第6話 若妻の鍛練

「ふぁ……」


 まだ日も昇らないうちから、バルトロメイは目を覚まし、寝台から体を起こす。

 軍に所属している者の朝は早い。少なくとも新兵訓練を受けた者は、日が昇る前から教官に叩き起こされるのが常である。そして、その後も部隊に入ってから何度も訓練を重ね、実戦においては満足に睡眠を取ることも難しい場合もあるため、このように早起きが習慣となってしまうのだ。

 昨日は酒を飲んだためか、やや頭に鈍痛が残っているのが分かる。しかし、かといってこれ以上眠ることはできないだろう。軍人としての性もそうだが、四十を迎えた体ではなかなか二度寝も難しいのだ。


「さて……」


 寝台から起き、まず上半身の寝間着を脱ぐ。

 昨日はフランソワの来訪があったために休みを取ったが、今日は仕事だ。訓練を見てやらなければならないし、事務仕事もまだ残っている。昨日仕上げた書類も提出せねばならない。将軍というのも兵を率いてばかりではなく、こういった細かい仕事も多いのだ。

 とはいえ、軍人として兵を率いるにあたり、己も鍛えておかねばならない。ゆえに、バルトロメイにとって早朝とは自己鍛錬のできる数少ない時間なのだ。


 よっ、と体を伸ばす。そしてしっかりと体を解し、柔らかくしてから鍛錬の開始だ。

 腕立て伏せや腹筋といった基本の鍛錬に、正拳突き等を行う。毛深いと自覚のある肌に汗が浮き始めた頃に、漸く空が明るくなってきた。

 あとは軽く流す程度に走って、体を拭いたら終わりでいいだろう。

 そう考えながら、ふと窓の外へ目をやる。


「む……?」


 すると、バルトロメイの邸宅における、やや広めの庭にフランソワが出ているのを見つけた。

 まだ朝も早いし、外に出るような用事などあっただろうか、と首を傾げる。

 しかし、随分と動きやすそうな格好だ。


 基本的に、女性はスカートを履くのが一般的だ。女性でズボンを履くのは、まだ成人の儀も済んでいない者だけである。

 成人の儀は十五を迎えたときに行われるため、十四歳という年齢のフランソワは、まだ社会的には未成年だ。とはいえ、少なくとも十を超えた令嬢で、ズボンを履いて外出する者はいないだろう、と思われるくらいに非常識なのである。

 だが、現在のフランソワの格好。

 恐らく麻で作られたのだろう、簡素な上衣とズボンである。ところどころ擦り切れ、随分長く使っていたのではないか、とさえ思える代物だ。


 窓を開き、外を眺める。

 フランソワはどうやらバルトロメイに気付いていないようで、そんな動きやすい格好で柔軟体操を始めた。

 どうやら、運動をするために庭に出たようだ。


「よいしょっ! さぁ! では始めます!」


 バルトロメイは二階にいるというのに、よく響く声で気合を入れていた。声が大きい、とは思っていたが、この距離でも問題なく聞こえるくらいに大きい。

 近所迷惑にならないだろうか、と少しだけ心配するが、さすがに邸宅の壁を越えて隣に響くことはあるまい。


 そしてフランソワは柔軟体操が終わったのか、まずは右足を前に出し、腰を落とし、そのまま正拳突きを始めた。

 一、二、と数を数えながら行うそれは、バルトロメイにしてみれば、出来が悪い。

 芯がぶれているし、突き出した拳も正確に一点を狙っていない。加えて、突き出した拳に体が引っ張られて、ふらついているのさえ分かる。

 右が終われば、今度は左。

 利き手ゆえの違いかと一瞬思ったが、しかし左でもやはり姿勢は崩れている。むしろ、右の方がまだましだったくらいだ。


 バルトロメイから見て、才能は全くない。

 動きに光るものもないし、積み重ねてきた練度もそこにはない。少なくとも武器なしで対峙すれば、新兵相手でもあっさり負けるだろう。

 もっとも、貴族令嬢に徒手格闘の嗜みなど必要あるまい。フランソワまで戦場に出ることなどないのだから、才能があろうとなかろうと関係はないのだ。


 一生懸命なのは良いことだし、体を動かすことは健康にいい。

 むしろ、そのように動く姿を見ていると、微笑ましいとさえ思える。知らず、バルトロメイの頬も緩んでいた。

 都合百回ずつの正拳突きが終わり、フランソワは軽く額の汗を拭った。

 運動が好きなら、一緒に走ろうか――そう声をかけようと、バルトロメイは腰を浮かせて。


 フランソワが何かを手にするのを見て、浮かせた腰を再び沈めた。

 それは、中庭に来たときから持っていたもの。体格の小さなフランソワにしてみれば、随分大きい。

 弓矢、である。


 貴族の嗜みに、弓などあっただろうか――そう疑問には思うけれど、そういえば鷹狩りだとかそういったものがあったな、と思い出す。

 しかしそれにしても、随分と大きな弓だ。

 新兵では引くこともできそうにない、強弓と呼んでいいだろうものである。

 弓は純粋にその大きさが大きければ大きいほど、飛距離に繋がるのだ。良い弓兵は、相応に大きな弓を使うのが当然である。だが、大きい弓は引くのに相応の力が必要であり、フランソワのような細腕で引けるとは全く思えない。


 だが、フランソワはそんな弓を片手に、逆の手で自分の体に胸当てをつけていた。

 女性騎士団、と呼ばれる銀狼騎士団の弓手が、常に行う装備である。バルトロメイも詳しく聞いたわけではないが、女性の場合だと弓を引いた後、戻ってくる弦により胸が切られることがあるらしいのだ。だからこそ、女性の弓手は必ず、胸当てをつけなければならない。

 それほど大きさがあるようには思えないが――と若干ながらその胸元に注目し、いかんいかん、と首を振る。

 女性の胸元をまじまじと見るなど、あるまじき失態である。

 もっとも、フランソワはそんなバルトロメイの視線に気付いていないし、仮に気付いていたとしても嫌がらないとは思うが。


 そしてフランソワは強弓を持ち。

 構え。

 そして、弦を引く。


「――っ!」


 ぞくり、と背筋が震えた。


 流れるような所作で、弓を引いたフランソワ。

 その動きには一点の無駄もなく、僅かな曇りもない。理想的な弓の引き方を体現した、とさえ言っていいその動きは、バルトロメイにとって衝撃すら走るものだった。

 八大将軍が一人であり、帝国でも屈指の弓の使い手である『黒烏将こくうしょう』リクハルド・レイルノートの、その一射を初めて見たときを思い出すほど――それは、流麗だった。


 寸分の狂いもない動きから、先端の鏃が狙いを定め、そして引き絞る。

 そこまでの動きから、何一つ目を離すことができない。

 ひゅんっ、と限界まで引き絞られた弦が戻り、それと共に矢が飛んでゆく。

 その先に、的らしいものはない。

 一体、何を狙ったのか――そう、バルトロメイの視線が、矢の放たれた先に向かうと。


 その鏃が撃ち抜いたのは。

 中庭にある木から落ちる、一枚の木の葉だった――。


「なっ……!」


 偶然などでは、決してない。

 明らかに、研ぎ澄まし、狙い澄ました一射。

 それは当たる――いや、あたる。


 神業とさえ呼んでもいい射撃に、息をすることすら忘れそうになる。

 少なくとも、バルトロメイには不可能な所業だ。

 ただの一射で、木から舞い落ちる木の葉の一つを、正確に撃ち抜くことなど。


「……」


 フランソワが沈黙したままで、放たれた矢を見る。

 その表情に、特に嬉しそうな様子も見られない。

 つまり。

 フランソワにしてみれば、矢は、当たるべくして当たったのだということ――。


 フランソワが弓を地面に置き、とてとてっ、と放たれた矢を取りに行く。

 どうやら一本しかないらしく、木の葉を超えて壁に弾かれた矢を拾い上げるつもりなのだろう。

 だが、その道中で盛大にこけて、頭から地面に突っ込んでいた。


「あぅ……」


 恐らくぶつけたのだろう、鼻の頭をさするその姿は、昨日と変わらぬフランソワ。

 だというのに、まるで矢を放つそのとき、別の誰かが乗り移ったのではないか、と思えるほどに集中していた。


「ふむ……」


 意外すぎるそんなフランソワの姿に、バルトロメイは大きく嘆息し。

 そして、腰を浮かし、立ち上がった。

 バルトロメイもまた、鍛錬をしていたのだ。そして、フランソワもどうやら鍛錬をしている。

 つまり、その帰結は一つ。


 夫婦になって初めての朝は、一緒に走ってみよう――。

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