あとは、やっぱりお猿です! わたし、お猿初めて見ました! 可愛いですよね!」


「……うむ」


 どうやら、フランソワの中では物凄く楽しかった旅行のようだ。

 心から疲れたけれど、こうしてフランソワが嬉しそうに喋るのを聞いていると、バルトロメイにもまた笑みが浮かぶ。

 休みを取って良かったなと、そう思えるくらいには。


「一体、どちらに旅行に行かれていたのですか……?」


 さて、あとの問題は。

 今回の旅行の顛末を、ダンにどう説明するかである。










 夕食を終えてバルトロメイは風呂に入り、それから自分の部屋へと向かった。

 疲れ切って眠かった体だけれど、そんな体でも風呂に入ると割と頭がはっきりしてきて、眠気が飛んだ。このまま寝ても、恐らく浅い睡眠しか得ることはできないだろう。

 さてどうするか、と考えながら自室に置いてある酒瓶を取り出し、グラスに注いでから適当な本を開いた。

 なかなか眠れない夜は、読書をするのがバルトロメイの趣味なのだ。


 度の強い蒸留酒をちびちびと飲みながら、ただバルトロメイが本の頁を捲る音だけが響く。

 そんな穏やかな時間――ふと、唐突にこんこん、とその扉が叩かれた。

 ダンでも来たのだろうか、とバルトロメイは顔を上げて。


「どうした?」


「あ、あの! まだ起きられていますか!」


「……フランソワ?」


 このような夜更けに、フランソワが訪ねてくるのは珍しい。

 いつも早くに眠りにつくフランソワは、バルトロメイが読書をしているのを隣で見たりしているけれど、この時間くらいには既に半分眠っているのだ。それを部屋まで送り届けるのも、いつものことである。

 だが、今日はこの時間まで来ることがなかったために、もう眠ったものだとばかり思っていたのだが。


「どうかしたか?」


 扉を開き、フランソワを迎える。

 フランソワの恰好は、普段から使っている寝間着だ。目のやり場に困る、ところどころ透けているものである。

 出来る限り見ないように心がけながら、バルトロメイは部屋の中へとフランソワを促した。


「あ、あの! このような夜更けに! 申し訳ありません!」


「いや、構わん。本を読んでいたからな。別に忙しいわけではない」


「し、失礼いましたす!」


「……?」


 言葉遣いすら訳が分からなくなっているフランソワに、バルトロメイは首を傾げる。

 部屋に入ってくるのは、珍しいことではない。だというのに、何故そこまで緊張しているのだろうか、と。

 だが、そんなフランソワはがちがちに固まりながら、手と足を一緒に出すような行進をして、バルトロメイの促す椅子へと座った。


「あ、ああ、ああああ、あの!」


「ど、どうした、さっきから……」


「わ、わたし、その、し、新婚旅行! た、楽しかったです!」


「う、うむ。なら良かったのだが……まぁ、今回は色々と問題があったことだし、また次の機会にはちゃんとした旅行を……」


 それを言いに来たのだろうか。

 新婚旅行が楽しかったという言葉は、何度となく夕食の席で聞いている。貴族家の箱入り娘で、後宮暮らしだったフランソワにしてみれば、こういう旅行も新鮮だったのだろう。まぁ、ヘレナの新兵訓練ブートキャンプによる野宿はあったみたいだが。

 だが、それ以上の言葉は――。


「で、でも! わ、わたし! クラリッサに言われまして!」


「うむ……?」


 そういえば、フランソワからよく名前の出てくる三人娘――クラリッサ、マリエル、シャルロッテ――のうち、クラリッサという友人には会ったことがない気がする。

 以前に『黒烏将』リクハルド・レイルノートの婚約者だという女性の名前がクラリッサだという噂を聞いたが、先日本人に会う機会があったから聞いてみたところ「俺の可愛い妹だ!」と答えられた。どうやら名前が同じだけの偶然だったらしい。

 機会があれば、紹介してもらうのも――と、思考が逸れる。

 今の話はとりあえず、フランソワがそのクラリッサとやらに何を吹き込まれたかだ。


「し、新婚旅行は! 夫婦が初めての夜を迎えるものなのだと!」


「……え」


「わ、わたし、バルトロメイ様の妻です! 覚悟はできております! どうぞ!」


「待て待て待て待て!」


 おもむろに訳の分からないことを言い出したフランソワを、慌ててそう止める。

 確かに一般的に、新婚旅行とは結婚した夫婦が結婚直後に行くものだ。そして、その夜は同じ部屋に泊まるのが当然である。

 そして、夫婦が同じ部屋で同衾したのならば、することは一つだ。慣例だとさえ言っていい。


 だが。

 そもそも二人きりではなく、さらに部屋ではなく野宿であったあの旅行において、そのような空気になるはずがない。


「ば、バルトロメイ様!」


「いや、その、待て! 落ち着け!」


「フランは! バルトロメイ様の子どもを産みたく存じます!」


「い、いや、だから!」


「大丈夫です! わたし、初めてです!」


「そういうことは聞いていない!」


 バルトロメイは焦りながら、そう叫ぶ。

 だが、そんなバルトロメイの反応に、フランソワは表情に陰を落とした。

 膝の上に置いた拳を震わせながら。

 顔を真っ赤にして――バルトロメイを、見て。


「わ、わたし……! 妻として、相応しくないでしょうかっ!」


「は……?」


「結婚式も、してくださいました! 愛してると、仰ってくださいました! 妻として認めてくださっていると、そう思っていました! で、でも、どうして、何もしてくださらないのですか!」


「う……」


 涙目で、そうバルトロメイを見るフランソワ。

 確かに、言っていることは正しい。夫婦という関係にありながら、バルトロメイとフランソワは別の部屋で寝泊まりしており、一切何も手を出していないのである。

 フランソワに魅力がないというわけではない。まだまだ幼い気はするけれど、それでも成熟しつつある女性の魅力は備えている。

 だというのに、何も手を出していない――それは、確かに端から見れば異常なことに思えるだろう。


「わたし、バルトロメイ様にでしたら……!」


「そ、それは、その……」


「縛られても大丈夫です!」


「だからその知識はいらない!」


 何故縛るのか。そういう特殊な行為を望んでいるのだろうか。

 ではなく。

 バルトロメイは、大きく深呼吸をする。まずは自分が落ち着かなくてはならない。

 何も手を出さない――それが、これほどまでにフランソワを不安にさせてしまったのだ。


「……フランソワ」


「は、はいっ!」


「俺は……その、フランソワを、妻として認めている。俺が愛しているのは、フランソワだけだ」


「でしたらっ!」


 受け入れることのできない理由は、どこにもない。

 ただ、バルトロメイが臆病なだけだ。

 ただの臆病で何も手を出さないことを、勝手に自分で紳士的だと思っていたに過ぎないのだ。

 なんという偽善――。


 そして、バルトロメイの答えを待つことなく、フランソワが胸に飛び込んでくる。

 小さな体でバルトロメイの体を抱きしめてくるフランソワは、当然ながら色々柔らかい部分が当たっている――。


「どうか、フランを、愛してくださいませ!」


「うっ……」


 胸の中で、震えているのが分かる。

 フランソワは、相当の覚悟を持ってこの部屋へとやって来たのだ。

 それを、どうして拒絶することができるだろう。


「……フランソワ」


 ゆえに、バルトロメイにできることは。

 この胸の中で震える若妻を受け入れ、その身に証を刻むことだけだ。


「俺が、臆病だっただけだ。今まで、不安にさせてすまなかった」


「バルトロメイ、様……!」


 フランソワを、そっと抱き締める。

 湯上りの香りが鼻腔をくすぐり、それだけで頬が熱くなる。

 こうやって抱き締めて、声を聞いて、香りを嗅いで、改めて分かるのだ。

 フランソワのことを、心から愛していると――。


「フランソワ」


「バルトロメイ様……」


 どちらからともなく、離れ。

 そして、見つめ合い。


 ゆっくりと、その唇が重なった。


 この日、バルトロメイとフランソワは同じ寝台で夜を共にした。

 互いの愛を確かめ合う濃密な甘い時間は、二人だけの世界でゆっくりと過ぎていった――。

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