第30話 波乱の道中
人の多い馬車の中ということで会話を控えていると、時間というのは随分長く感じるものだ。
外の流れる景色に身を任せながらのんびり揺られるが、しかしその心中は穏やかではない。右隣には先に乗ったシャルロッテ、左隣には後に乗ったフランソワと、何故か挟まれてしまっているのだ。せめてシャルロッテとの間にフランソワを置いて、少しばかり距離を取りたいというのが本音である。
フランソワが怒らなければいいが――とちらりと隣を見やるが、そんなフランソワは外の景色を眺めながら笑顔を浮かべている。さすがに公共の場ということで騒ぎはしないが、今にも「バルトロメイ様! すごいです!」と叫び出しそうな勢いだ。
そんな姿も可愛らしく、つい苦笑が漏れてしまう。
そして安い乗合馬車ということで、木板に皮を張っただけの椅子に尻が痛くなってきた頃合、ようやく馬車が止まった。
「着いたな」
「わ! もう到着ですか!」
「うむ。俺から降りよう」
最後尾の三人席を独占している状態であるため、前の席の者が降りるまで少しばかり待たねばならない。
そして、前方の客が軒並み降りたあたりで、ようやくバルトロメイも腰を上げて馬車を降りた。
毎朝乗っている乗合馬車ではあるが、さすがにテオロック山までとなると距離も遠いため、窮屈な気持ちになってしまう。それがようやく、大地に足を下ろし、澄んだ空気を吸うことによって落ち着いた。
目の前に見えるのは、左右を鬱蒼とした木々に囲まれた森。
そして、前方――雄大に聳える、帝国最大の巨峰テオロック山。
バルトロメイも仕事で何度か来たことがあり、中腹あたりまで登ったこともある。だが、このように観光という形で改めて来てみると、また見える景色が違うものだ。
テオロック山のあまりの大きさに、息を呑んでしまう自分がいるのが分かる。
「ふぅ……わわっ! す、すごく大きい山です!」
「あら、フランはテオロック山に来たことがありませんの?」
「はいっ! わたし初めて見ました! こんなに大きかったのですね!」
フランソワが驚きに目を見開きながら、そう叫んでいる。
そんなフランソワの姿に、一緒に降りたのであろう別の客がくすくす笑っているのが分かった。テオロック山は帝都から程近い場所にあるし、行こうと思えばこのように帝都から直通の馬車が出ているほどに有名な観光地なのだ。そんなテオロック山の雄大さにそれだけ驚いているということは、今まで全く来たことがないということを示している。
つまり、周囲の客は「田舎者が」と嘲笑っているのだ。
明らかに好意的ではないそんな視線ではあるけれど、しかしバルトロメイは一睨みするだけで留めた。
「さて、では行こう。シャルロッテ、先導を頼む」
「承知いたしましたの」
「フランソワ、行くぞ」
「はいっ!」
好奇の視線から逃げるように、バルトロメイは先を急ぐ。
バルトロメイが嫌われたり怖がられたり馬鹿にされることは、何も思わない。だが、それがフランソワにまで波及すれば話は別だ。
純粋で真っ直ぐなフランソワの心が、あのような好奇の目に晒されることで傷付いたとなれば、その場でバルトロメイは暴れてしまうかもしれないのだから。
もっとも――そんな風に心配しているフランソワは、うきうきと弾んでいる気持ちを隠そうともせずに一緒にいるけれど。
「さ、フランソワ」
「はいっ!」
「はぐれてはいかん。手を貸すといい」
「はうっ!?」
す、と手を差し出す。
山というのは、決して油断してはいけない。シャルロッテが道を知っているとはいえ、これから向かうのは獣道なのだ。そして獣道は、その名の通り獣が通るための道であり、人が通るための道ではない。つまり、整備をされていないのだ。
大きめの石など転がっていれば、それに躓くかもしれない。這い出た枝でもあれば、足を引っ掛けるかもしれない。中には極端な例だが、草木に隠れているだけで一歩隣は崖ということもあるのだ。
そういった危険があるために、手を繋いで互いの安全を確保しておくのは当然――。
「あ、ああ、あああ、あのっ!!」
「……どうした?」
「ふつ、ふつつ、ふつつつつつか者ですがっ! よろしくお願いしましゅっ!」
「いきなりどうした」
何故そこで気合を入れる必要があるのだろう。
ふーっ、ふーっ、と深呼吸をしてから、フランソワは思い切り気合を入れて、それからバルトロメイの手に触れた。
ちょん、と冷たい指先が触れて――。
「――っ!」
「……っ!」
どくんっ、と激しく心臓が高鳴るのが分かった。
思えば夫婦になって今まで、このように手を繋いだことは一度もない。体が触れたことも、結婚式の際に抱えたぐらいのものだ。直接的にこのように触れ合うのは、初めてだとさえ言っていい。
思っていた以上にフランソワの掌は柔らかく、そして冷たく、小さい。バルトロメイが少しでも力を入れれば、そのまま壊れてしまうのではないかと思えるほどに。
ゆえに――触れ合ったまま、動けない。
これほど、手を繋ぐという行為には破壊力があったというのか――!
「そ、その……」
「は、はいっ……!」
「い、行くぞ……」
「は、はいっ……!」
ろくな言葉が、口から出てくれない。
もうちょっと良い言い回しがあるだろうに、こういう時に限ってまともに動いてくれないのだ。緊張しているフランソワへかける、優しい言葉の一つや二つくらい出てきてくれればいいものを。
しかし、バルトロメイはただフランソワの手を引いて、無言で歩く。
フランソワもまた、頬を紅潮させながら歩いているのが分かる。
手汗などかかないだろうか。それで不快にさせたりしないだろうか。毛深いと思われていないだろうか。懸念が幾つも幾つも浮かび上がってくるけれど、しかし繋いでしまった手を離すわけにはいかない。離したくない。
と――そんなバルトロメイとフランソワの様子を見て。
「……ふーん」
「なんだ、シャルロッテ」
「いえ、何でもありませんの。まぁ、わたくしはまだその域に達していないということですの」
「……どういう」
「ふぅ。先導も疲れましたの」
まだ十歩も歩いていないだろうし、そのように突然に歩くペースを落とすシャルロッテ。
一体どうしたのだろう――そう考えていると、唐突にバルトロメイの左隣へとやってきた。
そして、朝の鍛練で気配を消してバルトロメイに近付くときのように。
シャルロッテはするり、と極めて視線にバルトロメイの手を取った。
「お、おい……?」
「あら。わたくしのことは心配してくれませんの? わたくしなど先導している間に石にでも躓いて転んでしまえと思っていらっしゃるのですね」
「い、いや、そういうわけではないが……」
「でしたら、わたくしの安全のためにお手を拝借いたしますの」
「……」
これはどんな拷問なのだろう。
右手にはフランソワの小さく柔らかな掌。左手にはシャルロッテの細くしなやかな掌。
両手に花とはまさにこのことである。あまりに慣れていない状況に、心臓の爆音は全く止んでくれないけれど。
もっとも。
右手の掌には弓を持ち続けた弓ダコ、左手の手の甲には何かを殴り続けた拳ダコがあることが、明らかに普通の令嬢と異なるところなのだろうけれど。
シャルロッテに手を引かれながら、ひたすらに獣道を歩く。
本当に、この先にそんな宿泊施設があるのだろうかと疑問に思うほど、難儀な行程だ。
だというのに、シャルロッテの歩みには何の迷いもない。バルトロメイの手を握りながらも、半歩ほど先を歩きながら先導し続けるような状況だ。そして前にシャルロッテ、後ろにフランソワと手を繋いでいるバルトロメイは、この行程を半ば体を横にしながら歩いているのがようなものだった。
本当に、これが何の拷問なのか疑問に思うほど。
「あ、あのっ! シャルロッテさん!」
「どうかしましたの?」
「本当に……この先に、その、温泉旅館があるんですか!?」
「ええ、ありますの」
「……ふむ」
フランソワの掌が、若干震えているのが分かる。
それも当然だ。これまでずっと貴族家の令嬢として暮らしており、その後皇帝のお膝元とさえ言える後宮にいて、その後はバルトロメイの屋敷にずっといたのだ。このような山道など登ったことがあるまい。
やはり、このような道は――。
「フラン、大丈夫ですの」
「う、うっ……!」
「最後の試練――あれを思い出せば、多少の山道など何の苦にもなりませんの」
「お、思い出しているから、怖いんです!」
「……確かに、わたくしもあれは本当に思い出したくない記憶ですの」
何をやったんだヘレナ。
そう疑問に眉を寄せるが、しかし二人は完全に分かり合っているらしい。それほどトラウマになるようなことをやったのだろうか。
ぶるっ、とフランソワが震える。
「一泊二日……! あのときと、同じ……!」
「違いますの。あのときみたいに、怖いことはありませんの」
「あ、ああっ……! ヘレナ様が一人、ヘレナ様が二人、ヘレナ様が三人……!」
「落ち着きますのフラン! ヘレナ様は一人しかいませんの!」
ばっ、とバルトロメイの手を離し、そのままフランソワに駆け寄るシャルロッテ。
震えて足を出せなくなったフランソワの小さい体を、さして変わらない体躯のシャルロッテがぎゅっと抱きしめる。
落ち着かせるように、その背中をさすりながら。
「大丈夫、大丈夫ですの、フラン。何も怖いことはありませんの」
「で、でもっ……! 常在戦場――警戒を怠ることなく、いついかなる攻撃にも備え、常に気を張り……!」
本当に何をやったヘレナ。
「ふぅ……わたくしの失敗ですの。でも、わたくし達は最後の試練を乗り切りましたの。大丈夫ですの」
「でも、でも! 気を抜いたらそこでヘレナ様が襲ってきますっ……!」
「ヘレナ様は宮廷にいらっしゃいますの。ここにはおりませんの」
「い、いえっ! だってあのときだって! ここは大丈夫だと思っていた場所にだって現れて……!」
次に宮廷に行ったときには、フランソワの代わりに殴っておこう。
何をやったのか大抵想像がついた。そして、それがフランソワの心の傷にすらなっているということも分かる。
だが、それをやった気持ちも分かるというものだ。
青熊騎士団でも行っている
後宮で
もっとも、次に会ったら殴ることに変わりはないけれど。
「バルトロメイ様、申し訳ありませんの」
「いや、構わん……まぁヘレナは殴っておく」
「何故ですの?」
「俺が個人的に気に入らんからだ」
今は皇后だといえ、筋金入りの鍛練馬鹿であるヘレナならば、模擬戦をしようと誘えば乗ってくるに違いあるまい。
そのときに隙を見て殴る。そして殴ったのも模擬戦であるのだから仕方ないと逃げ道がある。
震えるフランソワの髪に、そっと手を触れる。
「バル、トロメイ、様……?」
「フランソワ、安心しろ」
「え……!」
「フランソワは、この俺が必ず守る。どのような敵が現れようと、この『青熊将』バルトロメイ・ベルガルザードが必ずや守ってみせよう。俺の側にいれば、それはどこよりも安全な場所だ」
「バルトロメイ様……!」
ぎゅっ、と。
そう、フランソワの震える体を抱きしめる。
そして、バルトロメイが抱きしめているうちに、どうやらフランソワも少しは落ち着いてくれたようだ。
そっと離れ、そして涙の浮かんでいる目元を拭う。
フランソワに似合うのは、笑顔なのだ。涙は似合わない。
「落ち着いたか?」
「は、はい! 申し訳ありません!」
「いや、大丈夫だ。落ち着いたならば、先に進もう。どうやら、まだ先のようだからな」
ふぅ、と溜息を吐いて体を起こす。そして、再びフランソワの手を取り、前を向いて。
何故か、シャルロッテが両手を広げて、そこに立っていた。
「さぁ」
「……何をしている」
「次はわたくしかと思いまして」
「……」
「冗談ですの」
ちぇ、と唇を尖らせるシャルロッテ。
こういう悪癖さえなければ、理知的で聡明な少女なのだろうけれど。どうしてこうなった。
「まぁ、バルトロメイ様は許してくれたから、いいですの」
「む……? どういうことだ?」
「申し訳ありませんの、と謝罪をしたら、構わんと言ってくださいましたの」
「は……?」
いや、確かにそう言ったけれど。
それが謝罪だとかそういう話は一切聞いていない。むしろ何をバルトロメイが許すというのか。
すると――シャルロッテは普段の無表情を崩し、笑顔を見せて。
「道に迷いましたの」
「はぁーっ!?」
そう。
可愛らしくぺろり、と舌を出した。
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